宿縁 六月号 中原寺

  「宗教に入る」でなく「宗教に出る」

 仏事(法事)の大切さを知らずに人生を終える人が増えてきました。
 仏事も法事も仏さま(さとり)の世界に遇う尊い縁ですが、人間に生れて人間界だけを歩む人は残念ながらたくさんいます。
 仏法の世界に耳を傾けると、私たち人間はすべからく「縁起的存在」(他との関係が縁となって生起する)と言われます。
 ですから仏事・法事がおろそかになることはそれだけ人間の営みに身をうずめてしまっていると言えましょう。
 では人間界とはどういう営みなのでしょう。 
 それについて仏法では、「人間は心愚かにかたくなで、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかりである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼる。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生まれて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。」(無量寿経)と釈尊は哀れみ悲しんでいます。
 私たちの人生には、生活の「生」と「活」という二つの課題があります。「活」はどのようにして衣食住を得られるかに関係しますが、生きることや死ぬことに意味を問うのが「生」の問題です。だから「活」のことに終始してしまうのが悲しき人間の存在といえましょう。もちろん「活」の問題も大切です。では人は衣食住が十分に手に入ったとき、「さあ次は生きる意味(生)を問題にするぞ」となるかと言うとそうはならないのです。「其の内其の内、日が暮れる」というではありませんか。あなたを含めた周りを見れば、「たしかにそうだ!」と言わざるを得ません。
 世間では、弱い人が宗教に入るといいます。でも釈尊や親鸞聖人の伝えようとした仏教は「宗教に入る」ではなく、「宗教に出る」という表現が適切な気がします。人間のエゴがつくり出す矛盾と苦悩に満ちた偽りの狭い世間から、本来のいのち輝く真実の広い世界に出るのですから、そのことを親鸞さまは往生浄土と表現しました。
 「活」と「生」は密接に関係しどちらも大切ですが、質的に次元が異なる問題です。 
 どの人にも必ず死がおとずれます。その事実とどう向き合えばいいのでしょうか。必ず来るものはどうしようもないではないかという問題ではないでしょう。地位も名誉も財産もないよりはあったほうがいいでしょう。しかし釈尊がそうであったように、ないよりあった方がいいという相対的なものでは生死は超えられないのです。是非ともなければならないものでしか生死(迷い)は超えられない。死があってもなおかつむなしくないと言える根源的世界への目覚め、生と死を貫く絶対的真実への確かなうなづきがなければ生死の苦しみは超えられません。つまり、私たちがひとりぼっちの孤独から救われるのは、『永遠のいのち』の通ったわがいのちであると知らされた時です。それこそが「生」の課題を明らかにする世界です。
 しかしいつの時代においても、家庭や学校や社会で、この課題をほとんど問われることなく素通りすると言っていいでしょう。
 それで、その「生」の問題を考える場(縁)として仏事が大切にされてきました。
 まだまだ仏縁に遠い人たちは仏事と言えば死んだ人に対して僧侶にお経を読んでもらうくらいにしか思っていません。ですから「お念仏を申しましょう」「ご一緒にお経を読みましょう」と声をかけても黙っている状態です。仏事の場は他人事なんですね。
 親鸞聖人は『心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た)て、念(思い)を難思の法海に流す。深く如来がわたしの「活」の実態を知らせ「生」の解決を教えていただいた慈悲の深いお心を知り、その仏恩を感謝せずにはおれない』(教行信証末)と、ご自身のお心を私たちにお示しくだいさいました。
 国民歌謡として親しまれている「四季の唄」の四番目の詩は深い味わいがあります。
     ♪冬を愛する人は、こころ深き人
      根雪をとかす大地のような
      僕の母親
 口ずさんでみてください。
 根雪とは、降り積もった雪の長い期間に残っている状態を指します。主に降雪量の多い雪国や降水量の少ない寒冷地で雪が積もった後に雪解けの季節まで雪が地面を覆う状態が続くことを指して「根雪が解ける」と呼び、冬の訪れや春の訪れの時期をつかさどるために使われています。
 この歌詞にある「根雪をとかす大地」、「僕の母親」の詩に言い知れぬ深い情愛を感じます。人間界にうごめく生きづらさは降り積もる業苦となって頑なで安らぎを与えません。
 しかしそのような私を捨てずして、やさしく抱きとっていてくださる存在が「お母さん」という名前に込められた深き慈愛のはたらきです。
 「南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)」は、名号(みょうごう)です。「どんな時でもあなたと離れることはないんだよ」との名のりです。お念仏申すところに如来さまはお出でです。