宿縁 十二月号 中原寺

  【人生はうれしいと悲しいの半分ごっこ】

 近年は地球の気候変動により日本の四季(春・夏・秋・冬)もニ季(夏・冬)になったと言われています。
 海や山や空の大自然の変化を五感に受けながら育まれた古代から近世にいたる人の心の豊かさが同時に失われてきているようにも思います。
 でも寺の周辺の景色は今、晩秋から初冬への装いを見せ、木々の葉が太陽の光を浴びてそれぞれの色が輝いています。
 仏教の教えが最初に説かれた古代インド人の人生観に四住期の考えがあります。➀学生期(がくしょうき)➁家住期(かじゅうき)➂林住期(りんじゅうき)、そして➃遊行期(ゆうぎょうき)です。
 「学生期」は、まだ一人前ではなく、学び、心身の鍛錬を通して成長していく期間です。「家住期」は、仕事を得て懸命に働き、結婚して家庭を持ち、子を育てるために頑張る期間です。「林住期」は、世俗を離れ迷いが晴れ、自分らしく自由に人間らしく生きる時期です。「遊行期」は、人生の最後の場所を求め、遊ぶように何物にも囚われない人生の最終盤です。仏教以前からあるこの四住期は人生を四つに区切る古代インドの人生観です。段階ごとに定められた義務を果たしながら一生を終えるのが一つの理想とされています。
 古代中国にも似たような「人生を四季に見立てた五行思想」があります。春は「青春(せいしゅん)」、夏は「朱夢(しゅむ)」、秋は「白秋(はくしゅう)」、冬は「玄冬(げんとう)」といって、これを人生に当てはめたものです。幼少期はまだ人として芽吹く前の冬であり「玄冬」。若くしてこれからの未来に希望をふくらませ、成長し続ける時期は「青春」。世の中で中心的な役割を果たし、バイタリティあふれる活躍を見せる現役世代が「朱夢」の時期。最後の「白秋」は老年期で、人として穏やかな空気や、たたずまいを見せ、人生の実りを楽しむ時期なのです。「五行思想」とは、万物は「木・火・土・金・水」の五種類の元素から成り立ち、互いが影響し合いながら変化、循環しているという考え方です。
 これらの人生のあり方を皆さんはどう思われるでしょうか?
 わが身に引き当ててみると、あくまで人生の理想郷ではないかと考えてしまいます。
 勿論、それに向かって努力することは大事なことですが、現実はなかなかそうはいきません。
 釈尊がさとりを開いて以来、その教えが大陸を経てさまざまな国や民族に伝えられて今日に至るまでには変遷がありました。
 その大きな主流となったのが大乗仏教という教えです。大きな乗物という意味ですから、その教えはあらゆる人々をさとりに向かわせる乗物であるから乗といい、自らさとりを求めるとともに、広く一切の人びとをも救済しようとする教えをいうのです。
 常識的に考える「さとり」は、高みに上がるように思いがちですが、そうでしょうか?私にはどうもそうは考えられません。釈尊が目覚められた「さとり」は、人間の思い上がりや自分中心の愚かさ、つまり我を良しとする生き方の凡夫性に目覚めよということだと思います。
 仏教の世界宗教たりえるゆえんは、生きとし生けるものすべてが平等に救われる教えでなくてはなりません。
 アンパンマンで知られ、作詞のやなせたかしさんの『手のひらに太陽を』の歌詞は、見事に全生命への賛歌をあらわしています。
 「ぼくらはみんな生きている ミミズだって オケラだって アメンボだって トンボだって ミツバチだって みんな  みんな 生きているんだ 友だちなんだ 生きているから 唄うんだ 悲しいんだ うれしいんだ 笑うんだ」と。
 今、地球はあまりにも人間中心で独占しようとしています。世界一危険な生きものは紛れもなく人間でしょう。人間とは他の人ではなく「この私」です。
 釈尊の教えを権力者や貴族たちの地位を保持する道具にした過去の誤った歴史を庶民の心に転換せしめた人が「親鸞さま」です。
 そして顕された『顕浄土真実教行証文類』の真仏土巻で、
 釈尊は『「大阿弥陀経」で、どのようなものにも障りなき光で摂(おさ)め包む無碍のはたらきを阿弥陀仏(無碍光如来)といい、無数の暗闇を照らして、みな常に明るくなる。あらゆる人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいにいたるまで、その光明を見たてまつらないことがない。』とお示しくださいました。
そして親鸞さまご自身は、
 「いま、まことに知ることができた。悲しいことに、愚かな親鸞は、好ましいものに対する強い執着の海に沈み、名誉と利益の深い山に迷って、救いの光の中にいることを喜ばず、真実に近づくことを楽しいとも思わない。恥ずかしく、嘆かわしいことである」(信巻)と述懐されています。
 如何でしょうか?
 これらのお言葉は末世に生きる人びと(私)のために常に輝きを増しています。