渓(たに) 冠 松次郎

 冠(かんむり)松次郎は明治16年東京本郷に生まれ、明治後期から大正、昭和初期にかけて広く日本の山岳を渉猟した。なかんずく黒部を中心とした日本アルプス、秩父などの渓谷を広く歩き、世に知らしめた。
「渓」は、昭和37年刊行となっているが、後年体をこわし、十分な山行ができなくなっても、終生山への情熱は失わず、山の著作を多く著した。この本は明治35年ごろから昭和15,6年ごろまでの約40年間に歩いた山や渓谷の記録、解説、回想が主体に纏められている。
解説の西堀栄三郎は、「冠さんは、黒部を中心に、南北アルプスや奥秩父などの谷を広く歩かれ、その美しさ困難さ神秘さは、尾根をたどって頂上を窮めること以上に魅力があることを教えられた。そのころは、渓谷といえば冠さんの独占物のような気がするくらいであった。私の友人の故川崎吉蔵君が、当時雑誌『山と渓谷』を発行されたが、そういう誌名をつけるところにも、冠さんの影響の大きさがうかがわれる。」と書いている。
 明治、大正の日本山岳界の黎明期にあって、黒部渓谷、いな日本アルプスの渓谷の先蹤者として彼の右に出るものはいなかったのではなかろうか。
 まえがきに次のようにある。
「山へ登るのに最も便利のよい、楽な処へつけられた登山路によって登ることは、多くの場合その山を知る第一歩に過ぎないのである。立派な山々の懐には、幽邃な森林に被われ、あるいは壮大な岩壁によって囲まれた渓谷が幾つか潜在している。そういう渓によって山の頂に達することは、最も興味深く、真剣味を伴う印象的なものである。
 私の山旅は五十年来、主に渓谷から峻嶺によじ登る登山によって、山の自然の神秘と複雑さを味わった。渓行を登山の手段としないで、山に親しみ渓を味わうことによって登山の生命を感じたばかりでなく、山の自然の立体的な壮麗さに額ずいた。」
 黒部渓谷のすばらしさは、随所に書かれていて、ここに挙げるのにいとまがない程であるが、それを凝縮した一節を引いてみた。
「黒部川は、豪快と幽と優美との綜合された景観が、源流地から八十キロの平原にまでつづいている。
源流地の広い地域にわたっての山岳、高原の悠々とした姿、その峡間を流れてゆく渓流の美しさは、行く者の心を駘蕩とさせる。
 奥の廊下、中の廊下ともに、小地域の幽深をのぞいては、むしろ豪快の気にみちている。
美しい節理と刻面とをもつ両岸の壁は高く、支谷は多く吊懸谷となって、激流はその水をのんで奔落して行く。
 黒部川の中ノ瀬と言われる、東沢から平、御山谷、御前谷、赤沢を経て内蔵ノ助谷の落口に至る間の、明媚快闊な渓間を下ると、下ノ廊下の嶮が始まる。白竜渓、十字峡、南仙人の壁などその中でも最もすぐれたもので、峻高壮麗と賞すべきこの谷の雄大さは、どこまでも明るい、すべてのものをさらけ出したその中に、自然の技巧と神秘の影がかくされている。」
 黒部の谷の激流や大滝の描写も魅かれるが、一方静かなトロの碧の光彩の妙や紅葉にも心惹かれる。またある時の渓の夜の描写。
 「廊下のV字状の山壁の底から、大熊座の星が竿立ちになって上がってくる。高空には天の川が蕭々として銀紗を延べ、やがてスバルが中空に、東の山のツルからオリオンが顔を出す。月明の夜など、渓の夕を楽しんでいると、東の山の端の森の後ろに黄金色が流れ、やがて明月はは玉歩を渓上にはこぶ。その青光が山を照らし渓に下ってくると渓流は淡霧に咽び、山壁は露に光る。激流は金鱗を走らせ、トロは鏡のような光りを漂わす。幸福な谷の旅行者は、これらの情景を肴にして、枯れきった流木、もみにもまれた美しい渓水に炊き上げた飯を、岩魚と山菜で夕餉につくのだ。」
 今では、黒部湖は大町ルートから室堂への立山ルートへと誰でも簡単に入れるが、明治、大正の冠が歩いた頃はまさに秘境の地で、そこに到達するだけでも大事だったと想像できる。それを季節を移して繰り返し訪れて美文とともに美しい写真で広く世間に紹介した功績は大いなるものがあろう。渡渉の困難さを予測して滑車も持参するなど、用意周到だ。
 また「大井川の冬」では、年末の井川から椹島に入り、赤石岳登頂を試み、深雪に断念するも二軒小屋からデンツク峠越えを敢行している。「回想の山旅ーー笊ヶ岳・聖沢・聖岳・遠山川」では南アルプス深く道なき道を越えて天竜川まで下った記録があり、その機動力にも驚かされる。

 かつて、山仲間と共に上ノ廊下を遡行したことがある。幸いに天候に恵まれて無事黒部源流まで到達できた。しかし、トロの遊泳、垂壁の直登、高巻と結構厳しい思いをした。岩魚など見かけなかったし、周囲の景色、星空を愛でる余裕などなく必死で泳ぎ登った記憶しかない。今でも水量など条件次第では遡行困難と思われる。それでも源流地帯になると難場を抜けた開放感もあり谷は開けてのびやかな気持ちよいところだった。

 本書で冠松次郎の足跡を辿ると、山の頂点だけではなく、裾野や谷筋にこそ人目に触れない山の真髄が隠されていることを思い知らされる。