[光といのち きわみなき世界へ]
先頃はじめて親族の死に出あい、一連の葬儀の進行を見ていた五歳の孫が、翌日母親と交わしたのがこんな会話でした。
孫「おじいちゃんは今どこにいるのかなぁ」
母親「お骨になっておばあちゃんと一緒にお家に帰ったよ」
孫「えー? タイムマシンに入ったのにー」
火葬場に行き、遺体が炉に入って別れをした光景の中で思った子どもの何とも言えない無邪気な感慨だと思いませんか。
タイムマシンは、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』の作品に登場するひみつ道具。作中では、2008年に発明され、実用化された時間旅行用の乗り物です。時間の流れを超えて過去や未来に旅行するための架空の機械なのです。
あらためて孫の発した言葉から、子どもの無邪気さとはすばらしいものだと考えさせられました。。無邪気とは、邪心のないこと。考えの単純なこと等と辞書にあります。本来私たちは無邪気さをもってこの世に生まれてきたのに大人になるにつれて邪心が増え、常識に縛られ知覚でもってこの世を生きていこうとします。素直さを失い自分自身の色眼鏡で見るようになってしまうのです。
タイムマシンとは時と場所を超えた世界、自由自在な世界をあらわしています。
私たちが生活を営む世界は、果たしてどのように形成されているのでしょうか。
地図上で見ればそれぞれの国が国境を定めて、それにしたがって人々は自動車、電車等で行き来しています。しかし、国や社会というものは目に見えないものです。
普段、なんとなく日本、アメリカ、東京などと地域を区切って話をしますが、それは人が定めたもので、犬や猫たちには何の境界線もありません。
イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリ(1956~)はホーキンス博士の再来と言われ、「時間は存在しない」という本を出して世界的に注目されています。
かつて鴨長明が『方丈記』で、「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」(川の流れは途絶えることなく、それでそこを流れる水はもとの水ではない。川の流れのよどみに浮かんでいる水の泡は、一方では形が消え、また一方で形ができたりして、長い間そのままの状態でとどまっている例はない。この世に生きている人とその人たちが住む場所とは、またこの流れや水の泡のようである)と書き残しました。
この絶えず変化していく過程が世界を形成しているのだという鴨長明の観点や仏教思想の縁起の概念は、カルロ・ロヴェッリの物理学の観点から捉えた概念としても見通しているように思います。
仏教の四大思想は、「無我(むが)」、「無常(むじょう)」、「縁起(えんぎ)」、「空(くう)」であると言われています。我という欲望を無くすることが無我、万物は必ず移り変わり流れていくと説いた無常観、人と人との間に発生する起こりのようなものを縁起と呼び、この世界は縁起の連続帯によって形成されているのだと説きます。そして我と宇宙の間には途方もない物理的距離がありますが、実は刹那的な距離すらないのかもしれません。華厳経には「一即一切(いっそくいっさい)・一切即一(いっさいそくいち)(一つがそのまま全体であり、全体の中に個があると共に、個の中に全体が含まれている)と説いています。
さて、浄土真宗は
「帰命無量寿如来
南無不可思議光でしょう」
と言われるくらい、かつて人は正信偈のお経を全部知らなくても正信偈の冒頭のこの言葉はそらんじていました。
すなわち親鸞さまのご生涯をかけて顕された結論がこの二行に凝縮されていると言ってもいいのです。
無量寿も不可思議光も阿弥陀如来のすべてのものにはたらくはかりなき命と、人知を超えた限りなき光の世界に生れ出ることへの歓喜の言葉です。
はかりなき命とは時間を超えた世界であり、限りなき光とは場所を超えた自在無碍な世界で、人間世界の束縛から解放されたさとりの真実世界のことです。そして親鸞さまは、「帰命(南無)とは如来の願い(仰せ)に順うことだ」と申されました。
それは、人間の妄念からつくり出した時間や場所にがんじがらめになっている娑婆の人生が万人を浄土へと導き喚び覚ましてくださる如来の願いの言葉に順って生きていくことを教えてくださいました。
おじいちゃんが亡くなったとの知らせに、
孫「おじいちゃん 世の中いやになっちゃたのかね!」
母親「違うよ おじいちゃんは一生懸命働いてきたんだよ」
孫「へー、いつもお椅子に座って眠っているだけなのに」
「自然法爾」(自らあるがままにあること)をふつふつと感じさせられます。