宿縁 九月号 中原寺

      [信心とは安きこころなり]

「言うまいと 思えど 今日の暑さかな」 (作者不詳)

 皆さまには、何時までもとも知れぬ猛暑続きの日々にいかがお過ごしでしょうか。
 八月の下旬から九月の初旬にかけては、二十四節気では「処暑(しょしょ)」といい、この時期は残暑は続くものの朝夕には涼しさを感じることができる季節となり、植物に露が出て、葉の緑が白く輝くように見えはじめることから「白露(はくろ)」の季節に向かうと言われています。
 時折、目をやる街路樹は、焼け付く太陽にも勇ましく生命を維持しています。目には見えねど土中の根がしっかりと生命を支えてくれているからなのでしょう。
 それにしても近年の暑さは体感に怖れを感じるほどで、神経にも異常をきたして犯罪に繋がるニュースも気にかかります。
 さて、仏教では、人間の目に見えないものに対して常に五つの怖畏(おそれ)を抱いていると教えます。つまり、「怖れ」を抱きながら生きているのが私たちなのだということです。
 親鸞聖人が、浄土真宗を伝えられた七高僧の最初に仰がれたインドの龍樹菩薩は、『十住毘婆沙論』(じゅうじゅうびばしゃろん)という著作のなかで、人間の目に見えないものに対して常に五つの怖畏(おそれ)をいだいていると説かれています。
 一、不活畏(ふかつい)
 ニ、命終畏(みょうじゅうい)
 三、悪趣畏(あくしゅい)
 四、大衆威徳畏(だいしゅういとくい)
 五、悪名畏(あくみょうい)
一の不活畏とは、食っていけなくなるのではないかというおそれで、生活の不安、特に衣食住の不安をいいます。
近頃の「闇バイト」の問題も、なんであんなことをと思いますが、やはり、本当の喫緊の経済の問題に困っている人が多いということを示しているように思います。
二つ目が、「命終畏」です。死んだらどうなるのだろうかという漠然とした不安が身をおそってくるということです。
三つ目が、「悪趣畏」です。苦しみの世界に陥るのではないかというおそれです。
四つ目が、「大衆威徳畏」です。これは、大勢の人に威圧されるおそれです。世間体を気にするのです。世間が何といっているのだろうか、どんな評判を立てているだろうか、そのことが気になってたまらない。実体のない世間の思惑ばかりを気にしてビクビクしているのです。みんなの目を気にする、人の目を気にするというおそれが常に付きまとっています。
五つ目は、「悪名畏」ですが、周囲から悪く思われないか、悪口を言われているのではないかとおそれ、絶えず周りを気にしているということです。
 こうした怖れを超えた世界が「仏の世界」(さとり)なのです。しかし、私たちには常にこうした世界が付きまとい、それを完全に克服することはできません。ただこうした怖れを知ることで、我も人もこうした問題に苦しんでいるという眼が開けるのではないでしょうか。
 前月、八月の第四金曜日の夜にNHK「チコちゃんに叱られる!」を見て思いつくことがありました。
 一問目の出題は、「なんで人は手をつなぐの?」というものです。チコちゃんの答えは、「痛みと不安が弱まるから」です。
 親子、恋人同士など人は何かと手をつなぎたがりますが、人は手をつなぐと精神的な不安や実際の痛みを和らげるということが研究によって徐々に明らかになってきていることを知りました。そして、人間が何か痛みや不安を感じた時にはまず脳内で大量のストレスホルモンが分泌されますが、この時にパートナーと手をつなぐことで愛情ホルモンが大量に分泌されてストレスホルモンを薄めてくれるので不安や痛みの感覚が弱まるというのが実験から考えられる結論でした。
 今から四年前の八月、コロナ禍のなかで私の長姉は寿命を終えました。もう余命がわずかと知らされて病院に会いに行きましたがコロナ禍の最中で病室に入れてもらえず、ドアーの外からの対面でした。私に気づいた姉は必死に傍へ来るように目と手で合図をしましたがそれがかなわず今生の別れとなりました。
 それからしばらくの間、無念さや病院への対応の仕方に度々不満が頭をよぎりました。
 ようやくそれが私自身の妄念ゆえであることに気づかされたのは月日を要しました。
 まことの安心(信心)はこの私の願いをブッダ(阿弥陀仏)に向けていくのではなく、『阿弥陀さまからの願いを聞かせていただく一つだ』ということなのです。
 思いのままにならない我が人生を見抜いてくださっているからこそ阿弥陀さまの願いが先に来ているのです。「どのような時にも手を放しはせぬぞ!』。『摂取不捨』(おさめとって捨てず)と、はたらきづめの確かなお慈悲こそが間違いないのです。
 いつも一緒だよとの母のぬくもりの手が、何も知らない幼子に安心を与えるのです。