宿縁 五月号 中原寺

 井の中の蛙 大海を知らず

 三月の二十七日から二十九日までの三日間、カリフォルニア州バークレー市の「本願寺仏教センター」を会場に開催された『アメリカと日本のチャプレン会議』に出席するご縁をいただきました。
 チャプレンとは聞きなれない言葉かと思いますが、病院、養護施設、介護施設、刑事施設等で患者、家族、スタッフ、被収容者の精神的、宗教的スピリチュアルなニーズを支援する聖職者のことです。
 最近では大災害や震災など思わぬことに遭遇して、家や家族を突然失い肉体的にも精神的にも深い傷を負っている人、また自死を願望する人への寄り添うなどの大切な道にも広がりを見せています。
 今回の会議でプレゼンテーションの一人に招聘された私は宗教教誨師として「心情の安定を目的とした教誨の実施上における仏教の役割と今後の期待について」語ってほしいというものでした。
 会議の前後二週間を初めて過ごしたアメリカでは、何といっても思わぬ素晴らしい人たちと出会えたことでした。仏教に関心を示す聴衆は勿論のこと、仏教を実践し研究する意欲ある人生を歩んでいる人たちと巡り会ったことは大きな大きな収穫です。アメリカでは、かつて日本から移民した人たちの仏教徒の時代は過ぎ去り、伝承の難しさを感じながらも、あらゆる問題が生じてきた現代にあって仏教への関心を持つ若者たちが多くなっていることを実感しました。
 中原寺にもたびたびご法話にお出でいただく武蔵野大学名誉教授のケネス田中師は著書「目覚めるアメリカ仏教」の中で、次のような二つの願いが含まれていると言われます。その一つは、欧米において仏教が伸長しているという興味深い現象を、日本の人より広く、詳しく知ってほしいということ。仏教は「西洋の壁」を超え、もはや「東洋」に限るものではなくなった。そして二つ目の願いは、現代の日本仏教を新しい視点から考え、改革を目指す人々にとっての参考となるということです。アメリカ仏教には、未来の仏教、本来の宗教の在り方自体が潜んでいるのではないかと考えられる、と申されていることを私自身思い起こしました。「百聞は一見に如かず」でしょうか。
 そこで、仏教(生きていく上の柱となる教え)は、先ず個人としての目覚めが尊重されなければなりません。今日の日本の仏教は江戸時代に制度化された寺檀制度(すべての人々を特定の寺院に檀家として所属させる)が色濃く残っています。これは寺院と檀家との関係を信仰上の関係から形式的関係へと変化させる要因になりました。これは本来の仏教は家中心ではなく、個人として尊重されるべき信仰(宗教)のありようが二の次になってしまったのです。「信教の自由」は日本国憲法の保護する基本的人権で、憲法第二十条によって保護されています。
 先のケネス田中師は、「なぜ今、アメリカ人は仏教に魅了されるのか?)」の中で『アメリカは宗教への関心が非常に高い国であり、日本とは比較にならないほど社会や教育に宗教が浸透している。そうしたアメリカ人が、六十年代後半頃から一気に仏教に関心を持った原因はどこにあるのか?キリスト教から仏教に改宗した人たちに尋ねると、キリストの復活を「信じる」ことより煩悩による誤った見方を是正して自らが「目覚める」ことを究極の目的とする仏教の教えのほうが魅力的だと答える人が実に多い。キリスト教やユダヤ教には、立派な教義があるが、その教えを体験する方法が明確ではないのに対し、仏教は誰もが日々実践できる瞑想などを通して実際に教えを体験できることに惹かれると話す。』
と書いていますが、注目すべき指摘だと思います。
 このたびの『アメリカと日本のチャプレン会議』に日本から出席され、親しく声をかけてくれた東京大学東洋文化研究所の川本佳苗さんは、実に仏教を実践し行動されていて、2004年から自死防止活動を開始し、生き辛い思いや死にたいほどの悩みを抱える方の声に耳を傾けたいと願うボランティア活動、京都自死相談センターSOTTOにも在籍されました。
 川本さんはサラリーマン家庭に生まれ、国内外で音楽家として活動した後、2008年から六年間ミャンマーで東南アジアの上座部仏教の修学と瞑想修行をし、2014年に帰国しました。柔軟にオープンに研究して仏教学と人類学を融合した独自の仏教研究をされています。
 「井の中の蛙大海を知らず」の諺がありますが、とかく自分の殻の中が安全だと思ってしまう私たちの人生は、もっと柔軟な生きかたこそ大切なので、事や出会いの中にきっと新鮮さがあるのだと教えられました。
 親鸞聖人はご自身の精神遍歴を三顧転入(倫理的執われ➡自己満足➡仏の願いに身をまかす)で顕されていますが、その結論だけを安易に受け取ることなく、自分が歩む生き方の中で頷けることでなければなりません。仏教は人の生き方を眺めているようでは自分の目覚めにはならないことを教えられました。