宿縁 十一月号 中原寺

      【仏恩報ずる身とはなれ】

 報恩講の季節が参りました。誰もが人生の基軸となり得る真実の教えを説いてくださいました浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご恩に感謝する法要は真宗門徒にとって最も大切な営みです。
その法要は親鸞さまがご往生(一二六三年)なされてよりその門弟たちが今日までおよそ七百六十有余年にわたり連綿と受け継がれた伝統の仏事であります。
 現代に生きる人々にとって今失われつつあるのは、「ご恩」とか「感謝」という思いだとよく指摘されています。考えてみると悲しい喪失感に襲われます。
 親鸞さまが到達された真実は国を超え民族を超えて全世界に届く宗教です。もしそうでないとするならば私たちの受け止め方に問題があるのです。真実を顕わす釈尊の説かれた「大無量寿経」に示された「阿弥陀仏の本願」は少しの揺るぎもありません。十万衆生(あらゆる人々)を摂(おさ)め取る、すなわちその仏の願いから漏れる者が一人もいない救いだからです。
 「大無量寿経」は仏さまの世界(さとり)を顕したものですから、人間の閉ざされた世界に埋没して生きる私たちにはなかなか難しいと思うのは仕方がありません。
 親鸞さまはそれを丁寧に私たちにお示ししてくださいました。
 日頃親しまれている聖典『正信偈』に次の言葉があります。「憶念弥陀仏本願、自然即時入必定、唯能常称号、応報大悲弘誓恩」(阿弥陀仏の本願を信じれば、おのずからただちに正定聚に入る。ただ常に阿弥陀仏の名号=南無阿弥陀仏を称え、本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよい。)」と述べられています。
 「正定聚」(しょうじょうじゅ)とは、浄土に必ず生まれる身に今ここで定まるということです。
 またこのことをどんな人にもわかりやすい表現で説いてくださった蓮如上人の『ご文章』には、「親鸞聖人のお勧めくださるご趣旨は、どこまでも阿弥陀仏の「我かならず汝を救う。どうかわが救いのはたらきを信じてお念仏を称えてくれよ」とのことであるから、人間の分別、計らいの用もなくなり、南無阿弥陀仏とお念仏を称えることは、如来さまが、浄土往生を決定してくださった御計らいへのご恩報謝のお念仏とたしなませていただきましょう。とお勧めくださいました。
 このように「ご恩報謝の営み」とは、仏願を聞くところに開かれる真実信心に目覚めたものに自然にもたらされる念仏者の報恩の生き方であります。
 もう一つ次の浄土和讃を取り出して考えてみましょう。
 安楽浄土にいたるひと
 五濁悪世にかへりては
 釈迦牟尼仏のごとくにて
 利益衆生はきはもなし
  「安楽浄土にいたるひと」とは、「浄土に至った仏」ではなく、「浄土に生まれるに間違いない」(正定聚の人)のことでしょう。「五濁悪世」はこの世のことです。すなわち、浄土に間違いなく生まれる真実信心の人は、「自分一人の往生を求めるのではなく、五濁悪世のこの世に眼を向けてお釈迦様が衆生教化されたように、五濁悪世を生きる仲間とともに真実の利益を賜わること限りない身に転ずる」ということでありましょう。
 親鸞聖人は『教行信証の信巻』に「金剛の真心を獲得すれば横ざまに五種八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲」と述べられています。その八番目の益に「知恩報徳の益」(如来の恩を知り、その徳に報謝すること)。そして九番目に「常行大悲の益」(常に如来の大いなる慈悲を広めること)。十番目に「入正定聚の益」(浄土の仲間に入ること)とあり、いずれも念仏の行者としての身の利益を大切にされています。
 近頃のテレビのCMから心がほのぼのとする映像をご紹介いたしましょう。きっと皆さまの中に知っている方もいると思います。

 鬼が「心の豊かさ」を探す旅に出る。
ある日、鬼は道端のお地蔵さんを洗っているおばあさんと出会いました。
 (鬼)おい人!何してる?
 (おばあさん)こうすると心が洗われるんだ。心の豊かさは大事!
次に鬼は一人の少女に出合いました。
 (鬼)おい人!心の豊かさって、なんだ?
 (少女)とりあえず笑おっか!
次に鬼は羊羹を食べている男女の二人に出あいました。
 (鬼)おい人!心の豊かさって、なんだ? 
 (二人)分け合うことかな。
次にバスの光景。停留所で待っている鬼の前で降り際に一人の小学生が運転手に「有難うございました」と言って降りてくる。
 (鬼)おい人!心の豊かさって、なんだ?  
 (運転手)感謝することかな。感謝されるとうれしいから。

 「感謝」とか「報恩」というのは理屈で知るものではなく、姿や言葉で表すことの大切さをこのCMは教えてくれていないでしょうか?