二上山

二上山は奈良と大坂の境界にある双耳峰を特徴とする山である。 

 中学の頃、「騒音」という文集を作っていたが、一時その編集に携わっていた。ある号に国語のN先生が紀行文を寄せて下さった。二上山紀行だった。そこに大津皇子のことが書かれていて、微かながらずっと記憶の底に残っていた。
                                              
 大津皇子は天武天皇と大田皇女の第一皇子で大來皇女の弟。しかし母親は早逝し、妹(皇子の叔母、後の持統皇后)の御代に移っていく。天武天皇の崩御後、謀反の疑いをかけられ死を賜った。大津の辞世の歌は「ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」。妃の山辺皇女は髪をふり乱し、裸足で走り赴いて殉死したと伝わる。皇子は死後どこに葬られたかは分からないが、やがて二上山(ふたかみやま)山頂に葬りなおされた。大來皇女は「うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世(いろせ)とわが見む」と詠んで嘆いたという。大津は文武に通じ、礼節を重んじた立派なプリンスであったという(中西 進 万葉の秀歌 より)。
 皮膚科開業を辞めセミリタイヤして暇になったこともあり、最近京都、奈良を時々訪れる。といっても妻の建築物と仏像趣味に付き合ってのことで、行った神社仏閣の記憶も定かでないこともままある。自然の流れというか、飛鳥、大津へも足を伸ばすようになった。明日香はこじんまりとした所で石舞台や橘寺、飛鳥寺なども小型電気自動車、電動自転車などで手近に見て回れた。各所に天皇の名が出てくる。思えば中学時代、確か日本史の(K先生?)夏休みの宿題で歴代天皇を覚えてくる課題があった。休み明けに運悪く指名され、途中でつかえて廊下に立たされた記憶がある。今でも一寸したトラウマだがおかげで多少は歴代天皇名を覚えている。少しは役に立っているのかもしれない。
 飛鳥時代では聖徳太子と大化の改新位は多少覚えていたが、深い歴史知識はまるで無し。当初はただあちこちのお寺を回っただけだった。あるころから妻が大友皇子(弘文天皇)に興味を持ちだした。古代の最大の政変劇とも言われる壬申の乱の当事者である。天智天皇(中大兄皇子)の第一皇子が大友皇子で、天智天皇の弟が大海人皇子(後の天武天皇)。天智天皇崩御後この叔父が甥に対してしかけた争いで、大友皇子は敗れ自害した。しかし、実は生き延びていたといわれ「大友の皇子 東下り」の伝説は多いという。千葉県にも「房総弘文天皇伝説」があり、大友皇子が落ち延びてきたとのいい伝えがある。伊勢原の石雲寺にもお墓があり、夫婦で訪れた。立派なお寺だったが皇子のお墓は小さな苔むした墓だった。その後、大津にも数回行った。遅ればせながら調べてみると、飛鳥、奈良朝時代の政変劇は複雑、多数あり大津、大友皇子のみの悲劇ではなさそうである。飛鳥寺では、幾度もの火災を乗り越えた日本最古の仏像が、建立当時のままに鎮座されておられた。中大兄皇子は藤原鎌足と共に寺に陣をかまえて決起し、その折には広場を兵たちが埋め尽くしたという。寺の外れの野の中に寂しげに蘇我入鹿の首塚があった。寺の庭から野原を見渡すとまるで当時のままの兵がうごめいているように思われた。「兵どもが夢の跡」か。全ての壮大な歴史がこの地から始まったように感じた。
 
 前振りが長くなってしまったが、今年の梅雨の合間をぬって、大坂、奈良に小旅行をした。主に妻の計画につきあったものだったが、一日別れて念願の二上山に登ってきた。最近は腰を痛めたことや、穂高で転倒したこともあり山らしい山はすっかりご無沙汰になっていた。1000m足らずの山ならと、久しぶりの登山となった。
 いつもながら、きちっとした下調べもせず、現地へ向かった。妻のスーツケースはどうするの、との問いに、さすがに調べてみて、二上山駅ではなく當麻寺駅から出発することにした。駅前の店で荷物を預かってもらい、出発。タクシーで山麓まで行けば、との助言も虚しく、当地ではタクシーの影すらなし。てくてくと登山口まで歩き出した。小マップでは数十分とのことだったが、お寺など眺めながらの歩きで小一時間を要した。大池辺りに大來皇女の歌碑があった。しばし感慨に耽った。しばらく行くと道から外れ少し小高いところに鳥谷口古墳がある。大津皇子を葬った墳墓との伝があるが定かではない。しかし二上山の麓にはこれ以外に類したものはなく伝承として伝わっている所、ここでもしばし佇む。ここら辺までは車道になっており、寺を過ぎると本格的な登山道となった。しばらく渓流沿いの山道に久しぶりの山の雰囲気に浸りつつ登る。岩谷峠に至ると近くに古代から続く「史跡岩屋」がある。岩屋峠からしばらく登ると雌岳頂上。日時計もあり比較的開けている。しばし休んでから雄岳へと登り返す。雄岳頂上は雌岳と打って変わって木々に囲まれて見晴らしもきかない平地だった。そこから少し降ると大津皇子墓があった。「天武天皇皇子大津皇子 二上山墓」宮内庁との板看板があり小高い木々の陵を囲んで柵があったが、ひっそりとして人気はなかった。元来た道を帰り、今度は二上山駅に戻った。
 
 小生には恩師のあの二上山の寄稿文がずっと記憶に残っていた。N先生は最後に、現在の二上山は「にじょうさん」というが、やはり「ふたかみやま」と呼ぶのが相応しい、と結んでおられた。千数百年前もの昔、この地で若い姉弟の悲劇が起きたことがこの二上山を通して身近に感じられて切なかった。

 小生は、この二上山行きで、長年の思いに一区切りつけた感じでしたが、妻は女性の目からもっと色々と調べていて、ブログに「大伯皇女・大津皇子、姉弟の、そして壬申の乱にまつわる女性たちの消息」を書いています。
興味のある方はこちらへ。
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