八千米の上と下 ヘルマン・ブール 横川文雄 訳 朋文堂
若い頃、その瞠目的な行動記録に心打たれ、心酔したアルピニストの一人です。
久しぶりにその本を取り出して読んでみました。
ヘルマン・ブールは1924年にオーストリアのインスブルックに生まれ、1957年6月27日、ヒマラヤのブロード・ピーク登頂後、チョゴリザの登頂を目指しつつも、荒天で頂上直下の北壁の雪庇が崩れ、墜落死した若き天才登山家です。何よりも彼の登攀歴の輝かしい頂点ともいうべき登攀は、1953年7月3日にドイツ・ヒマラヤ遠征隊の最終段階で単独で41時間の行動で成し遂げたナンガ・パルバットの初登頂でしょう。
この本は彼が幼い頃から、山に目覚め、熾烈な山への情熱と不撓不屈の意志で数々の瞠目的な登攀を成し遂げ、遂にヒマラヤの難峰ナンガ・パルバットの初登攀を成し遂げるまでの自伝の書です。500頁に亘る大冊ですが、その骨子をかいつまんで抜き出してみます。
その前に、まず本の序に、「天と地のあわいを行くさすらい人」の長文があります。 1954年8月 ヴィーン クルト・マイクス
彼の足跡を愛情と驚嘆をもって、さらに文学的な修辞でもって書き上げた彼への賛辞です。ヘルマンがあえて書かなかった、彼自身の人となりもよく覗わせてくれます。そのいくつかを抜き書きすると。
・ヘルマン・ブールがたった独りで敢行した登頂行は、もう今では人々の語り草になっている。理性の命ずるあらゆる法則に従って考えるならば、彼は頂上から二度と再び戻って来ることのできない公算が大きかった。ヒマラヤ登攀史上、未だ嘗てブールの登頂行に匹敵するいかなる肉体的・精神的な行為も見られない。はたしていままでに、前の日の朝、高所キャンプを若々しい顔で出掛けて、翌る日の夕方、早くも老人のように皺だらけの顔をして戻ってきた登山家があったろうか?
・ヘルマン・ブールは心の温かい、しかも人から好かれる男なのだ。彼と相対した者はまず、これがあの《超人》なのかと全く信じられないくらいだ。ほっそりとした体つきは殆ど優しすぎるほどである。顔をみても、租々しい力と結びつけて考えられるようなものはどこにも見当らない。これは、他人がどうなろうと、自分の命がどうなろうとかまわない類いの男ではない。さらに我々は彼の眼を眺めよう。するとこの眼が応えてくれる。彼の本性について、性格について、また個性について、この眼は決して大胆不敵な征服者のものではない。それどころか、彼の眼の奥には内的な焔が燃えている。・・・この眼こそ、空想力にあふれた者の眼であり、また芸術家のもつ眼なのだ・・・
・その優しい容姿、外界に対しては辛辣な態度で武装してしまう感受性の強いその心、それにあの想像力、こういったものはおそらく母から受け継いだものだろう。彼の母はグレーデナー渓谷出身の女、つまり他国の人々からは、いつも謎めいた、神秘的なところをもつといわれる、あの極めて豊かな才能と芸術的な感覚に恵まれた南欧語系民族に属するひとだった。彼女はヘルマンのためにはその生涯のうちの僅か四年しか行を倶にして彼をいたわってやることができなかった。
・父はあまり弱々しいので普通よりも一年遅れてやっと小学校に入ることができたようなヘルマンをどうしたものかと途方にくれていた。それに、暮らしむきは楽じゃなかった。そこでヘルマンは幼年時代の一時期を孤児院で過ごしたこともあった。
・やがてヘルマンは軍務に服する年齢に達した。登山家と救護隊員は衛生兵になった。・・・暇さえあればヘルマンは山の上にいた。・・・前線に出されたときも、彼の想いを占めたのは山だった。カッシノ戦線の地獄の業火すら山へのあこがれを消し去るわけにはゆかなかった。兵士ヘルマン・ブールはその勇敢さの故に表彰されたが、人間ヘルマン・ブールは戦場にはいなかったのだ。彼の心にあったのは、榴弾が炸裂するかわりに落石が唸るところだった。・・・そして、ついに戦争も捕虜収容所の生活も終わったとき、ヘルマン・ブールの心をまずとらえた想いはーー自分はまた昔のように山に出掛けるだけの体力が充分あるだろうかということだった。それから、勤め口があるだろうかという心配もあった。
・彼の山行記録には1947年に68回の山行が挙げられ、踏破した頂きは143峰あった。この山行のうち35は最も困難な岩壁の完登であり、その一部は単独登攀だったし、11の初登攀がなし遂げられている。
・ヘルマン・ブールはベルゲルの手掛かりのない、氷に覆われた極めて困難な花崗岩の壁を登り、ピッツ・パディレの北壁を攀じた。彼よりも前にこの登攀を行なった者は、登るのに数日を費し、岩壁上でビヴァ―クを余儀なくされたし、そのあげくには、頑丈そのものの登山家達が疲労困憊してついに死ぬということさえ起ったのだが、ブールはこの岩壁を四時間半かかって、しかも単身で突破した。しかもその際、彼はインスブルックから夜を徹して自転車で登りの急な峠道を越えて、スイスへ、山へ、岩壁へと赴いたのである。そして登攀を終えるとまたインスブルック指して戻っていった。理由は他でもない。彼は汽車に乗ったり、泊り賃の高いヒュッテを利用するだけの金を持ち合わせていなかったのだ。当時ヘルマンが教会尖塔の塗装仕事のおかげで自転車を手に入れることができただけでも大した財産だったといえる。
・いったい山に心を奪われたこの男の胸には、人間的な感情は一つ残らず喪われてしまったのだろうか?いや、そうじゃなかった。このとき、ベルヒテスガーデン近傍のラムザウの乙女が現れる。優しい、愛らしい、聡明な娘だった。彼女は自分のヘルマンを識っていた。彼の山への情熱を理解していた。いやそれどころか、彼女自身も山が大好きだった・・・ ははあ、分かったぞ、こんどこそヘルマンも骨抜きにされたな、むずかしいツーアなんかもうお終いだ・・・ ところがお終いじゃなかった。山々の命令は相変わらず続いた。
・批判の声は高まる。ヘルマン・ブールという男には良い仲間としての資格が欠けているに違いない。彼はあまりにも頻繁に同行者をかえるじゃないか。しかも、その同行者達は、現代に望み得る最も優れた登山家なのだ・・・ ところが、同行者達自身はそれほど辛辣なことは言わない。彼等には、ブールがいまだ嘗て一人の仲間でも危険の中に見捨てることがなかったことを識っている。・・・
・ブールが山仲間としての心情をいかによくわきまえていたかを、彼は1952年の夏、アイガー北壁で身をもって示した。当時ブールはザイル仲間ゼップ・ヨヒラーとこの壁に赴き、たまたま七人の登山家と一緒になったが、おそろしい荒天に遭遇してこの無慈悲極まる岩壁で互いにザイルを結び合うことになった。しかしブール・ヨヒラーの組は終始先頭に立って、雪崩と氷の危険を冒し、身も凍る寒気をついて数日に亙る苦闘の末、全員が無事危地を脱したとき、はじめて北壁をあとにしたのである。このような行為がある以上、辛辣極まる酷評家といえども沈黙せざるを得ないだろう・・・
これらの賛辞を見てしまうとさらに付け足した文など不要にも思えてしまいますが、それではあまりに著者に対して無責任なので少し付け足したいと思います。
彼は、子供の頃、か弱かったものの、山へのあこがれを胸に抱いていた。多分亡くなった母、ドロミテの心臓部ともいうべきグレーデナー渓谷で生まれた繊細で優しかった母へのあこがれがその根底にあったと述懐している。10歳の頃、父にインスブルック近傍の山へ連れて行ってもらった。その数年後には、ほぼ日曜ごとに出かけて見様見真似で岩登りを始めていた。靴を買うお金がなかったので、毛の靴下のままで岩を登ったという。最初の岩場での懸垂下降は、洗濯紐で行った。ある日クレッターがないので、スキー靴でぎりぎりの岩場を登った。ザイルを持ってきてくれ、といわれ脇道ではなく、それを使って直登して手渡し、驚かれた。華奢な子供だったが、そうしながら次第にクライマー仲間うちで岩登りの頭角を現し始めた。困難な岩場を経験するうちに、オーバーハングを越える第6級のルートや氷雪の冬の岩壁にも挑戦するほどの腕前をあげていった。彼の記録をみると、オーバーハングを指の力のぎりぎりのところで越えたが、ザイルは空中に弧を描いていた、などの記述があったりして驚いてしまう。しかし、一見無謀にもみえるその登攀でも彼は《まず眺めよーーしかる後に登れ》と述べている。「在る者なら一瞥しただけで直ぐに理解できるようなことを、他の者は見逃し勝ちである。正しく観察できる者が他の者に対して有利な地位に立てるのだ。それから言うまでもなく決定的なのは個人々々が持つ登攀テクニックや体重の移動、あるいは摩擦や凹凸面の最大限の利用である。それなのに、もしも観察のために時間を割かずに、いいかげんなところでごまかしてしまい、むずかしいときはどっちみち大して違いがはっきりしないからといって、いつも自分勝手なことをしているなら、どんなに優れたテクニックを持っていたところで何の役に立とう。」
こんな、困難な岩壁登攀を繰り返していて、彼は無事だったのだろうか。そんな事はなかった。何度も落石を受けているし、墜落もしている。頭から血を流しながら、逆に闘争心が湧いて岩に立ち向かっている。ある時はカミーンの奥の石の台座が突然崩れて、なんと60mも墜落した。ところが左手が動かなくなっただけで、彼は奇跡的に助かった。全身打撲で額から出血したものの、カミーンに挟まって停まっていた。墜落中重力から解放されていいようのない快い気持がした、岩にぶつかる度ににぶい衝撃を受けたが、決してひどくなく恐ろしくもなかった、そして、新調のズボンが破れやしないか、ポケットのナイフがなくなりやしないか、と考えていたと。墜落して怪我するとか、死んでしまうとかは一向に思い浮かばなかった、と。まあ、動転、錯乱状態だったのだろうが。それから空中懸垂などを含めた困難な退却行を続けて何とか帰還した。
やがて、時代は戦争へと突入した。彼も兵士として前線に立ち、また捕虜収容所生活を2年送った。戦後も山への情熱は変わらなかったが、体力は落ち衰弱し、食料事情は悪く、極めてゆっくりと調子を取り戻すしかなかった。西部アルプスにあこがれていたが、近場の垂壁でトレーニングに励んだ。その一方で一時期スキーにも興味を示した。怖さ知らずで元々運動神経が良かったのか、滑降レースに飛び入りして入賞までしてしまった。賞としてスキーとワックスをもらった。調子に乗って次の競技会に出場し、スキー板を折ったり、障害物の納屋に飛び込んだりした。またさらに無茶な飛ばし方で膝の筋を痛めギプスをはめることになった。それでスキー生活も終わりにしてまた山に戻っていった。痛めた足で岩壁を登り、無茶をしたので、再度痛め、またギプスをはめられた。リハビリの山歩きの最中に大自然の魅力を感じ、女の子とも知り合いになった。それからドロミテ行きをもくろんだ。マルモラータの南バットレスを登攀し、チベッタのオーバーハングも制した。冬のトレーニングとして33時間で25峰を踏破したが、そこではわずかに2時間休憩したのみだった。
1948年の夏にフランスの高山学校から彼にシャモニへの招待状が届いた。念願の西部アルプスへのデビューだった。荒天の夏だったが、トリオレの北壁など難壁を登ったし、グランド・ジョラスにも初見参した。
初めてのジョラスは悪天候で敗退したが、完登にむけてトレーニングに励んだ。マルモラータ南東壁の冬季登攀は未踏だったので、それに挑み完登した。そして半年後に嵐をついてジョラスの第4登を果たした。輝かしい成功の年1950年の締めくくりとして彼は南チロルを再訪した。西チンネ北壁が目標だった。マルモラータと並んでドロミテにおける最難関とされていた。ここは伝説の名クライマー、カシンとラッティが3日のビバークの後に完登したオーバーハングした壁なのだ。「僕の足下からはオーバーハングになった岩壁が切れ落ちている。戻ることはもうできなかった。戻るにはもう力が足りない。クーノーは20米ばかり離れて棚の上にいる。ザイルは大きく弧を描いて彼のところまではしっている。彼は確保のためのハーケンを一本も持っていない。だが、僕はもうどうにも頑張れない・・・《クーノー、僕は墜ちるぞ!》僕は叫んだ。もう指は伸び切ってしまう。まるでバターを塗ってあるように、指はつるりと岩から離れてしまった。ところが、なお、最後のエネルギーを振り絞って、上体を反対側のカミーンの中に投げ込むことができた。僕は素っ飛ばなかった。僅かに手足を岩に突っ張ることができたが、ほんの数秒間である。というのも、オーバーハングになった岩はぐんぐん体を外に押し出してしまうのだ。墜落寸前というきわどい限界すれすれのところで、僕はまだぶらさがっている。体が墜ちそうになると、必ずまだ体のどこかが岩との摩擦を見出すのだ。この絶望的な闘いは数分間も続いた。・・・」夕方の6時、登り始めてから11時間後に彼らは西チンネの頂上で握手を交わした。
ホッホケーニッヒ(ザルツブルグ近傍)で彼はスキー教師をしていた。そこからドイツ、バイエルンのラムサウまで長距離レースのためにばしば国境を越えた。
ラムサウには定宿にしている旅館があった。そこの娘と恋に落ちたからだった。そこまでの距離は凡そ50kmあった。しかし日曜ごとに彼は通っていた。そしてめでたく結婚した。妻も山を愛した。二人であちこちの山を楽しんだ。山仲間は《ヘルマンの奴、もうお終いだ》といったが、それは1年と持たなかった。彼はまた厳しい登攀の世界に還っていった。1952年7月4日、妻がたまたま実家に帰っていた期間を利用して、ピッツ・パディレ北東壁を登りに行った。このルートはカシンが3ビバークの末に初登攀したものであり、しかも先行して登っていた2人は疲労困憊して頂上で亡くなっている程の難壁なのだ。彼は懐が豊かではなかったために、自転車で壁に向かった。しかも単独で。そしてなんと4時間半という超速で壁を登り切った。そしてまたインスブルックまで自転車で帰って行った。マロヤ峠までの1100mの登り道を上がり、夜の8時から140㎞を遠路家を目指して帰っていった。さすがに疲労と眠気でふらふらになり朝方にはランデック近くのイン河に飛び込んでしまい、曲がった自転車をかついて郵便自動車に拾ってもらい帰っていった、というおまけまでつけての帰還だった。
それから1月もたたぬ7月26日彼ら(ハンス・ヨヒラー兄弟と彼の妻)はアイガー北壁を登るためにグリンデルワルドにやってきた。アイガー北壁は例年と違って、雪や氷が消えてしまったために、いままで氷でしっかり止められていた岩が頻繁に落下している。ヒンターシュトイサートラバースを越えて、第一雪田に辿り着くが雪なんかなく一枚岩の上に薄く氷が張り付いていて登攀は困難だった。ドイツ人の2人パーティーも後続する。第ニ雪田も同様で難しい。そこで下方を見やるとなんと5人ものパーティーが登ってくるのが見えた。それは2組のザイル・パーティーで第一にレビュファだ。「声が届くところまできたので互いに挨拶をかわす。それから後に続く連中の中にマニョーヌがいた。彼にはもう二年前にドリュの北壁で逢ったことがあるが、彼はたったこの間、モン・ブランの残された最大の未踏壁であるドリュ西壁の初登攀を行なって素晴らしい手柄を立てたばかりだった。僕は彼に心からの祝福を伝える。だが、このとき僕ははっとなにか感じたーーいや、僕は思ったのだ。つまり、いまここでこうして国際的に高名なクライマー達と一緒になってみると、僕には自分が余りに小さな存在で、なんだか全く余計な人間のような感じがしてきたのである。」
この時のことはガストン・レビュファの「星と嵐ー六つの北壁登行ー」にも記載があります。「ブールの名前はかねてから知っていたので挨拶したが、返事はなく返してきたのはヨッホラーの方だった。・・・」。後に彼らは一つのパーティーになるのですが、言葉も違い、立場も違うと受け取り方は微妙にすれ違うのでしょうか。
雪と固く厚い氷が消えてしまった北壁は、岩に張り付いた薄い氷、転石、落石、ぐずぐずのルンぜ、オーバーハングと彼らの進路を阻んだ。第三雪田を越えて、蜘蛛へのトラバースの手前で9人がビバークした。上にヘルマンら、中にドイツ人、下がフランス隊。翌日は吹雪になった。チリ雪崩の中を少しづつ前進していった。一日かかってわずか250mしか進まなかった。2回目の夜がやってきた。ビバークの装備がないドイツ人たちはフランス隊のやっかいになった。ヘルマンは翌日も凍ってがちがちになった体と装備で困難な岩に立ち向かった。4時間立って20mのオーバーハングを登り切り、ほとんど力尽きてゼップにトップを替わった。頂上直下になって初めて陽ざしが差してきた。夕方の5時に頂上に到達した。フランス隊は1時間遅れて到達した。細かい葛藤などはあっただろうが、9人が一丸となって成し遂げた北壁行だった。
1954年に、彼にヒマラヤ遠征のチャンスが訪れた。2回ナンガ・パルバット遠征に赴き、遂に生還することの叶わなかったヴィーリー・メルクルの義弟ヘルリッヒコッファー博士が指揮する遠征隊だった。ドイツの上部団体は彼の経験不足から難点を指摘し支持から離れたが、オーストリア岳界は支持した。ナンガ・パルバットは1895年のマロリー以来、幾多のドイツ遠征隊の挑戦を跳ね返し、すでに31名もの犠牲者を出していた。それゆえ、恐怖の山、運命の山、魔の山などと恐れられていた。ベースキャンプから第1,第2キャンプと設営しながらも大きな氷雪崩に何回も襲われた。フンザ人の人夫は数が少なすぎた。六月も中旬になると夕方は晴れるが、夜には激しい吹雪になりテントは埋まった。吹雪は繰り返し続いた。それに第3、第4キャンプと上に上がるにつれ、人夫達の働きは鈍くなり、なかなか上がってくる者が少なくなってきた。人夫達はストライキを起こすか病気だと言い出す。上部キャンプで粘るが、なかなか好天が巡って来ない。そのうちベースキャンプから《来週中に頂上が陥ちないときは撤退・・・》と指令がくる。もうモンスーンがやってくるのだろうか。ラワルピンジの放送局ではモンスーンの暴風雨が間近に迫っている、と伝えている。ベース・キャンプではもう登攀隊長が明日帰国するつもりだから、全員直ちに下山せよ、との指令だった。でも現在またとない好天なのだ。上部では皆登りたがっている、といってもベース・キャンプは撤去命令の一辺倒だった。今後下からは一切支持を与えない、と。最後に《こうなっちゃあ、もう仕方がない!諸君の成功を祈る》という下からの電話が最後だった。最後にサーブ4人と人夫4人が残った。最終第5キャンプにはオットーとヘルマンの若手2人が登頂隊員として残り、年長の2人は人夫をサポートしながら下に降りていった。頂上まで高距1200m、直線距離で6㎞ある。かつてこんな距離を中間キャンプなしで踏破した試はない。しかし他に手段はなかった。7月3日風は強烈だが、晴れている。出発の2時過ぎになってもオットーは起きない。やる気がないという。彼は単独で出発する。オットーは後からついていくという。スキーストックをつきながら、ジルバーザッテルを目指した。そこは広大な雪原だった。空気は冷たいのに太陽光線はじりじりと痛い。前峰の岩峰を北側から回り込んで、主峰の元に辿り着いた。岩稜や細い雪稜をたどった。するとジャンダルムともいうべき垂壁が現れてきた。そこを乗り越えるのは殆どアルプスの難しい岩場と同等だった。歯を食いしばって乗り越えた。そしてついに午後7時に8125mの頂上に到達した。そしてピッケルに小旗を掲げて写真を撮った。登頂のシンボルとしてそれを残した。下山はアイゼンが外れるなど非常な困難を伴った。途中で闇夜になってきて、ほぼ立ったままで岩稜に背もたれしてビバークするしかなかった。苦しい夜もやっと明けて陽ざしが差してきた。彼は殆ど、転びながら、よろよろと下っていった。ジルバーザッテルを越えてテントが目に入ったときに、やっと生きて帰れる元気が湧いてきた。そしてその日の夜7時に最終キャンプ地に辿り着き、ハンスとヴァルターのうれし涙の抱擁を受けた。ヘルマンは足を凍傷に侵されていたが、気分は最高だった。ベース・キャンプでは心地よい風が吹き、緑の草花が咲き乱れ、彼らの登頂を歓迎してくれる、はずだった。しかし命令に背いて登頂した者に本隊は冷淡だった。歓迎祝宴どころがすぐさまの帰国命令がでていたのだ。
このいささか、苦々しい成功の一年後にミュンヘンのヘルマンの自宅にあの3人が集まった。すなわちハンス・エルテルとヴァルター・フラウエンベルガーだ。
それは妻が二番目の娘を贈ってくれた誕生日祝いを兼ねたものだった。遠征の帰り道、常に二人は凍傷で歩けなくなったヘルマンに付き添ってくれた。フンザ人の高所人夫達もヘルマンを担がせてくれといってきかなかった。想い出はあまりに生々しく、下らないものは下らなく、平凡なものは平凡で、美しいもの、崇高なものは依然として美しいのだ。最後に彼は過去にナンガ・パルバットに挑みながら斃れていった先人たちを偲びながら次の文でもってこの書を締めくくっている。
山は僕等の憶い出の中に光り耀いている。過去における里程標であり、未来への指導標である。
さらばわが感謝を捧げん、友よ!
いざともに盃をかかげん。
本来ならば、ここからがヘルマン・ブールの輝かしい第2章であるべきであった。
1957年にはもう一つの8000m峰、ブロード・ピークを登頂して、その後、仲間のクルト・ディームベルガーとさらにもう一つの7000m峰チョゴリザを目指して、頂上近くまで迫りながら荒天に襲われて引き返す途中、足元の雪庇が崩れ、墜死し還らぬ人となったのである。
輝かしい未来も永遠に叶わぬことになったのはまことに残念という他にない。
ナンガ・パルバットの物語はこの後、現代の超人ラインホルト・メスナーらに引き継がれていくことになる。