ダーモスコピーの基本

先日、第16回ダーモスコピー勉強会が開催されました。今回はハイブリッド形式なので、WEBで聴講しました。
でも早いもので、もう16回にもなるのかと感慨深いものがありました。
ダーモスコピーの講演会、勉強会はもう数えきれない程、聴講していますが、センスがないのか、記憶力が悪いのか、何回聴いてもマスターできません。大体講師の先生の出すクイズにはうまく引っかかって誤回答をするのが常です。講師の方もそれを狙って、間違いやすい例をクイズに出すからなのでしょうが、普通は経験と共に成長していくはずなのになー、と忸怩たる思いがあります。(今回はクイズ形式はありませんでしたが。)それはともかく。

 今回久しぶりに、聴講し基本を再学習することができました。

ダーモスコピーは、ダーモスコープという一種の拡大鏡で皮膚表面の乱反射を取り除く工夫をして、表皮から真皮浅層の色素や血管や腫瘍などの分布や構造を観察する手法です。乱反射を取り除く方法には、エコージェルを皮膚に塗る方法と、偏光フィルターを付ける方法があります。

まず、色、色調について。大きく、黒色、赤色、白色、黄色があります。それに褐色、青色なども混ざってきますが。
これらの色の成り立ちを知っておくことが大切です。
🔷色調
【黒色~茶色(褐色)~青色】
これは主としてメラニン色素によってもたらされます。
表皮内・・・メラニン色素が多いと➡黒色(特に角層から有棘層)、 少ないと➡茶色(褐色)、色は明瞭
真皮内・・・メラニン色素が基底層から真皮内に入ると灰褐色となり、さらに深くなるとぼやけた灰青色となる。
血液が酸化して黒く見えることもありますが、よくみると赤色調があり(皮下出血、爪下出血など)
【赤色】
血液、血管
【白色】
光りの散乱、屈折効果(線維化細胞浸潤、表皮突起など)、石灰化、尿酸などの結晶、生理的物質としての角層
【黄色】
脂腺
組織球、泡沫細胞
いずれの色についても、形についても表皮では、彩度が高く、明瞭で、真皮深くになると彩度の低下によって暗く、ぼやけた色調、像になります。

🔷体の部位による色素の見え方
【体幹・四肢】
体では、表皮、真皮境界部にメラニン色素が存在しますが、真皮からは真皮乳頭が表皮側に突き出るようにまるで乳頭の剣山のように密集しています。一方、それを受けるように表皮側は網目状に穴が窪んでいて、網目状のネットワークを形成しています。色素性病変ではそこにメラニン色素が存在するので、メラニン量が多くなると網状色素ネットワークが形成されます。良性であれば、定型的色素ネットワークとなり、悪性化すれば非定型色素ネットワークとなります。非色素性病変で乳頭部に毛細血管拡張のある上皮性病変は淡紅白色ネットワークと点状・糸球体状血管を示します。
【顔面】
顔面では、表皮索は比較的フラットで、一方毛穴は密集しています。それで、表皮に色素沈着を生じ、毛包部が温存されて白色に抜けると偽ネットワークを生じます。ここでは白く抜けた部分は、真皮乳頭ではなく、毛包。
【掌蹠】
表皮索は基本的に平行に配列しています。よって色素性病変は基本的に平行パターンをとります。良性の母斑細胞は規則的な皮溝平行パターンをとります。一方、悪性黒色腫では不規則な皮丘平行パターンをとります。
足底の圧のかかり方の具合によって、線維状パターン、格子状パターンをとります。

🔷血管の長さ、形
病変が表皮肥厚を伴いながら増殖する場合には、真皮乳頭の血管を反映して、主に短い血管、点状血管、糸球体血管、ヘアピン様血管がみられます。一方、表皮直下にかたまった病変が存在すると、直上への血管が阻害されて、病変の周囲から上に入り込むような長い血管が形成されます。線状、蛇行状、樹枝状血管として観察されます。

これらの基本事項を元に悪性黒色腫(MM:Malignant melanoma)、基底細胞癌(BCE:Basal cell epithelioma)、有棘細胞癌(SCC:Squamous cell carcinoma)をはじめとし、様々な悪性腫瘍、良性腫瘍や炎症性疾患の診断基準、診断方法が考案されてきていますが、上記の点が最も重要とされています。何事も基本に立ち返ってみることの大切さを再確認できた講演会でした。

以下は、自分のつぶやきに似た思いです。(個人的な意見ですので、スルーしてください。)
*定型的と非定型的、対称性のある、なし、規則的かそうでないかの判断、見極めが今一わからない(こともままある)。
*時に脂漏性角化症とほぼ区別のつかない悪性黒色腫、毛細血管拡張性肉芽腫と区別のつかない無色素性悪性黒色腫がある。腫瘍を形成した黒い塊、赤い塊は注意してかからないと地雷を踏みそう。特にあえて特徴がなく、全体が単一の黒色、赤色では悪性像をスルーしがち。
*スピッツ母斑も要注意。子供の場合は心配ないが、中年以降のスピッツ母斑は要注意。よく講演でもMMとの鑑別困難な症例が提示される。
*爪の色素斑は発症年齢が重要。子供の爪の黒色線条では、臨床的に良性なのに、ダーモスコピーではまるでMM。
*”木を見て森を見ず”の格言通り、一部の所見を丸のみすると誤診に繋がる。MMでもmilia-like cystやcomedo-like openingはあるし、皮溝平行パターンも見られることもある。逆にカメムシ、黒癬、抗がん剤などで皮丘平行パターンもあり。
*人種によって色調は全く異なる。白人のBCEは殆ど黒い色素はないと。国際化時代では、外国人の患者さんに出会う機会も増えるので注意が必要
*疑わしい、迷ったときは生検するか、専門医に紹介し、セカンド・オピニオンを仰ぐ。多分大丈夫です。このまま様子を見ましょう、とは言わないこと。
*以前、足白癬の患者さんがあった。数ヶ月通っていて、ある時、まじまじと顔をみたら、しっかりBCCらしい黒点があった。これも木を見て森を見ず、の類だろうか。

参考文献

標準皮膚科学 第11版 監修 岩月啓氏 編集 照井 正・石河 晃 医学書院 東京 2020
田中 勝 第6章 ダーモスコピー pp73-82

斎田俊明 ダーモスコピーのすべて 皮膚科の新しい診断法 南江堂 東京 2012

大原國章 大原アトラス 1 ダーモスコピー 秀潤社 東京 2014

単純ヘルペス 診断と治療

 俗にヘルペスというと、帯状疱疹と単純疱疹を指しますが、実はヘルペスウイルスは2億年以上前から地球上に存在し、カキなどの無脊椎動物から、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類などの脊椎動物に至るまで自然界に広く分布しており、現在までに約150種が発見されています。一方ヒトに感染するヘルペス科のウイルスは8種類が知られています。
 ヘルペス科ウイルスは線状の二本鎖DNAをゲノムとして持つDNAウイルスです。(ちなみにCOVID-19,新型コロナウイルスはRNAウイルスです。)
ウイルス粒子の大きさは直径120~200nmで中心部にコアと呼ばれるDNAを有する構造があり、それを20面体のカプシドが囲んでいます。最外層には脂肪膜のエンベロープが存在します。エンベロープには糖たんぱくが埋め込まれ、感染時、細胞の吸着、侵入に関与しています。
ヘルペスウイルスの特徴として、宿主にいったん感染すると、その後は増殖を停止して潜伏感染に移行し、体内に一生涯住み続けます。そして宿主の免疫状態、様々な刺激によって増殖を再開し種々の疾患を引き起こします。この潜伏感染と再活性化がこのウイルスの最大の特徴であり、やっかいな現象でもあります。

【ヒトヘルペスウイルスの分類】
HHV-1・・・単純ヘルペスウイルス1型(Herpes simplex virus:HSV-1)  単純ヘルペス1型
HHV-2・・・単純ヘルペスウイルス2型(Herpes simplex virus:HSV-2)  単純ヘルペス2型
HHV-3・・・水痘・帯状疱疹ウイルス(Varicella-Zoster virus:VZV) 水痘、帯状疱疹
HHV-4・・・EBウイルス        伝染性単核球症、リンパ増殖症、種痘様水疱症、重症蚊刺アレルギー
HHV-5・・・ヒトサイトメガロウイルス  サイトメガロウイルス感染症(肺炎、腸炎、網膜炎)
HHV-6・・・ヒトヘルペスウイルス6  突発性発疹、DIHS
HHV-7・・・ヒトヘルペスウイルス7  突発性発疹、DIHS?、ジベルバラ色粃糠疹?
HHV-8・・・ヒトヘルペスウイルス8  血管炎?、Kaposi肉腫

この中で、HSV-1,2の単純ヘルペスについて述べていきます。
【臨床症状】
HSV-1は主として口唇ヘルペスの、HSV-2は主として性器ヘルペスの原因となります。初発、再発、または発生部位などによってさまざまな病態が存在します。HSVは主に接触感染します。唾液や汚染された手指や器具などによります。またくしゃみ、咳、会話などの飛沫感染によっても感染します。それでHSV-1は思春期までにほとんどの人が感染し、抗体を持つとされていましたが、最近は初感染年齢が高くなり、成人に達しても抗体保有率は約半数とされています。HSV-2は主として性行為で感染し、経口避妊薬やコンドームの未使用などにより、成人の初発率が増加傾向にあります。HSV-1に罹患していてもHSV-2に感染しますが、無症状のことが多いです。HSVは接触感染によって初感染した後、三叉神経や仙髄神経などの知覚神経節に潜伏感染します。感冒、紫外線照射、性行為、過労、精神的ストレス、免疫抑制状態(悪性腫瘍、薬剤など)等によってウイルスが再活性化すると、知覚神経を順行し、支配神経領域の皮膚・粘膜に再発病変を形成します。単純疱疹の初感染は歯肉口内炎やKaposi水痘様発疹症など(HSV-1)、また性器周辺に比較的重症の水疱、びらんを伴い(HSV-2、但し性器ヘルペスの約70%はHSV-1によるとされますが、この際の再発は稀とされます。)発熱、所属リンパ節腫脹などの全身症状を伴うこともあります。再発性では症状はより軽症となり、多くは繰り返し同じような部位に、中心臍窩を伴う水疱、膿疱、びらん、痂皮を形成しますので、典型例では問診、視診のみで診断可能です。但し、非典型例も多く、視診のみでは専門医でも一定の確率で誤診するとの統計的なデータもあります。実際、帯状疱疹、接触皮膚炎、ざ瘡、毛嚢炎、口角炎、手足口病、ベーチェット病、固定薬疹などで似たような症状を呈する臨床例は多くあり、疑わしい例では次にあげるHSV抗原迅速診断法は必須です。
多くの人が一度は感染していますが、再発の症状が出る割合はそのごく一部です。その差は潜伏ウイルスの量や免疫能力やウイルスの株などによるとされますが、よくわかっていません。一般的に再発は軽症ですが、アトピー性皮膚炎のKaposi水痘様発疹症のように重症化したり、近年のJAK阻害薬などの使用などで頻繁に出現することも報告されています。
【診断】
現在、単純ヘルペスの抗原検査迅速キットは3種類発売されています。チェックメイトヘルペスアイは角膜検査用、プライムチェックHSVは性器ヘルペス検査用ですが、デルマクイックHSVは皮膚(口唇ヘルペスなど)、および性器(臀部を含む)の両方に適用があります。
但し、同じキットでも皮膚への検体検査実施料は180点で、性器へは210点と保険点数が異なる点には注意が必要です。
デルマクイックHSVは、金コロイドを用いたイムノクロマト法を測定原理とする迅速診断キットで、HSV抗原はコンジュゲートパッド内の着色セルロース粒子標識抗HSVヒトモノクローナル抗体と反応して免疫複合体を形成し、5~10分後にテストライン部に赤色のラインを形成します。陽性率は水疱が一番高く、膿疱、びらん、潰瘍の順に低くなります。また本キットは試薬がデルマクイックVZVと同一のために、片方が陰性であれば、同一検体を用いて連続使用することができます。実際、単純ヘルペスか、帯状疱疹か判然としないケースがあり、実臨床の現場でも役立っています。
なお、HSVの抗体検査は、一度感染したら一定の抗体価が維持されることが多く、かつ再発でも変動しません。従って、再発の診断には有用ではなく、既感染の判断、初感染の判断、陰性であればHSV病変ではない、などの判断に有用です。
【治療】
治療の大原則は、発症後できるだけ早期に抗ウイルス薬を投与することにあります。
軽症の場合は抗ヘルペス薬(アシクロビル、ビダラビン)の外用を行ないます。外用剤はOTC(Over the counter)医薬品、市販薬でも手に入ります。しかし、近年米国のFDAは抗ウイルス外用薬の使用に対して、耐性ウイルスの出現を増加させる恐れがあると警告を発しています。
 🔷通常の単純ヘルペスの治療(episodic therapy)は経口抗ヘルペス薬を5日間内服します。重症例や免疫不全者に対しては抗ヘルペス薬(アシクロビル、ビダラビン)の点滴静注を行う場合もあります。
・アシクロビル 200mg 1日5回 5日間投与
・バラシクロビル 500mg 1日2回 5日間投与
・ファムシクロビル 250mg 1日3回 5日間投与
重症
・アシクロビル注射用 5mg/kgを1日3回8時間ごとに1時間以上かけて7日間、免疫不全者は痂皮化するまで
髄膜炎・脳炎合併者
・アシクロビル注射用 5~10mg/kgを1日3回8時間ごとに1時間以上かけて7日間(適宜延長)
・ビダラビン注射用 10~15mg/kgを輸液500mlに溶かし、2~4時間かけて10日間点滴静注
🔷再発抑制療法(suppressive therapy)
おおむね年6回以上再発する性器ヘルペス患者に対する治療法で、無症候性ウイルス排出からくるパートナーへの感染の確率を下げる目的で用いられる治療法です。1年間継続した後、中断後再発が2回観察された場合はさらに継続するかを検討します。
・バラシクロビル500mg 1日1回を連日投与
🔷PIT(patient initiated therapy) 近年、症状の軽症化及び治癒までの期間を短縮して患者のQOL(quality of life)を向上させる治療法が導入されています。これはあらかじめ処方された薬剤を初期症状に基づき患者さんの判断で服用開始する治療方法でファムシクロビルとアメナビルの2種類の薬剤があります。
1)ファムシクロビルPIT  再発性の口唇または性器ヘルペス(年3回以上の再発)
ファムシクロビル 1000mg 2回(2回目は12時間後)内服 前駆症状出現後6時間以内、皮疹出現前に服用する。先発品のみ。
2)アメナビルPIT 再発性の口唇または性器ヘルペス
アメナビル 1200mg 単回内服 前駆症状出現後6時間以内、皮疹出現前に服用する。 食後投与に留意する。

単純ヘルペスのPIT療法の導入により患者さんのQOLが格段に向上し、ヘルペス患者さんへの朗報となりました。ただ、この治療法にはいくつかの注意点があります。
・ファムシクロビルには後発品もありますが、PITが認められているのは先発品のファムビルのみです。
薬価 ファムビル 250mg錠 290.40円   後発品 78.00~91.10円
・ファムビルには年3回再発のしばりがありますが、アメナビルにはありません。
・アメナビル(アメナリーフ)はウイルスDNAの複製に必要なヘリカーゼ・プライマーゼ複合体の活性を阻害し抗ウイルス作用を呈する薬剤で、従来の核酸アナログ製剤を比較すると、効果の立ち上がりが早く、抗ウイルス効果もより強力な薬剤です。しかし薬価が高価なこと、PIT療法のみに認可されていて、通常の治療法の適用はありません。すなわちすでに発症している場合は適用外となります。
薬価 アメナビル 200mg錠 1215.30円
・単純ヘルペスがすでに発症していて、通常の治療薬と次回にそなえてPIT分を処方できるか、という問題があります。
一時ファムビルの23錠問題があったようです。すなわち通常治療分 3錠x5日分=15錠 PIT分 4錠x2=8錠 合計 23錠
これを保険診療で認めるか、地域差があり認めるところ、認めないところがあったようです。現在ではほぼ認める?
これにアメナビルが絡んでくるとまた複雑です。顕症の治療と次回のPIT処方を同時に行えるかというのは、医学というより、保険診療の問題といえそうです。

参考文献

渡辺大輔 デルマクイックHSV: 臨床皮膚科 78(5増):76-80,2024

今福信一 再発性単純ヘルペスのアメナビルによるpatient initiated therapy: 臨床皮膚科 78(5増):137-140,2024

本田まりこ 皮膚科Q&A ヘルペスと帯状疱疹 日本皮膚科学会 HP

皮膚科臨床アセット 3 ウイルス性皮膚疾患ハンドブック 総編集◎古江増隆 専門編集◎浅田秀夫 中山書店 2011 東京
浅田秀夫 6.ヒトヘルペスウイルスの分類と臨床症状 pp34-38
安元慎一郎 7. 単純ヘルペスウイルスウイルスの型と臨床症状:診断 pp39-44
本田まりこ 8.単純ヘルペスの治療と生活指導 pp45-49

八千米の上と下 ヘルマン・ブール

八千米の上と下 ヘルマン・ブール  横川文雄 訳  朋文堂

若い頃、その瞠目的な行動記録に心打たれ、心酔したアルピニストの一人です。
久しぶりにその本を取り出して読んでみました。

ヘルマン・ブールは1924年にオーストリアのインスブルックに生まれ、1957年6月27日、ヒマラヤのブロード・ピーク登頂後、チョゴリザの登頂を目指しつつも、荒天で頂上直下の北壁の雪庇が崩れ、墜落死した若き天才登山家です。何よりも彼の登攀歴の輝かしい頂点ともいうべき登攀は、1953年7月3日にドイツ・ヒマラヤ遠征隊の最終段階で単独で41時間の行動で成し遂げたナンガ・パルバットの初登頂でしょう。
この本は彼が幼い頃から、山に目覚め、熾烈な山への情熱と不撓不屈の意志で数々の瞠目的な登攀を成し遂げ、遂にヒマラヤの難峰ナンガ・パルバットの初登攀を成し遂げるまでの自伝の書です。500頁に亘る大冊ですが、その骨子をかいつまんで抜き出してみます。

その前に、まず本の序に、「天と地のあわいを行くさすらい人」の長文があります。 1954年8月 ヴィーン クルト・マイクス
彼の足跡を愛情と驚嘆をもって、さらに文学的な修辞でもって書き上げた彼への賛辞です。ヘルマンがあえて書かなかった、彼自身の人となりもよく覗わせてくれます。そのいくつかを抜き書きすると。
・ヘルマン・ブールがたった独りで敢行した登頂行は、もう今では人々の語り草になっている。理性の命ずるあらゆる法則に従って考えるならば、彼は頂上から二度と再び戻って来ることのできない公算が大きかった。ヒマラヤ登攀史上、未だ嘗てブールの登頂行に匹敵するいかなる肉体的・精神的な行為も見られない。はたしていままでに、前の日の朝、高所キャンプを若々しい顔で出掛けて、翌る日の夕方、早くも老人のように皺だらけの顔をして戻ってきた登山家があったろうか?
・ヘルマン・ブールは心の温かい、しかも人から好かれる男なのだ。彼と相対した者はまず、これがあの《超人》なのかと全く信じられないくらいだ。ほっそりとした体つきは殆ど優しすぎるほどである。顔をみても、租々しい力と結びつけて考えられるようなものはどこにも見当らない。これは、他人がどうなろうと、自分の命がどうなろうとかまわない類いの男ではない。さらに我々は彼の眼を眺めよう。するとこの眼が応えてくれる。彼の本性について、性格について、また個性について、この眼は決して大胆不敵な征服者のものではない。それどころか、彼の眼の奥には内的な焔が燃えている。・・・この眼こそ、空想力にあふれた者の眼であり、また芸術家のもつ眼なのだ・・・
・その優しい容姿、外界に対しては辛辣な態度で武装してしまう感受性の強いその心、それにあの想像力、こういったものはおそらく母から受け継いだものだろう。彼の母はグレーデナー渓谷出身の女、つまり他国の人々からは、いつも謎めいた、神秘的なところをもつといわれる、あの極めて豊かな才能と芸術的な感覚に恵まれた南欧語系民族に属するひとだった。彼女はヘルマンのためにはその生涯のうちの僅か四年しか行を倶にして彼をいたわってやることができなかった。
・父はあまり弱々しいので普通よりも一年遅れてやっと小学校に入ることができたようなヘルマンをどうしたものかと途方にくれていた。それに、暮らしむきは楽じゃなかった。そこでヘルマンは幼年時代の一時期を孤児院で過ごしたこともあった。
・やがてヘルマンは軍務に服する年齢に達した。登山家と救護隊員は衛生兵になった。・・・暇さえあればヘルマンは山の上にいた。・・・前線に出されたときも、彼の想いを占めたのは山だった。カッシノ戦線の地獄の業火すら山へのあこがれを消し去るわけにはゆかなかった。兵士ヘルマン・ブールはその勇敢さの故に表彰されたが、人間ヘルマン・ブールは戦場にはいなかったのだ。彼の心にあったのは、榴弾が炸裂するかわりに落石が唸るところだった。・・・そして、ついに戦争も捕虜収容所の生活も終わったとき、ヘルマン・ブールの心をまずとらえた想いはーー自分はまた昔のように山に出掛けるだけの体力が充分あるだろうかということだった。それから、勤め口があるだろうかという心配もあった。
・彼の山行記録には1947年に68回の山行が挙げられ、踏破した頂きは143峰あった。この山行のうち35は最も困難な岩壁の完登であり、その一部は単独登攀だったし、11の初登攀がなし遂げられている。
・ヘルマン・ブールはベルゲルの手掛かりのない、氷に覆われた極めて困難な花崗岩の壁を登り、ピッツ・パディレの北壁を攀じた。彼よりも前にこの登攀を行なった者は、登るのに数日を費し、岩壁上でビヴァ―クを余儀なくされたし、そのあげくには、頑丈そのものの登山家達が疲労困憊してついに死ぬということさえ起ったのだが、ブールはこの岩壁を四時間半かかって、しかも単身で突破した。しかもその際、彼はインスブルックから夜を徹して自転車で登りの急な峠道を越えて、スイスへ、山へ、岩壁へと赴いたのである。そして登攀を終えるとまたインスブルック指して戻っていった。理由は他でもない。彼は汽車に乗ったり、泊り賃の高いヒュッテを利用するだけの金を持ち合わせていなかったのだ。当時ヘルマンが教会尖塔の塗装仕事のおかげで自転車を手に入れることができただけでも大した財産だったといえる。
・いったい山に心を奪われたこの男の胸には、人間的な感情は一つ残らず喪われてしまったのだろうか?いや、そうじゃなかった。このとき、ベルヒテスガーデン近傍のラムザウの乙女が現れる。優しい、愛らしい、聡明な娘だった。彼女は自分のヘルマンを識っていた。彼の山への情熱を理解していた。いやそれどころか、彼女自身も山が大好きだった・・・  ははあ、分かったぞ、こんどこそヘルマンも骨抜きにされたな、むずかしいツーアなんかもうお終いだ・・・ ところがお終いじゃなかった。山々の命令は相変わらず続いた。
・批判の声は高まる。ヘルマン・ブールという男には良い仲間としての資格が欠けているに違いない。彼はあまりにも頻繁に同行者をかえるじゃないか。しかも、その同行者達は、現代に望み得る最も優れた登山家なのだ・・・ ところが、同行者達自身はそれほど辛辣なことは言わない。彼等には、ブールがいまだ嘗て一人の仲間でも危険の中に見捨てることがなかったことを識っている。・・・
・ブールが山仲間としての心情をいかによくわきまえていたかを、彼は1952年の夏、アイガー北壁で身をもって示した。当時ブールはザイル仲間ゼップ・ヨヒラーとこの壁に赴き、たまたま七人の登山家と一緒になったが、おそろしい荒天に遭遇してこの無慈悲極まる岩壁で互いにザイルを結び合うことになった。しかしブール・ヨヒラーの組は終始先頭に立って、雪崩と氷の危険を冒し、身も凍る寒気をついて数日に亙る苦闘の末、全員が無事危地を脱したとき、はじめて北壁をあとにしたのである。このような行為がある以上、辛辣極まる酷評家といえども沈黙せざるを得ないだろう・・・

これらの賛辞を見てしまうとさらに付け足した文など不要にも思えてしまいますが、それではあまりに著者に対して無責任なので少し付け足したいと思います。

彼は、子供の頃、か弱かったものの、山へのあこがれを胸に抱いていた。多分亡くなった母、ドロミテの心臓部ともいうべきグレーデナー渓谷で生まれた繊細で優しかった母へのあこがれがその根底にあったと述懐している。10歳の頃、父にインスブルック近傍の山へ連れて行ってもらった。その数年後には、ほぼ日曜ごとに出かけて見様見真似で岩登りを始めていた。靴を買うお金がなかったので、毛の靴下のままで岩を登ったという。最初の岩場での懸垂下降は、洗濯紐で行った。ある日クレッターがないので、スキー靴でぎりぎりの岩場を登った。ザイルを持ってきてくれ、といわれ脇道ではなく、それを使って直登して手渡し、驚かれた。華奢な子供だったが、そうしながら次第にクライマー仲間うちで岩登りの頭角を現し始めた。困難な岩場を経験するうちに、オーバーハングを越える第6級のルートや氷雪の冬の岩壁にも挑戦するほどの腕前をあげていった。彼の記録をみると、オーバーハングを指の力のぎりぎりのところで越えたが、ザイルは空中に弧を描いていた、などの記述があったりして驚いてしまう。しかし、一見無謀にもみえるその登攀でも彼は《まず眺めよーーしかる後に登れ》と述べている。「在る者なら一瞥しただけで直ぐに理解できるようなことを、他の者は見逃し勝ちである。正しく観察できる者が他の者に対して有利な地位に立てるのだ。それから言うまでもなく決定的なのは個人々々が持つ登攀テクニックや体重の移動、あるいは摩擦や凹凸面の最大限の利用である。それなのに、もしも観察のために時間を割かずに、いいかげんなところでごまかしてしまい、むずかしいときはどっちみち大して違いがはっきりしないからといって、いつも自分勝手なことをしているなら、どんなに優れたテクニックを持っていたところで何の役に立とう。」
こんな、困難な岩壁登攀を繰り返していて、彼は無事だったのだろうか。そんな事はなかった。何度も落石を受けているし、墜落もしている。頭から血を流しながら、逆に闘争心が湧いて岩に立ち向かっている。ある時はカミーンの奥の石の台座が突然崩れて、なんと60mも墜落した。ところが左手が動かなくなっただけで、彼は奇跡的に助かった。全身打撲で額から出血したものの、カミーンに挟まって停まっていた。墜落中重力から解放されていいようのない快い気持がした、岩にぶつかる度ににぶい衝撃を受けたが、決してひどくなく恐ろしくもなかった、そして、新調のズボンが破れやしないか、ポケットのナイフがなくなりやしないか、と考えていたと。墜落して怪我するとか、死んでしまうとかは一向に思い浮かばなかった、と。まあ、動転、錯乱状態だったのだろうが。それから空中懸垂などを含めた困難な退却行を続けて何とか帰還した。
やがて、時代は戦争へと突入した。彼も兵士として前線に立ち、また捕虜収容所生活を2年送った。戦後も山への情熱は変わらなかったが、体力は落ち衰弱し、食料事情は悪く、極めてゆっくりと調子を取り戻すしかなかった。西部アルプスにあこがれていたが、近場の垂壁でトレーニングに励んだ。その一方で一時期スキーにも興味を示した。怖さ知らずで元々運動神経が良かったのか、滑降レースに飛び入りして入賞までしてしまった。賞としてスキーとワックスをもらった。調子に乗って次の競技会に出場し、スキー板を折ったり、障害物の納屋に飛び込んだりした。またさらに無茶な飛ばし方で膝の筋を痛めギプスをはめることになった。それでスキー生活も終わりにしてまた山に戻っていった。痛めた足で岩壁を登り、無茶をしたので、再度痛め、またギプスをはめられた。リハビリの山歩きの最中に大自然の魅力を感じ、女の子とも知り合いになった。それからドロミテ行きをもくろんだ。マルモラータの南バットレスを登攀し、チベッタのオーバーハングも制した。冬のトレーニングとして33時間で25峰を踏破したが、そこではわずかに2時間休憩したのみだった。
1948年の夏にフランスの高山学校から彼にシャモニへの招待状が届いた。念願の西部アルプスへのデビューだった。荒天の夏だったが、トリオレの北壁など難壁を登ったし、グランド・ジョラスにも初見参した。
初めてのジョラスは悪天候で敗退したが、完登にむけてトレーニングに励んだ。マルモラータ南東壁の冬季登攀は未踏だったので、それに挑み完登した。そして半年後に嵐をついてジョラスの第4登を果たした。輝かしい成功の年1950年の締めくくりとして彼は南チロルを再訪した。西チンネ北壁が目標だった。マルモラータと並んでドロミテにおける最難関とされていた。ここは伝説の名クライマー、カシンとラッティが3日のビバークの後に完登したオーバーハングした壁なのだ。「僕の足下からはオーバーハングになった岩壁が切れ落ちている。戻ることはもうできなかった。戻るにはもう力が足りない。クーノーは20米ばかり離れて棚の上にいる。ザイルは大きく弧を描いて彼のところまではしっている。彼は確保のためのハーケンを一本も持っていない。だが、僕はもうどうにも頑張れない・・・《クーノー、僕は墜ちるぞ!》僕は叫んだ。もう指は伸び切ってしまう。まるでバターを塗ってあるように、指はつるりと岩から離れてしまった。ところが、なお、最後のエネルギーを振り絞って、上体を反対側のカミーンの中に投げ込むことができた。僕は素っ飛ばなかった。僅かに手足を岩に突っ張ることができたが、ほんの数秒間である。というのも、オーバーハングになった岩はぐんぐん体を外に押し出してしまうのだ。墜落寸前というきわどい限界すれすれのところで、僕はまだぶらさがっている。体が墜ちそうになると、必ずまだ体のどこかが岩との摩擦を見出すのだ。この絶望的な闘いは数分間も続いた。・・・」夕方の6時、登り始めてから11時間後に彼らは西チンネの頂上で握手を交わした。
ホッホケーニッヒ(ザルツブルグ近傍)で彼はスキー教師をしていた。そこからドイツ、バイエルンのラムサウまで長距離レースのためにばしば国境を越えた。
ラムサウには定宿にしている旅館があった。そこの娘と恋に落ちたからだった。そこまでの距離は凡そ50kmあった。しかし日曜ごとに彼は通っていた。そしてめでたく結婚した。妻も山を愛した。二人であちこちの山を楽しんだ。山仲間は《ヘルマンの奴、もうお終いだ》といったが、それは1年と持たなかった。彼はまた厳しい登攀の世界に還っていった。1952年7月4日、妻がたまたま実家に帰っていた期間を利用して、ピッツ・パディレ北東壁を登りに行った。このルートはカシンが3ビバークの末に初登攀したものであり、しかも先行して登っていた2人は疲労困憊して頂上で亡くなっている程の難壁なのだ。彼は懐が豊かではなかったために、自転車で壁に向かった。しかも単独で。そしてなんと4時間半という超速で壁を登り切った。そしてまたインスブルックまで自転車で帰って行った。マロヤ峠までの1100mの登り道を上がり、夜の8時から140㎞を遠路家を目指して帰っていった。さすがに疲労と眠気でふらふらになり朝方にはランデック近くのイン河に飛び込んでしまい、曲がった自転車をかついて郵便自動車に拾ってもらい帰っていった、というおまけまでつけての帰還だった。
それから1月もたたぬ7月26日彼ら(ハンス・ヨヒラー兄弟と彼の妻)はアイガー北壁を登るためにグリンデルワルドにやってきた。アイガー北壁は例年と違って、雪や氷が消えてしまったために、いままで氷でしっかり止められていた岩が頻繁に落下している。ヒンターシュトイサートラバースを越えて、第一雪田に辿り着くが雪なんかなく一枚岩の上に薄く氷が張り付いていて登攀は困難だった。ドイツ人の2人パーティーも後続する。第ニ雪田も同様で難しい。そこで下方を見やるとなんと5人ものパーティーが登ってくるのが見えた。それは2組のザイル・パーティーで第一にレビュファだ。「声が届くところまできたので互いに挨拶をかわす。それから後に続く連中の中にマニョーヌがいた。彼にはもう二年前にドリュの北壁で逢ったことがあるが、彼はたったこの間、モン・ブランの残された最大の未踏壁であるドリュ西壁の初登攀を行なって素晴らしい手柄を立てたばかりだった。僕は彼に心からの祝福を伝える。だが、このとき僕ははっとなにか感じたーーいや、僕は思ったのだ。つまり、いまここでこうして国際的に高名なクライマー達と一緒になってみると、僕には自分が余りに小さな存在で、なんだか全く余計な人間のような感じがしてきたのである。」
この時のことはガストン・レビュファの「星と嵐ー六つの北壁登行ー」にも記載があります。「ブールの名前はかねてから知っていたので挨拶したが、返事はなく返してきたのはヨッホラーの方だった。・・・」。後に彼らは一つのパーティーになるのですが、言葉も違い、立場も違うと受け取り方は微妙にすれ違うのでしょうか。
雪と固く厚い氷が消えてしまった北壁は、岩に張り付いた薄い氷、転石、落石、ぐずぐずのルンぜ、オーバーハングと彼らの進路を阻んだ。第三雪田を越えて、蜘蛛へのトラバースの手前で9人がビバークした。上にヘルマンら、中にドイツ人、下がフランス隊。翌日は吹雪になった。チリ雪崩の中を少しづつ前進していった。一日かかってわずか250mしか進まなかった。2回目の夜がやってきた。ビバークの装備がないドイツ人たちはフランス隊のやっかいになった。ヘルマンは翌日も凍ってがちがちになった体と装備で困難な岩に立ち向かった。4時間立って20mのオーバーハングを登り切り、ほとんど力尽きてゼップにトップを替わった。頂上直下になって初めて陽ざしが差してきた。夕方の5時に頂上に到達した。フランス隊は1時間遅れて到達した。細かい葛藤などはあっただろうが、9人が一丸となって成し遂げた北壁行だった。
1954年に、彼にヒマラヤ遠征のチャンスが訪れた。2回ナンガ・パルバット遠征に赴き、遂に生還することの叶わなかったヴィーリー・メルクルの義弟ヘルリッヒコッファー博士が指揮する遠征隊だった。ドイツの上部団体は彼の経験不足から難点を指摘し支持から離れたが、オーストリア岳界は支持した。ナンガ・パルバットは1895年のマロリー以来、幾多のドイツ遠征隊の挑戦を跳ね返し、すでに31名もの犠牲者を出していた。それゆえ、恐怖の山、運命の山、魔の山などと恐れられていた。ベースキャンプから第1,第2キャンプと設営しながらも大きな氷雪崩に何回も襲われた。フンザ人の人夫は数が少なすぎた。六月も中旬になると夕方は晴れるが、夜には激しい吹雪になりテントは埋まった。吹雪は繰り返し続いた。それに第3、第4キャンプと上に上がるにつれ、人夫達の働きは鈍くなり、なかなか上がってくる者が少なくなってきた。人夫達はストライキを起こすか病気だと言い出す。上部キャンプで粘るが、なかなか好天が巡って来ない。そのうちベースキャンプから《来週中に頂上が陥ちないときは撤退・・・》と指令がくる。もうモンスーンがやってくるのだろうか。ラワルピンジの放送局ではモンスーンの暴風雨が間近に迫っている、と伝えている。ベース・キャンプではもう登攀隊長が明日帰国するつもりだから、全員直ちに下山せよ、との指令だった。でも現在またとない好天なのだ。上部では皆登りたがっている、といってもベース・キャンプは撤去命令の一辺倒だった。今後下からは一切支持を与えない、と。最後に《こうなっちゃあ、もう仕方がない!諸君の成功を祈る》という下からの電話が最後だった。最後にサーブ4人と人夫4人が残った。最終第5キャンプにはオットーとヘルマンの若手2人が登頂隊員として残り、年長の2人は人夫をサポートしながら下に降りていった。頂上まで高距1200m、直線距離で6㎞ある。かつてこんな距離を中間キャンプなしで踏破した試はない。しかし他に手段はなかった。7月3日風は強烈だが、晴れている。出発の2時過ぎになってもオットーは起きない。やる気がないという。彼は単独で出発する。オットーは後からついていくという。スキーストックをつきながら、ジルバーザッテルを目指した。そこは広大な雪原だった。空気は冷たいのに太陽光線はじりじりと痛い。前峰の岩峰を北側から回り込んで、主峰の元に辿り着いた。岩稜や細い雪稜をたどった。するとジャンダルムともいうべき垂壁が現れてきた。そこを乗り越えるのは殆どアルプスの難しい岩場と同等だった。歯を食いしばって乗り越えた。そしてついに午後7時に8125mの頂上に到達した。そしてピッケルに小旗を掲げて写真を撮った。登頂のシンボルとしてそれを残した。下山はアイゼンが外れるなど非常な困難を伴った。途中で闇夜になってきて、ほぼ立ったままで岩稜に背もたれしてビバークするしかなかった。苦しい夜もやっと明けて陽ざしが差してきた。彼は殆ど、転びながら、よろよろと下っていった。ジルバーザッテルを越えてテントが目に入ったときに、やっと生きて帰れる元気が湧いてきた。そしてその日の夜7時に最終キャンプ地に辿り着き、ハンスとヴァルターのうれし涙の抱擁を受けた。ヘルマンは足を凍傷に侵されていたが、気分は最高だった。ベース・キャンプでは心地よい風が吹き、緑の草花が咲き乱れ、彼らの登頂を歓迎してくれる、はずだった。しかし命令に背いて登頂した者に本隊は冷淡だった。歓迎祝宴どころがすぐさまの帰国命令がでていたのだ。
このいささか、苦々しい成功の一年後にミュンヘンのヘルマンの自宅にあの3人が集まった。すなわちハンス・エルテルとヴァルター・フラウエンベルガーだ。
それは妻が二番目の娘を贈ってくれた誕生日祝いを兼ねたものだった。遠征の帰り道、常に二人は凍傷で歩けなくなったヘルマンに付き添ってくれた。フンザ人の高所人夫達もヘルマンを担がせてくれといってきかなかった。想い出はあまりに生々しく、下らないものは下らなく、平凡なものは平凡で、美しいもの、崇高なものは依然として美しいのだ。最後に彼は過去にナンガ・パルバットに挑みながら斃れていった先人たちを偲びながら次の文でもってこの書を締めくくっている。

山は僕等の憶い出の中に光り耀いている。過去における里程標であり、未来への指導標である。

さらばわが感謝を捧げん、友よ!
いざともに盃をかかげん。

本来ならば、ここからがヘルマン・ブールの輝かしい第2章であるべきであった。
1957年にはもう一つの8000m峰、ブロード・ピークを登頂して、その後、仲間のクルト・ディームベルガーとさらにもう一つの7000m峰チョゴリザを目指して、頂上近くまで迫りながら荒天に襲われて引き返す途中、足元の雪庇が崩れ、墜死し還らぬ人となったのである。
輝かしい未来も永遠に叶わぬことになったのはまことに残念という他にない。

ナンガ・パルバットの物語はこの後、現代の超人ラインホルト・メスナーらに引き継がれていくことになる。

宿縁 七月号 中原寺

葉っぱのフレディに自分の姿を見る

 つい先日の朝刊のコラムにこんな記事が載っていました。
 『東京都知事選で選挙ポスターが物議を醸している。品位のない掲示手法は論外だが、九州では投票を呼び掛ける選挙啓発ポスターが話題になった。問題視されたのは「他力本願知事・ほかだよりひこ」という表現だ。良くない知事の例として挙げたもので、鹿児島市の本願寺鹿児島別院などが「他力本願の使い方が本来と違う」として強く抗議。これを受けた県選管は「人まかせ知事」に修正した。おやと思われた人もいるだろうか。平成十四年に企業の「他力本願から抜け出そう」という新聞広告が騒ぎになったことがある。元は仏教用語で阿弥陀仏が衆生を救いたいとする願い(本願)のことだが、転じて辞書に「他人の力をあてにすること」と列記されている。その意味しか知らず、日常的に使う人が多いのだ・・・』
 こうして本来の仏教用語が分からず世情の考え方にすりかえられられるのは残念です。しかし世間の物差し(世間智)しか知らず仏法(真理)を聞き学ぶことがない人たちが使用するのでは仕方ないのかもしれません。
肝心なのは仏法を志す人(求道者)は、仏教の言葉は正しく使用し、間違って使用する人たちには何度でも声を上げ続けることが大切でしょうね。
 「他力」は「自力」に対する言葉ですが、「ここでは阿弥陀仏の力(はたらき)を意味します。「本願」は阿弥陀仏が、善悪、大小を問わず、すべての生きとし生けるものを浄土に往生させようとする誓願のこと。つまり、他力本願の意味は、自らの修行の力ではなく、阿弥陀仏の本願の力によって仏に成る(目覚める)ことであります。
 こう説明しても「分かりました!」という人はまずいないでしょう。人間の進化の過程で得た「ことば」は感情や思想を伝える表現方法で、他の生き物にはないツールですが邪推や憶測を伴うものでもあります。
 「他力」・「本願」・「阿弥陀仏」といった言葉をどんなに説明したところで世間智で生きる私たちにはなかなか体にストンとおちないのです。
 そこで小児科医である駒澤勝さんの「目覚めれば弥陀の懐」の本に出会えた中身を一部紹介し、他力本願について考えましょう。
 まず目に引いたのは「誤解している『葉っぱのフレディ』の章」です。数年前にブームになった絵本で、森繁久彌さんの朗読を収めたCDも発売されました。深い哲学的思想がなかなか的確にわかりやすく説明されていて私もとても良い本だと記憶しています。
 おおよそのあらすじはこうです。
 『一本の大きな楓の木があって、そこに何千枚もの葉っぱがついているが、その一枚がフレディである。同じように葉っぱであるダニエルやベン、クレアらとともにフレディは春に芽が出た。つまり誕生した。夏には青々とした立派な大人の葉っぱに成長する。太陽の光を存分に浴び、さわやかな風を浴びてダンスを踊り、楽しく過ごす。そして秋が来ると他のどの葉っぱともまた違う、フレディらしい美しい黄金色に身を染めて葉っぱの人生を謳歌する。しかしいよいよ秋が深まるとともに、自分の死期が迫っていることを察知し、行く先を心配し不安に思うようになる。友達の葉っぱで物知りのダニエルが、「落葉した後、また木の栄養となって翌年の葉っぱを支えるのだ」と諭してくれる。そして冬の到来とともに、友達の葉っぱは次々に落葉する。つまり死んでいく。そして雪の多い冬のある日、雪の重みに耐えかねて、ついに落葉して一生を終える』という物語です。
 この本ではフレディは擬人化されて、一つの生命単位として描写されています。ダニエルやクレアなどそれぞれの葉っぱは一つの生命体であって、それぞれ、その命を生きているように描かれています。実はこれは間違いであると駒澤先生は言います。この場合、一本の楓の木全体がひとつの生命体であって、何千枚の葉っぱがそれぞれ一つの生命体であるわけではない。つまりそれぞれの葉っぱに統合主体があるのではない。葉っぱの一生は大きな楓の木の命の営みの現れに過ぎない。フレディが春に芽が出るのも、そして柔らかく薄緑色の葉っぱから、夏に青々として骨格がしっかりしてくるのも、次第に人の手のような形になるのも、秋に紅葉するのも、フレディが勝手にそうなっているのではない。楓の木がそうしている。フレディがそうなるのは楓の木の性である。楓の木はそういうものである。葉っぱは次元が一つ上の楓の木の統合主体に統合されているのであって、自主独立ではない。それなのに、フレディは「自分は一つの自主独立の生命体」と思いこんでしまっている。楓の木と無関係に自分が存在するかのように思っている。自分が自分の力で変化し、自分の力で存在している自主独立の生命体だと思っている。もしフレディがこの誤りから目覚めて、「自分は葉っぱの命を生きているのではない、楓の木そのものだ」と気づいたら、今までとは全く別次元の世界が広がることになるはずである。
 さあ、皆さんはこの話から何かを感じ取れましたか。よく考えてみてください。