【お念仏を称えずに死んでゆきますか】
「妙好人(みょうこうにん)」という素晴らしい言葉があります。仏教の教えを聞くご縁を持たない人には「なんですかそれは?」と思うでしょうね。
生活の中心にお念仏(なまんだぶつ):阿弥陀仏のまことの救いを中心に据え、人生の苦しみや悲しみをも恵みと受け止め、あらゆることに感謝して安らぎの世界を見出した尊い人のことをいいます。
私の手元に大切にしている「信者めぐり」という古びた一冊の本があります。大正十一年一月に発刊され、昭和四十四年十月に十三版で絶版となっています。
この本はたしか五十年ほど前、月参りに伺っていた東京のある家のおばあちゃんからいただいたものです。
かつて京都本願寺本山の近くにあった「ふでや」という旅館を営んでいた三田源七さんが若年の頃、求法の旅に各地に出かけて、妙好人や諸名僧を訪ね、三田老人の腹を透して来た法悦の記録です。
三田老人というのは、弘化三年(一八四六年)丹波の国多田村に父源助の次男として生まれました。十三歳のとき、父に別れ、それが動機となって、出て行く後生(人生における最重要事)のことが心配になり、説法法話の席にもたびたび出かけましたが、どうも真実信心が戴かれぬと言うので元治元年(一八六四年)十九歳の年に我家を出て、各地の有名な信者や名師を歴訪して法を求められました。晩年は京都に止まって仏法を味わい、その喜びに過ごしました。この「信者めぐり」は、越中の竹田同行が、上京(京都)のたびごとに聴聞したのを、忘れた時の用意に備えて書き留めた忘備録を整理して出版されたもので、時を超えて求道者から求道者へ受け継がれ行く真実の道というべきものです。まことに古人が「信を得し人の喜ぶ言の葉は、仮名にあらわす経陀羅尼(仏の教えの要がおさめられた文章)なり」と言いましたが、大切なものを見失って流浪する現代人に警鐘を鳴らすものと確信します。
ここに取り上げるのは妙好人の一人、三河国田原の「おそのさん」です。
『伊勢の町を、おそのさんが念仏を称えながら道を歩いておられたら、行き違いの人がその念仏の声を聞いて、婆さんが空(から)念仏を称えて行かれたわいと独り言をいうた。それをおそのさんが聞き付けて「よう言うてくれたよう言うてくれた、何処に知識(正しく教え導いてくれる人)があるやら知れぬものじゃ」と言いながらその人の後を追った。するとその人はまた振り返り、「そのように腹を立てぬでもよいじゃないか」、「いや腹が立つのじゃない、御礼が言いたいのじゃ、この婆々の口に称える念仏が、もしも功(てがら)になって助かるなら何としよう、まるまる助けられた後のかす念仏とは嬉しい、よう知らせてくれた、よう知らせてくれた。」』
もう一人、加賀国にいた森ひなさんという六十一歳のご婦人です。
『妙好人』という著書を編まれた鈴木大拙師(仏教学者で禅の研究者として知られ欧米にも大きな影響を与えた文化勲章受章者)がこのひなさんと会う機会があり、ひなさんの唄のなかにある「わが機(素質)、ながめりゃ、あいそもつきる。わが身ながらもいやになる。ああはづかしや、なむあみだぶつ」ということについての会話です。
・『大拙師「ここに、わが機ながめりゃ あいそもつきる、とあるが、こりゃ、あんたの煩悩やろさけ。朝から晩まで出 る煩悩のことを、あんた言いなさるんやろさけ、この煩悩、半分、ワシに分けてくれんか」
・ひなさん「こりゃあげられん」
・大拙師「なんでや」
・ひなさん「この煩悩あればこそ、照らされ十劫の昔から、この煩悩にかかりはててくださった親さま(阿弥陀さま)も。
いまがいまとて、この煩悩とは、ほんとうにあさましい横着なもんや。その煩悩、見せてもろうては懺悔(自らが気づかな かったあやまちを悔いること)させてもろうとるさけ、あんたにわけてあげられん」
・大拙師「ああそうじゃ、あんたにわけてもらわんでも、ワシャあんたよりか、二倍も三倍も煩悩もっとるぞ。いのちあ るかぎり、この煩悩見せてもろうていこうね」
さて、ここに紹介した妙好人の言行をどう思われますか?
親鸞聖人のお言葉(歎異抄)に「念仏は、それを称えるものにとって行でもなく善でもありません。念仏は自分のはからいによって行うものではないから、行ではないというのです。また、自分のはからいによって務める善ではないから善ではないというのです。念仏は、ただ阿弥陀仏のこの私を救わんと誓う本願のはたらきなのであって、自力をはなれているから、それを称えるものにとっては、行でもなく善でもないのです。」とのみ言葉を見事に顕わしていると思います。
また、すべてを知り尽くした阿弥陀仏の前には、何にも執われることのない自由自在な念仏者の生き方を教えてくれているように思い、日頃の堅苦しい束縛から解放されたあたたかい風情をしみじみと感じます。