【前住職閑話】~あなたにとっての秋は?
秋らしい日が続いて有難いことです。
穏やかなお天気の日の午前、雑音のまったくしない室内にいて、ゆっくりと飛ぶ飛行機の音だけが聞こえるのはなんとも心地よいものです。
それは子どもの頃、同じような場の雰囲気があったような気がする懐かしい世界でもあるのです。
♪誰かさんが誰かさんが誰かさんが みつけた
ちいさい秋ちいさい秋ちいさい秋 みつけた
めかくし鬼さん 手のなる方へ
すましたお耳に かすかにしみた
呼んでる口笛 もずの声
ちいさい秋ちいさい秋ちいさい秋 みつけた♪
あなたにとって、秋は何をイメージしますか。
行楽の秋、味覚の秋、スポーツの秋、芸術の秋、読書の秋。人それぞれの思いがあるでしょうね。
「秋」を辞書で引くと、実る、万物が成る、熟す等とありますから、秋は成熟ということを考えさせられます。
味を聞く。目で聞く。耳で聞く。人間の成熟には「聞く」ことの大切さが不可欠であると思います。
仏さまの教えを聞くことを「聴聞(ちょうもん)」といいますが、聴も聞もキクです。しかし「聴」はこちらからキク、「聞」はあちらからキコエル、ということです。仏さまのお話を聞き続けていると仏さまの声が聞こえてくるのです。
清らかな美しいみ声が静かに穏やかに聞こえてくるのです。
ご一緒に聴聞いたしましょう。
手足のほくろとメラノーマ
先日は、千葉県皮膚科医会講演会がありました。
【テーマ】ダーモスコピーABC その4
『足底色素細胞母斑の診かたとメラノーマとの鑑別』という演題で
東京女子医科大学東医療センター 皮膚科 教授 田中 勝 先生
が講師でした。
千葉県皮膚科医会では昨年からダーモスコピーの勉強会を行っていますが、講師は千葉大学の外川八英先生が務めて下さっていました。今回は真打登場とでもいったところで、田中先生の講演でした。外川先生が新進気鋭の若さでこと細かに解説して下さったのに対し、田中先生は初心者にも分かりやすく足底の色素斑についてほくろとメラノーマの違いを解説して下さいました。
両者の鑑別点はメラニン色素が皮溝にあるか、皮丘にあるかにかかっています。これを理解するには手のひら、足の裏(掌蹠)の皮膚の構造を知ることが一番です。
手足を眺めると指紋が平行にみえますが、これに直角方向の皮膚断面をみると蒲鉾状に盛り上がった皮膚の部分(皮丘)とその間の溝の部分(皮溝)が交互にまるで畑の畝のようにみえます。
そして、それぞれの部分の下には、真皮に向かって畝状の表皮突起が見られます。
それぞれの突起をcurista profunda intermedia(皮丘の下)、crista profunda limitans(皮溝の下)と呼びます。
文字での説明では解りにくいので、講演のスライドを拝借しました。(田中先生にはことわっていませんが、ごめんなさい)
Crista profunda intermediaの畝には真皮内のエクリン汗管が規則的に配列して貫通しており、皮丘部の中央にエクリン汗孔として開口しています。
皮溝部にメラニン色素が増えてくると、その部に平行線状の色素沈着がみられます。これを皮溝平行パターン(parallel furrow pattern )と呼び良性のほくろの典型的なパターンです。これに対し皮丘部に平行線状の色素がみられるものを皮丘平行パターン(parallel ridge pattern )と呼び悪性黒色腫の場合にみられます。
実は良性のほくろでも皮丘部でもメラニンはできるのだそうです。ただ、角層まで上がっていかないので皮溝部だけが濃くみえるのだそうです。
ただ、足底部は荷重がかかるために色素がずれて斜めに上昇してくるために、皮溝をはさんで、枕木が2本並んだような線維状のパターンをとることもあります。まるで電車の線路が並んでいるような感じです。それで、皮丘トラムパターンとも呼ばれます。
さまざまな亜型があり、1本実線、1本点線、2本実線、2本点線などの型をとったり、場合によっては格子型をとったりします。額面通りに皮丘か、皮溝かをみるよりも色素の分布が規則的か否かをみる方が重要とのことでした。
例えば、抗がん剤による手足の色素沈着や、Peutz-Jeghers症候群という、遺伝性の色素斑を多発する疾患では手足に色素斑を多発しますが、これもやはり皮丘平行パターンをとります。
メラノーマの場合は不規則に色素が増えるためにどのような部位でも色素が増えます。ですから一部のみをみると皮溝平行パターンをとっていたりすることもあります。
やはり全体を見渡して、不規則かつ濃淡の混在をみることが判断の根幹だそうです。
さまざまなダーモスコピー像を提示していただいて、かなり整理がついたような気もしましたが、典型的なものはともかくやはりバリエーションのあるものは専門家の判断を仰がないと難しい気もしました。
講演の最後に田中先生からテレビ出演のお知らせがありました。
10月30日のNHKの「ためしてガッテン」に出演するとのことです。ほくろとメラノーマについてどのような話が聞けるのでしょうか。楽しみです。
リカルド・カシン 大岩壁の五十年
リカルド・カシン(Riccardo Cassin)
大岩壁の五十年 (50 years of alpinism)
リカルド・カシンは1909年生まれのイタリアの天才クライマーです。
1930年代には、アルプスにおける数々の困難なルートを初登攀し、近代のアルピニストの旗手といっても過言ではないでしょう。戦前に活躍したクライマーなので、過去の登山家といえるかもしれません。
しかし、1975年、66歳になってもあの世界で最も難関とされたローツェ南壁にイタリア山岳会の若いクライマーを率いて挑戦したように戦後もアルピニズムの第一線に立って活躍を続けていました。
この本は1977年にイタリア語で書かれ、1981年に英訳版が発行されました。これらを基に1983年に水野 勉氏が翻訳しました。
著者はこの本を書いた経緯を本のはしがきに次のように書いています。
『「リカルド、なぜ君は自分の登攀について本を書こうとしないのだ。アルプス前山にはじまって、アルプスやドロミテの登攀のこと、さらに、輝かしい海外遠征と、書くことはいっぱいあるじゃないか」 わたしはしばしばそう尋ねられ、自分でもそのことをいく度か考えたことがあるが、それほど真剣には考慮しなかった。しかし、1975年のローツェ南壁の登攀に失敗して、軍用機で故国へ向かっていたとき、またもや、この問いかけがわたしをうるさく悩ましはじめた。・・・まったく皮肉なことだが、あのときこそわたしがクライマーとしての自分の生涯においてはじめて敗北感を味わったときなのだった。』
数々の成功と共に初めての失敗を経て山々が人知を超えた人生の教師であることを強く認識し、その長い登山経験を身内にたぎる熱い血潮と情熱で書き綴ろうと思ったと、いうようなことを述べています。実に山の真打ちが人生の円熟期に至って初めて書いたといった本なのですが若々しい躍動感に満ち溢れている不思議な本です。
カシンの初期の登山はロンバルディのグリニァというロック・クライミングのエリアから始まりました。17歳の時コモ湖の近くのレッコという町に移り住みその後終生彼のホームタウンとなりました。当初夢中になっていたボクシングをやめて短いが困難なルートを次々に制覇していきました。相棒はマリ・ヴァラーレ 、マリオ・デッロロ(愛称ボガ)などでした。より困難な課題を解決するためにこの頃からカシンはすでにピトンを単なるプロテクションとしてだけではなく、より積極的な補助用具として使い始めていました。マリの紹介でエミリオ・コミチに出合い、人工登攀の考え方やダブル・ロープなどのドロミテ・テクニックを学びました。それで、一部では彼らのことを「はしご職人」とけなしたりしました。
彼は次第にそのグリニァ山域より巨大で垂直にそそり立つドロミテ山域に目を向け興味をそそられていきました。
1935年には、彼の若きザイル・パートナーのヴィットリオ・ラッティと共にトッレ・トリエステの南東リッジを初登攀しました。二人はオーバーハングを越えた所に見つけた洞穴でロジンの臭いのするユリを褥として数時間のビバークをしました。「穏やかな8月の夕べには、月光が冴え、頭上には暗闇の中に大きな岩塔がそそり立っていた。ラッティにはそれまでの経験の中でも、心から愉快なひとときだった。今になってみると、これらの時間はさらに一層重要なもののように思える。彼は戦争の暴力の中で死んでいったからである。」と書いています。苦楽を共にした最愛の友への哀惜のこもった言葉です。オーバーハングを混えて、5級、6級の連続する困難なルートでした。
その後、二人はチマ・オベスト北壁を狙います。先の成功の勢いをかって祖国のためにもドイツ人との初登攀争いに挑みました。オーバーハングの続く垂壁を辿り、左方へ難しいトラバースをして、大クーロワールを登り頂上に達しました。嵐の中でのビバーク、後半は雪と氷の中での登攀でした。
1937年にはエスポジト、ラッティと共にピッツ・パディレの北東壁を登りました。オーバーハングの出口で落石に合いながら、また嵐のビバークに耐えながら登攀に成功しました。しかし、同時に合流して登攀したコモの2人組は疲労と寒さに耐えきれず息絶えました。
1938年は彼の最も輝かしい、金字塔となる初登攀の年でした。
ジノ・エスポジトとウゴ・ティッツォニとともにアイガー北壁を狙いました。しかしクライネ・シャイデックについてみるとすでに、ドイツ人とオーストリア人のパーティーが壁に取り着いていて、嵐の中を初登攀に成功しました。それには人間としては喜んだが、イタリア人としてはひどく落胆した、と正直に述べています。それで、アイガーの次に考えていたグランド・ジョラス北壁ウォーカー稜に狙いを定めました。
この登攀はカシンが常にザイルのトップを務めてルートを切り開いていきました。出だしのカシン・クラックはあまりにも難しく、その後の多くの登攀者は左手のレビュファ・バリエーションを登るとのことです。巨大な氷のジェードル(本を開いたような凹角)を越え、オーバーハングを避けて、振子トラバースを行い、灰色の岩塔の下のレッジ(小棚)に達し、そこで2回目のビバークをしました。天気は崩れ、雹や雪も降り出しました。しかし3日目の午後3時頃嵐の中をウォーカー稜のピークに立ちました。
しばらくして、戦争が始まりました。彼はムッソリーニやナチズムと対抗すべく、パルチザン活動に携わりました。その戦闘の最中にラッティは命を奪われてしまいました。カシンも負傷しましたが、生き延びて軍功十字勲章をもらっています。
戦後になると、カシンはイタリア山岳会レッコ支部長や、イタリア登山学校連盟会長などの要職を務めながら、それまで登っていなかった山や以前の山の再登攀を行いました。
1954年にイタリアはデジオ教授率いるK2への遠征を行い登頂を勝ちえましたが、当初登攀リーダーと目されて教授と共にカラコルム視察までしたカシンはメンバーから健康診断の理由で外されました。しかし、彼はそれは建前で、実は教授がカシンに主導権や名声を取られるのを恐れて排斥したのではないかと述べています。(本の注釈では、デジオがカシンを、学術目的に脅威を与えかねない人物として考えるようになったともいえる、と書いてありました。真実はどうだったのでしょうか。)
1957年にはイタリア山岳会は今度はカシンを第2回イタリア・カラコルム遠征隊の隊長に選出しました。彼はマウリやボナッティを率いてガッシャブルムⅣ峰を征服しました。彼自身は登頂しませんでしたが、高所に耐えられることを確認し、K2の無念さを改めて感じました。頂上直下は4級から5級の難しさで、当時のヒマラヤでは最も困難な登攀でした。
1961年にはマッキンリーの南壁登攀に挑みました。若いレッコの仲間5人と共に困難な氷と岩壁を登り、全員登頂に成功しました。その下降は壮絶なものでした。体調を崩し、凍傷にかかった仲間をかばいながら、スリップしたり雪崩に巻き込まれそうになりながら、吹雪の中を全員なんとか下山しました。この成功はJFケネディーからも称賛の祝電を受けました。この登山はレッコの岩登りグループ「蜘蛛」結成15周年記念ともなり、兄弟愛と団結心を示したカシンの山歴の中でも特筆すべき最大の喜びであったと述べています。
1969年には、アンデスのマッターホルンとも呼ばれるヒリシャンカ西壁の登頂に成功しました。リッジから上部の岩壁は平均斜度65-70度で、垂壁やオーバーハングの部分もあったといいます。6000mを越す、高度で困難な氷壁に60歳で挑み、若者と行動を共にできるとは驚くべきことです。
次に、カシンの関心はより高度で困難な課題に向いていきました。イタリア山岳会の会議で「K2、ガッシャブルム、南極以降の大きな遠征が行われていないのは遺憾だ」と述べ、残された最大の課題であるローツェ南壁への遠征を提案しました。そして、15人の精鋭隊員の参加を求めました。この中にはかのラインホルト・メスナーも含まれていました。
1975年3月、ローツェ南壁へと向かいました。しかし、壁は雪や氷ばかりでなく岩の崩壊も起こしていて、とても危険な状態でした。それで、以前日本隊が試登した南壁左側の氷稜を登攀することにしました。上部のキャンプにルート工作をしている中で、ベースキャンプを雪崩が襲い掛かり、装備や食料を散逸させてしまいました。しかし、残った装備を再点検し、ベースキャンプを移動し、登攀の続行を決めました。5月7日には第3キャンプの上、7500mの高さまで到達しました。しかし、小さな雪崩は第3キャンプを圧し潰してしまいました。これで、頂上に到達する時間もチャンスもなくしてしまいました。そうして、彼の初めての山での敗退の遠征は終わったのでした。
そして、これが帰国の飛行機の中で彼が述懐した、この本を書く動機に繋がっていったのです。
カシンはこの本の最後に「登山の発達と美学と」という項目を設けて、彼の登山哲学を吐露しています。
「アルピニズムの先駆者達でさえも、自分たちの目的を達成するために人工的手段に頼ることを気にかけなかった。モン・ブランを登るためにド・ソシュールは梯子を携行したし、ティルマンもマッターホルンにこれを持っていった。また、鋼鉄の鋲や引っ掛けかぎなどもカレルやウインパーによってマッターホルンで用いられた。」
「わたしは個人的にはフリー・クライミングから出発した。最初はピトンを確保のためだけに用いた。しかしまもなくそれを直接的補助用具としても用いるようになった。ダブル・ロープとあぶみを利用することによってのみ、わたしはグリニェッタやアルプスでいくつかのルートを開拓することが可能だった。それらは、当時のフリー・クライミングでは登攀不可能であったろう。はるか昔になったその当時にあって、多くの人びとがわたしを賞賛したが、もっと多くの人びとがわたしを非難した。わたしや仲間たちを「金物屋」と呼びさえした。」
積極的な補助手段も否定しない彼ですが、ピトンを不当に多く使用して登ることは否定していますし、埋め込みボルトを使用した登攀は真のクライマーの興味をそぐようなものだと述べています。
「極度の困難に対する挑戦の基本的動機は常に、健康的な喜びと精神的高揚の追及であるべきだ。・・・さらに、クライミングは満足と正当な報いを与えてくれるものだが、それはけっしてメダルや褒章ではない。真のクライマーはそんなメダルや褒章などを心から毛嫌いするものである。」とも述べています。
カシンはその後も、現役クライマーとして、登山を続け、1987年、78歳の時には、ピッツ・パディレ初登攀50年記念としてカシン・ルートを再登しています。しかもマスコミの反応が遅いために1週間後にまた登りなおして写真を提供するほどで、とても並の老人のすることではありません。壁に多くの残置ハーケンが残されたのを悲しみながらもビバークしながら往時を懐かしんでいるのも実りの人生を感じさせます。80代の半ばまでクライミングを続けたといいますから正に超人です。
カシンは登攀者を詩人になぞらえる記述をしています。「わたしは本好きでもないし、詩をほとんど読んだことがない。けれども、詩人が日常生活で灰色の現実から、強烈なイマジネーションによって創造された世界へと逃れようとしていることを知っている。・・・詩に対するかなりの共感なしには、登攀の不愉快さ、疲労、危険などに対決することはできない。特に大岩壁に対してはそうである。」
「山にはどんなに鈍い心の持主でも驚いて心ふるえるような様相が無限にある。日を浴びて流れゆく雲は金色の輪にふちどられて輝く。雲の覆いを突き通して岩に剣のように当たる光線、それは鮮やかな色彩で石に生命を吹きこむ。風によってクーロアールをのぼる霧は、その特異な匂いをあたりにただよわせる。ピークがいくつもいくつも重なり拡がる広大な眺め。見る者の胸を息ができないほどしめつける、とあるドロミテの盆地の閉塞の恐怖。岩壁でのビバーク、などなど。」
この文章を読んだだけで、小生にはカシンが素晴らしい詩人に思えます。山岳の名文家は数多いのでしょうが、美辞麗句を連ねたものより、実直な登攀記録の中に一寸挿入される一文が心に沁み入ります。トッレ・トリエステ南東リッジのビバークでの記述などもそうです。人と天地の交錯がまるで一幅の絵のように瞼に浮かんでくるようです。
また、カシンは書きます。『ヴィットリオ・ラッティとわたしがトッレ・トリエステの南東リッジの登攀から帰ってきたとき、握手を求めにやってきたクライマーの一人――名前を思い出せないが――が言った。「700メートルの岩壁できみは詩を書いたね」
そのとき、われわれは笑ったが、後になって、その言葉が正しかったことを知った。』
まさに、言葉ではなくても登攀作品そのものが詩なのでしょう。
そういう目でみればカシンはアルプスの峰々ではまさに大詩人といっても過言ではありません。
カシンは前に書いたアンドレア・ヘックマイヤーと同時代の人でありながら、ボナッティ、メスナーなどの後世のクライマーの師表であり、現代にも活躍した時代を超越した稀有な登山家でもありました。
2009年100歳で亡くなりましたが、まさにアルプスの山々を十全に極め、あの世に旅だった素晴らしい山の一生と言えましょう。
投稿についてのお断り
最近、コメント欄にご意見、質問などを書いて当ウエブサイトへ投稿して下さる方があります。
有難いお言葉もありますが、いつか書きましたように原則として、お返事いたしませんのでご容赦下さい。
コメント欄を削除したいと思ったのですが、それはできないとのことでした。
個人的な質問事項などを書いていただいて、こちらが承認すると、その内容が、氏名と共にブログ上に公開されてしまいます。個人情報に関することの管理に責任がもてませんので、悪しからず。
なぜか、海外からもコメント欄に書き込みがみられますが、これもアップもお返事もいたしませんので、ご容赦下さい。
表皮水疱症2013
先日浦安皮膚臨床懇話会で「表皮水疱症の病態と臨床」という講演がありました。
講師は弘前大学の澤村大輔教授でした。
先生は大学卒業後、平成1年にはこの分野で世界的に先端の研究をされている米国のUitto教授の許に留学され、帰国後日本でのこの分野の第1人者である北海道大学の清水教授の許で准教授をされ、平成19年からは弘前大学で現職にあるということでした。
弘前大学先々代の橋本功教授は本邦の表皮水疱症の先駆者的な専門家で、その影響か玉井、澤村先生などの専門家を輩出しています。
本年のマイアミでのAAD学会でのUitto教授の講演でも、協同(協力?)研究者として、玉井、澤村先生の名前も挙げられていました。
前置きはさておき、当日は難しい表皮水疱症のことを明快に、分かりやすく講演していただきました。進歩の著しい分野で最先端の遺伝子などが出てくるので老化した頭にはついていくのが一杯一杯でしたが、興味深く拝聴しました。
表皮水疱症とは軽微な外力で容易に皮膚や粘膜に水疱ができる遺伝性の疾患です。
ヒトの皮膚は表皮と真皮からできていますが、表皮細胞にはケラチン蛋白という骨組みがあって、表皮細胞の形と強さを支えています。また表皮の真皮の間には表皮基底膜という糊に相当する膜があって、この両者を接着しています。
これらの骨組みや接着にかかわる蛋白質は近年多くが明らかにされ、その遺伝的な欠損や欠陥によって水疱ができることが解ってきました。水疱の部位、遺伝形式、責任遺伝子
などによって、新たな分類がなされています。
日本には500~600人以上の患者さんがあり、全世界では50万人ほどの患者さんがいるそうです。大きく3型に分けられますが、30以上のサブタイプがあるそうです。
大分類 小分類 標的蛋白
単純型 限局型 ケラチン5、ケラチン14
ダウリングメアラ型 ケラチン5、ケラチン14
その他の汎発型 ケラチン5、ケラチン14
筋ジストロフィー合併型 プレクチン
幽門閉鎖合併型 プレクチン
接合部型 ヘルリッツ型 ラミニン332
非ヘルリッツ型 17型コラーゲン、ラミニン332
幽門閉鎖合併型 α6β4インテグリン
栄養障害型 優性型 7型コラーゲン
劣性重症汎発型 7型コラーゲン
劣性、その他の汎発型 7型コラーゲン
キンドラー症候群 キンドリン-1
(新国際診断基準 Fine et al, J Am Acad Dermatol (2008)
難病情報センターHP 病気の解説 より)
表皮水疱症の診断、分類は医学の進歩によって大きく変わっていきました。
当初は光学顕微鏡によって分類されていましたが、電子顕微鏡の開発によって表皮基底部位の構造が細密に解ってきました。それによって表皮の骨格を形成するトノフィラメント、それを基底細胞の底面に接着するヘミデスモゾーム、表皮を裏打ちして真皮側から繋ぎとめる係留線維などが発見され、水疱のできる部位がより厳密にわかってきました。さらに基底膜蛋白に対する抗体を用いた蛍光抗体法によってより正確に簡便に表皮水疱症のサブタイプの診断ができるようになってきました。現在は遺伝子診断によって変異遺伝子、その変異部位までもわかるようになってきました。将来は次世代遺伝子診断装置(次世代シーケンサー イルミナMiSeqなど)によって新たな変異遺伝子も、より簡便にわかるようになってくるだろうということでした。
遺伝形式は、単純型、栄養障害型は常染色体優性、または劣性遺伝、接合部型は常染色体劣性遺伝によります。
ヒトの染色体は22対(44本)の常染色体と2本の性染色体46本からなっています。優性遺伝というのは、父、母から受け継いだ22本の遺伝子のいずれか1本に異常があれば、他の1本が正常でも病気が発症するものです。これをドミナントネガティブ効果といって変異が正常の遺伝子の働きを打ち消すというものです。
一方、劣性遺伝というのは父、母から譲り受けた遺伝子の両方とも変異があるときに初めて病気が発症します。
Ⅰ)単純型
水疱が表皮内にできるので、水疱や糜爛ができても痕を残さずに治ります。
遺伝子の変異の部位によって、靴擦れ程度の軽症から重症の型までに別れます。
以前は軽症のものをWeber-Cockayne型、中等症をKobner型、重症をDouling-Meara型と分類していましたが、新分類では後者のみが残っています。
ケラチン遺伝子のinitiation peptideが侵されるとより重症型に、helix termination peptideが侵されると軽症型になるそうです。
Ⅱ)接合部型
Herlitz型はラミニン332を欠損し、1,2歳で亡くなるケースが多いそうです。
非Herlitz型はヘミデスモゾームまたはアンカーリングフラメントの形成不全をきたします。その原因としてラミニン332の減弱、BP180の完全欠損が挙げられています。脱毛、歯、爪の欠損などをみるものの生命予後は前者より良いそうです。水疱の治癒後に瘢痕は残しませんが、皮膚の萎縮が残ります。
Ⅲ)栄養障害型
優性型は加齢とともに軽快してくる場合が多いとされます。劣性の重症型では水疱や糜爛が多発し、瘢痕を形成します。潰瘍、瘢痕部から皮膚癌を発症してくることも多く、中でも有棘細胞癌が発生してくることに注意が必要です。中学生の頃からでも生じるケースもあるとのことです。
Ⅳ)キンドラー症候群
1954年にドイツの小児科医によって命名された症候群で生下時のみに水疱を生じ、のちに主に露光部に皮膚萎縮、色素沈着をきたし、光線過敏、歯肉炎がみられるそうです。
キンドリン-1の異常によります。これはアクチン、インテグリンなどの局所の接着に関係する遺伝子でアダプター蛋白の一種だそうです。この異常によってヘミデスモゾームの間隔が離れて皮膚がぜい弱になるとのことです。ただ、このようにごく稀で一時的な水疱を生じるケースまで分類に含めるのはどうかとの意見もあるとのことでした。
治療は、日常的には水疱、糜爛に対する被覆材、潰瘍剤などによるケアが中心になりますが、サブタイプ、重症度、合併症などによって千差万別です。近年は接合部型、栄養障害型の治療は公費対象となりました。
当日澤村先生は、日々苦労されている患者さんの有棘細胞癌などの対処も割と深刻がらずに前向きに話しておられました。実際に患者さんと向き合っている医師の知恵とも感じました。
根本的な治療はまだありませんが、現在行われている再生医療では、培養表皮シート、培養真皮、3次元培養皮膚などが傷の回復に効果をあげているそうです。
将来的には、繊維芽細胞注入療法、間葉系幹細胞注入療法、骨髄移植、蛋白補充療法などが期待されますがまだ研究途上といったところのようです。
ただ、かつて阪大の玉井克人先生の講演が脳裏に焼き付いています。いつか近い将来にこれらが実際に導入できるようになれば良いと思いました。
(表皮水疱症 2012.2.27)
調べていたら、DebRA Japan、Internationalという組織の存在があることがわかりました。表皮水疱症患者友の会の名称です。
北海道大学皮膚科の清水宏教授の助言と協力で始まったそうです。その後日本に留学したニュージーランドのハンフリー君の母親がDebRAニュージーランドの会長であったこともあり、交流会の席でDebRA Japanが産声をあげたそうです。
友の会のHPにデブラの説明がありましたので、コピーしました。
「DebRA(デブラ)とは、表皮水疱症(英語名のEpidermolysis Bullosaの略名がEB)の世界的支援組織(ボランティア組織)であり、現在40カ国が参加しています。 DebRAの活動はイギリスで始まり、その名前の由来は、フィリス・ヒルトン (Phyllis Hilton) さんの重症型EBを持つ娘さんの名前がDEBRAであったこと、また英語で表皮水疱症研究協会 (Dystrophic Epidermolysis Bullosa Research Association: DebRA) の略からきています。」
難病情報センターやDebRA Japan, DebRA InternationalなどのHPで最新情報に触れることができます。
平成25年皮膚の日
またまた皮膚の日の季節がめぐってきました。
11月12日は(イイヒフ)との語呂合わせから日本臨床皮膚科医会によって皮膚の日に定められました。この日の前後に各地で皮膚科の講演会や市民公開講座等が催され皮膚科が市民の皆様へのさまざまな情報を発信しています。
千葉県でも最近公開講座を開催してきています。この時期に丁度千葉県医師会医学会学術大会が開催され、千葉県の皮膚の日の講演会はこの学術大会の分科会として開催されます。今年の千葉県医師会医学会のメインテーマは「ワクチン」で病気になる前に病気を予防することを目指して様々な催しが予定されています。
ここで宣伝することもないですが、時間があれば是非足を運んで下さい。
皮膚科も東京歯科大学市川病院の高橋先生が水痘ワクチンについて解説されます。先日もNHKのあさイチで帯状疱疹の放送をやっていましたが、近年増えてきていて皆さん関心が高いようです。
11月4日の皮膚の日では、帝京大学の早川先生が帯状疱疹、水虫について講演されます。その市民向けの抄録を載せてみました。
また第2部ではポーラファルマによるスキンケアの解説もあります。
興味のある方は昨年と同じ会場ですので、是非お越し下さい。
皮膚の日の宣伝でした。
千葉県医師会医学会第14回学術大会 県民公開講座
日時:平成25年11月3日(日)15:10~
会場:ポートプラザちばロイヤル
講演:水痘ワクチン接種の現状と今後の展望 ―諸外国との比較からわかること―
高橋慎一先生(東京歯科大学市川総合病院皮膚科教授)
千葉県皮膚科医会「皮膚の日講演会」
第1部:みんなを悩ませる皮膚感染症
―水虫と帯状疱疹―
早川 和人先生(帝京大学ちば総合医療センター皮膚科教授)
第2部:カサカサ対策の保湿スキンケア
ポーラファルマ
日時:平成25年11月4日(月)13:00~15:00
会場:京葉銀行文化プラザ 7階会議室 楓Ⅰ・Ⅱ
みんなを悩ませる皮膚感染症
帝京大学ちば総合医療センター皮膚科
早川 和人
皮膚の感染症には多くの種類がありますが、今回は足白癬と帯状疱疹の2つの疾患を取り上げてお話しさせて頂きます。足白癬と帯状疱疹はともに頻度が高く(病気にかかる人が多い) 、皆さんご自身、あるいはご家族のような身近でよく経験される感染症です。
足白癬はあしはくせんと読みますが、一般には水虫と呼ばれています。人口の4人に1人がかかっていると言われるほど多い感染症です。水虫の原因は真菌(かび)の1種で白癬菌と呼ばれています。白癬菌は高温、多湿を好みますので、靴を履いていつもむらしている足は増殖するのに格好の場所という訳です。さて水虫というとあの薬が効いたとかこの薬でかえってわるくなったとか薬の話題ばかりが出てくるような気がします。ですが、大事なのは白癬菌の正体を知り、どのように感染が起こるのかを知ることです。それによって予防する方法もおのずと見えてきますし、すでになってしまった人も効率よく治療し、再発を防ぐことができると思います。進行した糖尿病がある方などでは水虫でできる皮膚の傷害部位から細菌の感染がおこり、壊疽(えそ) と言われる重篤な状態を引き起こすこともあります。こうなるとたかが水虫とは決して言えませんね。
一方の帯状疱疹もやはり非常に患者さんが多い病気です。中高年の方がなりやすいのですが、どういう訳か10代から20代の若い世代に小さいピークがあり、小児の例もあります。つまり広い世代にわたって誰もがかかりうる病気とご理解ください。この病気の原因はウイルスですが、意外なことに小児がかかるみずぼうそう(水痘)の原因になるウイルスと同一なことがわかっています。みずぼうそうは治りますが、原因のウイルスは死滅することなくその人の神経節に潜伏し、後年にウイルスが活性化、増殖して今度は帯状疱疹を引き起こすという訳です。この病気は体の一部(しかも右か左の半分)に発症する不思議な病気です。症状はその場所の発疹と痛みで、その程度は患者さんによって差がありますが、時には顔面神経麻痺などの重い症状を伴うこともあります。症状が重いと入院が必要なこともあり、これもみんなを悩ませる皮膚感染症の代表選手と言ってよいでしょう
基底細胞癌(Basal Cell Carcinoma :BCC)
皮膚癌の中で一番多いといわれる基底細胞癌について調べてみました。
悪性度は比較的低い癌で、早期に手術すれば治癒しますが、後手にまわると大変な癌であることを知ってもらいたく書いてみました。いくらかでも参考になり皮膚科を受診していただければ良いかと思います。
基底細胞上皮腫(Basal Cell Epithelioma :BCE)とも基底細胞腫(Basalioma)とも呼ばれます。
「悪性のハマルトーマ(過誤腫)で、基底細胞と似た形態の細胞の増殖です。悪性度は悪性黒色腫(Malignant Melanoma)や有棘細胞癌(Squamous Cell Carcinoma)と比べると低く、局所破壊性ですが、転移は稀です。」
これは以前の大原先生の講演の言葉ですが、同時に次のような言葉もあります。
「基底細胞上皮腫は局所破壊性に進行しますが転移は例外的で、一般的には生命予後は良好と考えられています。しかし言い方を換えれば、死なないけれど悲惨な状況のまま生き長らえなければならない、ともいえます。手のつけようのない進行例を一度でも経験すると、この病気が決して侮れないことが骨身に沁みます。」
皮膚疾患のクロノロジー 大原國章 著 学研メディカル秀潤社 東京 2012 より
BCCは皮膚悪性腫瘍の中で最も多くみられるものです。中高年の顔面に好発するので、日光紫外線の影響が考えられますが、良く日の当たる額や頬には少なく、SCCなどのできる下口唇にはまず見られません。むしろ胎生期の顔裂線に一致して多くみられます。
すなわち鼻翼、眼瞼、耳後部などのくぼみです。最近基底細胞母斑症候群の原因遺伝子であるPTCH遺伝子(9q22.3に座位する体節の極性を決定する遺伝子)経路の異常が腫瘍発生に関係することがわかってきました。このことから顔裂線での多発が説明できるそうです。
【症状】
日本人の場合は、初期病変は小さなほくろとしてみられることが多いようです。1~2mmの黒紫色の隆起性病変として始まり次第に数個の小隆起が融合して中央部が陥凹して潰瘍化します。その潰瘍の周りを黒色の結節が取り囲んだ形になるために結節潰瘍型といいます。
その他にも表在型、斑状強皮症型(モルフェア型)などありますが、いずれも病巣辺縁に灰黒色の表面が蝋様光沢のある小結節が真珠の首飾り様(pearly border)に配列するのが特徴とされます。ただ、白色人種の場合は小結節が黒くなく、光沢があるためにthread-like pearly borderと表現されていて黒くなく、むしろ白から黄色っぽく老人性脂腺増殖症に似るとされています。
【鑑別診断】
◇老人性疣贅(老人性いぼ)
角化が著明で表面がざらざらした感じがあり、潰瘍化することは稀れ。
普通は2cm位までで、淡褐色から黒褐色の境界がはっきりした腫瘍で多くは扁平または半球状に隆起します。眼瞼部や腋窩では有茎状になることもあります。
またBlochⅡ型といって、皮膚に黒いボタンや碁石を置いたような外観をとることもあります。
◇悪性黒色腫
結節型の場合は時に鑑別が困難であるといいます。但し、近年はダーモスコピーによる鑑別が進歩してきました。BCCの特徴的な所見があればこれを否定できます。
特に樹枝状血管拡張(arborizing telangiectasia)はBCCに特徴的とされます。
◇色素性母斑(ほくろ)
小型で潰瘍ができる前のものはBCCに極めて似ています。やはりダーモスコピーでの所見が有用とされます。
【治療・予後】
切除範囲、深さが十分であれば完全治癒が見込まれます。ただ、できる場所が眼、鼻、口唇などのしかも窪んだ解剖学的に複雑で重要な器官の部位にでき易いので十分に取り切れない場合もあります。初回に取り切れず、再発した場合は先に大原先生が述べられたような悲惨な経過を辿ることもあり得ます。眼の近くで進行しても眼球摘出を拒否されたりする時など手が付けられなくなるとのことです。
病型の中で、最初から潰瘍を作るケースやモルフェア型と言って強皮症に似た光沢のある白色浸潤局面を呈するものは癌の広がりが見た目よりもかなり大きいことが多く、要注意とのことです。
【発症誘因】
*紫外線・・・高齢者の顔にでき易く、PUVA療法などの光線療法のあとにできた例、色素性乾皮症での多発など一定の影響はあるものの、有棘細胞癌程の強い影響はなさそうです。
*放射性皮膚炎・・・放射線皮膚炎の部位にできることもあります。
*慢性ヒ素中毒・・・Bowen病が有名ですが、白人ではBCC例が多いそうです。手足の角化と雨だれ様の白斑が特徴的とのことです。
*免疫不全患者・・・腎移植、悪性リンパ腫、AIDS患者など
*基底細胞母斑症候群・・・PTCH遺伝子異常で多発するケースがあるとのことです。
掌蹠小陥凹、さまざまなcyst、歯肉、骨異常などを伴います。
参考文献
皮膚科診療カラーアトラス体系 6 講談社 東京 2010
編集/鈴木啓之・神崎 保
小野 友道 基底細胞癌 p40-43
大原 國章 皮膚疾患のクロノロジー
長期観察で把握する母斑・腫瘍の全体像
学研メディカル秀潤社 東京 2012
鼻翼のBCC、黒く光沢のある小結節が周りを取り囲むようにみられます。
腫瘍の辺縁部に光沢のある小結節がみられます。これが真珠の首飾りの様に紐で繋がっているように見えるのがBCCの特徴です。そして中央部は陥凹から潰瘍になっています。
BCC多発例。色素性乾皮症(Xeroderma Pigmentosum)。DNA修復異常のために、紫外線から受けたDNAの傷を修復することができずに悪性腫瘍が多発します。
BCCのダーモスコピー像。枝分かれした血管拡張がみられます。