MTXの歴史

MTX(methotrexate)は古くて新しい薬です。その開発からの経過を大槻先生の原稿から抜粋して経年的に列記してみます。
大槻マミ太郎 皮膚科のMTXバイブル:旧薬誓書から新薬成書へ J Visual Dermatol 18:14-24,2019
大槻マミ太郎 MTXの七不思議、作用機序と用法の謎 J Visual Dermatol 18:26,2019
大槻マミ太郎 MTXとシクロスポリンの因縁の関係 J Visual Dermatol 18:35,2019
森田 薫、神田善伸 白血病、悪性リンパ腫におけるMTXの位置づけ J Visual Derrmatol 18:48-52,2019

【MTX関連の歴史】
1946年 類似薬のアミノプテリンが小児白血病に使用され、一時的な寛解をもたらした(Farber)。MTXはアミノプテリンにメチル基を導入したもので、より毒性が少ないことが後に判明(Smith)。
1947年 米国レダリー研究所で葉酸代謝拮抗薬として開発される。 
1951年 膠原繊維増殖抑制作用に注目したGubnerらは関節リウマチなどの関節炎に有効であることを報告。この中には乾癬性関節炎も含まれていた。
1953年 米国で発売。
1958年 悪性絨毛上皮腫に適応獲得。
その後乾癬や乾癬性関節炎にも広く使われるようになった。
1963年 日本でメソトレキセート2.5mg錠が白血病治療薬として発売。
1978年 本邦で大河原が乾癬におけるMTXガイドラインを報告したが、未承認薬であり、米国の肝生検ガイドラインなどに阻まれ、広くは敷衍しなかった。
1988年 抗リウマチ(RA)薬としてFDA承認。
その有効性、骨破壊進行抑制効果、生命予後の改善なども確認され、RA治療の第1選択薬となった。
1999年 国内でRA治療薬としてリウマトレックス(2mgカプセル)が発売。ただし使用上限は8mg/週であった。
2011年 公知申請が承認され、16mg/週まで拡大され、RA治療の第1選択薬となり、アンカードラッグとなっている。
2010年 乾癬に対して生物学的製剤が使用されるようになった。MTXとの併用のケースも増えてきた。
2014年 日本皮膚科学会から厚労省へMTX(リウマトレックス)の乾癬への適応拡大を求める要望書が提出。
2019年春 公知申請が承認され、リウマトレックスの乾癬への保険使用が可能になった。
【MTXの作用機序】
MTXは葉酸トランスポーター(reduced folate carrier:RFC) 葉酸受容体(folate receptor:FR)を介して細胞内に取り込まれ、主にジヒドロ葉酸還元酵素、チミジル酸シンターゼを阻害することによって葉酸代謝を抑制し、チミジル酸およびプリン合成、すなわち核酸合成を抑制することになり細胞の分化・増殖を抑制します。
白血病など抗がん剤としてのMTXの働きは上記により、細胞増殖が抑制され、アポトーシスによる細胞死が誘導されるということで問題ないように思われます。
しかしながら乾癬への効果は表皮細胞の増殖抑制をきたさない程度の極めて低用量でも明らかに認められることが分かっています。そうすると別の機序も働いているということになります。まだ完全には解明されてはいませんが、T,B細胞、マクロファージ、好中球、血管内皮細胞などに対する免疫抑制作用および抗炎症作用が考えられています。 
さらに最近ではアデノシンを介した免疫抑制作用がその主体ではないかとされてきています。
但し、乾癬そのもので多くの炎症物質が活性化しており、多様性もありアデノシンを介した経路もそのひとつにすぎないのではないかともされているそうです。
【乾癬に対するMTXの効果】
1965年にWeinsteinがトリチウムチミジンの取り込みを皮膚のオートラジオグラフィーで測定して(現在ならとてもできない放射線の実験と思われますが)、乾癬では表皮のターンオーバータイムが正常よりも極端に亢進し、短くなっていることを報告しました。(正常ヒト表皮では457時間、乾癬では37.5時間と計算)。
1971年 Weinsteinの法則を敷衍すれば、理論的には基底細胞の分裂を十分に抑制しうるMTX濃度を36時間(1日半)保てば、乾癬表皮の分裂細胞はほぼすべてMTXによってDNA合成障害を受けるが、正常表皮ではごく一部しかMTXのDNA合成阻害を受けないということになります。それ以来MTXの投与方法は36時間(12時間ごとに3回)投与する間歇投与法が確立されました。面白いことにcell cycleは短くはないはずですが、RAに対するMTXの投与法も乾癬での使用法が応用されて進化していきました。
先行したかに見える本邦でのMTXの乾癬への使用経験は長い間、RA治療の進歩に隠れて、日の目を見ずにいたことはすでに述べました。
ただ、MTXの作用機序としての細胞分裂周期の理論だけではもう説明がつかなくなっている時代ですので、今後さらに投与用量、間隔などは変わっていくかもしれません。

ここで一寸紛らわしいですが、メトトレキサートという名称とメソトレキセートという名称があります。
前者のメトトレキサートは一般名でメソトレキセートは商品名です。そして、リウマトレックスと同成分ながら乾癬、関節リウマチへの適応はありません。しかも薬価がかなり違います。
メソトレキセート(ファイザー) 2.5mg錠 35.9円
リウマトレックス(ファイザー)2mg錠  231.8円
一寸釈然としない感じですが、規則ですので乾癬にはリウマトレックスが適応になります。メソトレキセートでは適応外使用となり注意が必要です。
さらに、リウマトレックスはその強い副作用もあり、生物学的製剤との併用が多くなるために、皮膚科では使用可能医療機関はその効果、副作用のモニタリングに精通した生物学的製剤使用承認施設に限定されます。
われわれ開業医が使えないのは一寸残念ですが、安全な使用を考えれば妥当な措置かと思われます。しかし、将来バイオ世代のこれらの薬剤に精通した若いドクターが開業するようになってくれば状況は変わってくるかもしれません。

MTXの乾癬への使用の歴史において、特筆すべきものの一つに、乾癬の画期的な治療薬として登場したシクロスポリンとの関係、因縁があります。
そもそもシクロスポリンとは、ノルウェーの土壌の真菌から抽出された抗生物質でカルシニューリン阻害薬です。ヘルパーT細胞を介した免疫抑制作用を有するために臓器移植による拒絶反応の抑制や自己免疫疾患の治療に用いられています。
1972年に免疫抑制作用が発見され、1979年には乾癬にも有効であることが報告されました。
実は乾癬にシクロスポリンが効いたことが、乾癬が免疫が関与する疾患だと認識されるようになった先がけです。
腎移植、肝移植患者の中には乾癬を持った患者もいて、乾癬が劇的によくなったとの報告が相次ぎました。
そして肝移植の患者の中にはかなりの数のMTX投与後、その副作用によって肝硬変になった患者が含まれていました。肝硬変になり、乾癬の治療は中断、肝移植を余儀なくされた患者の乾癬が皮肉にも劇的によくなったのです。
このような経緯もあり、1980年代からは乾癬治療はシクロスポリンの時代に入っていき、MTXは乾癬への治療は低調になっていった経緯があります。

MTXの具体的な治療法、効果、副作用などについてはまた次回改めて書いてみたいと思います。

MTX乾癬に保険適用

メトトレキサート(methotrexate:MTX)が最近乾癬治療薬として保険診療で使えるようになりました。
MTXは元々乾癬治療薬としてずっと以前(1960年代)から世界中では使われていました。しかしながら本邦では一部では使われてはいたものの、未承認薬でした。安価で効果がある薬なのに適応外使用なのでもしも重篤な副作用が発現すると救済されず、下手をすると訴えられかねず、学会で話題にはなるものの誰もが顧みなくなったMTXを発掘、蘇生させることは、「誰が猫の首に鈴をつけるか」の例えのごとく実現は困難と思われていました。自虐的に「日本はガラパゴスだから」といわれることもあったようです。
 その流れが変わってきたのは、種々の要因があるようです。一つは海外では乾癬標準薬として使われていて、日本だけが取り残されていた現状です。関節リウマチ(rheumatoid arthritis:RA)や乾癬性関節炎(psoriatic arthritis:PsA)によく効き、1988年には米国FDAでRA薬として承認され、海外ではRA治療の第一選択薬となり、本邦でも1999年にRA治療薬として承認されました。ただすでに1963年にはMTXは経口白血病治療薬として本邦でも発売されています。
 そして、更に乾癬でのMTXの存在意義を高めたのが、近年(日本では2010年から)使用されるようになってきた生物学的製剤との併用療法でしょう。レミケードなどのバイオ製剤とMTXを併用することで、その効果が高まり、抗薬剤抗体出現による二次無効を減らせることがわかり、この治療は全世界的にスタンダードとなってきました。
そのような現状を踏まえ、日本皮膚科学会から2014年に厚生労働省にMTX(リウマトレックス)の乾癬への適応拡大を求める要望書が提出され、公知申請が了承されて本年春に晴れて承認の運びとなったということです。
【公知申請とは】
臨床での使用実態がある未承認薬・適応外薬のうち、科学的根拠に基づき医学薬学上公知と認められた薬剤について、新たな臨床試験の全部または一部を行うことなく新規に効能効果等を追加する承認申請様式のこと。

その困難な申請の長い道程をリードしてきたのが自治医科大学の大槻マミ太郎先生でした。近着のMTX特集号のVisual Dermatologyの巻頭言の最後に苦労話が書いてありました。
「今あらためて感謝したいのは、5年前寿司屋のカウンターで背中を押して(火を焚き付けて)くれた佐野栄紀先生、孤独な一人旅の途中から手を貸して一緒に歩んでくれた五十嵐敦之先生、いつも見守って優しい言葉をかけてくれた森田明理先生、PMDAに出向以来裏で支えてくれた種瀬啓士先生である。そして古い症例を掘りおこして本号に寄稿してくださった執筆者の先生、二度のアンケートの調査に快くご協力いただいた生物学的製剤使用承認施設の皆様にも、心からお礼申し上げたい。」

大槻先生の渾身の特集号となっている雑誌からMTXについてその一部をまとめてみたいと思います。(次回)

特集 皮膚科で使うMTXの完全マニュアル 責任編集 大槻マミ太郎 Visual Dermatology Vol.18 No.1 2019

飛鳥

年末に奈良に行ってきました。今回の目的地は飛鳥です。2人乗りミニ電気自動車のミチモに乗って史跡を巡ってきました。
高松塚古墳キトラ古墳などの壁画をみたり、石舞台や飛鳥寺、聖徳太子誕生の地といわれる橘寺などを回りました。明日香村は「日本の心の故郷」といわれ、日本で唯一全域が古都保存対象地域だということを後で知りました。どうりで回っていても高層ビルやネオンなどの近代建造物は見当たりませんでした。古墳の近くを歩いていると雑木林の中にこんもりとした小山があったり、畑や田んぼがあって、当日が今にも雪でも降り出しそうな肌寒い日で、観光客がほとんどいなかったこともあり、まるで古代の景色もかくや、と思われるような感じがする処もありました。万葉人も同じ景色を見ていたのでしょうか。
蘇我馬子の墓といわれる石舞台は何十トンもの石が載せられていて、その権勢を誇っていたのが偲ばれるようでした。
その後に訪れた飛鳥寺は蘇我氏の氏寺で本邦最古建立といわれる飛鳥大仏(釈迦如来坐像)がありました。寺は何度も焼失しましたが、大仏は建立当時からその同じ場所で1400年もの間座しておられるとのこと。鼻筋はすーと高く通っており、インド、西域の仏像を彷彿とさせるようでした。
天皇の外戚として、権勢を誇った蘇我氏も乙巳の変で、入鹿が中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らによって暗殺され滅亡しました。飛鳥寺の近くの田園の一角には入鹿の首塚が寂しげに立っていました。その後大化の改新で新しい時代に移っていきましたが、天智天皇の没後、壬申の乱でその子、大友皇子は追い詰められ自死して果てました。そして天智天皇の異母兄弟(所説あり)の大海人皇子(のちの天武天皇)の世へと移っていきました。「中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出会い、645年に大化の改新をなしとげた。この時、二人はこの飛鳥寺に陣をかまえた。672年の壬申の乱の折には広場を軍隊が埋め尽くした。」と寺の説明板にありました。びょうびょうと寒い風が吹く首塚の近くから寺を見遣るとまるで兵士たちのざわめきが現実のもののような気さえしました。ここで芭蕉をもじるのもどうかとは思いますが、「冬枯れや 兵どもが夢の跡」という感慨がありました。 幾多の皇子たちが歴史の表舞台から消え去りながらも国のかたちは整っていったのでしょう。
帰り道奈良へ向かう車窓からみる大和路は四囲をなだらかな山波に囲まれながら広く平らな地でした。まさに やまとは国のまほろば と感じました。

追記
昔、高校の国語の先生に教えてもらった大津皇子の悲話はずっと心に残っていて、いつか二上山に行ってみたいと思いつつ今回も果たせませんでした。またいつか訪れてみたいと思っています。(家人にはそこにいって何があるのといわれ、確かに今はピクニックコースで何もないかもとは思いつつ)。
過去に 「花の百名山 田中 澄江」(2012.8.13)として当ブログに書いていますので、詳しくは書きませんが、興味ある方は読んでみて下さい。
皇子の姉の大来皇女がその死を悲しんで詠んだうたをあげます。

うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む