ザイルの二人 満則・秋子の青春登攀記

ワルテル・ボナッティは「わが山々へ」の続編ともいえる著書「大いなる山の日々」でマッターホルン北壁冬期単独初登攀・直登ルート開拓という瞠目的な偉業を最後に”アルピニズムよ、さらば”という言葉を残し、垂直の岩と雪の世界に別れを告げました。彼の現役時代ホームグラウンドとでもいえるように通い詰めたのが、モンブランの南東面でした。そしてあの悲劇的なフレネイ中央岩稜での遭難の舞台もこの山域でした。
彼の活躍から十数年遅れながら、この山域に魅せられた日本人アルピニストがいました。鴫 満則(しぎ みつのり)です。
ヨーロッパの三大北壁といえば長谷川恒男や山学同志会の小西政継らが有名で、彼のネイムバリューはそれ程でもないように思われますが、モンブランに魅せられて、コングールに逝った不世出のアルピニストだったように思われます。
本書は夫と共にモンブランブレンンバフェース、冬期マッターホルン北壁などを登攀した妻秋子が夫の没後にまとめた二人の登攀記録、手記です。
ボナッティも書いているようにブレンバフェースは「この壁は、あぶみを使ったり滑車装置を使ったりする曲芸を要求はしない。・・・この岩壁は誇り高い興味のある岩壁で、そこには岩壁と氷が調和を保っていた。この岩壁は十九世紀のアルピニズムを想い出させた。・・・」とあるように現代からすると古典的なルートかもしれません。
この本をボナッティの本を見比べながら読んでみても、その登攀記録の内容に圧倒されました。
本としては夫妻の登攀の手記が混じったり、妻秋子の語りの部分が混じったりせざるをえない体裁上やや読みづらい部分もありましたが、夫婦の山での出会い、山への情熱、夫の無事の帰りを待つ妻の心情、シャモニでの生活などが活き活きと書かれた本でした。

本書の中から特筆すべき部分を抜粋してみました。
1976年・冬 モンブラン、ブレンバ・フェース・マジョール冬期単独初登攀(満則)
1976年・冬 モンブラン、ブレンバ・フェース・ポワール冬期単独初登攀(満則)
1978年・冬 マッタ―ホルン北壁冬期登攀(満則・秋子 女性初登攀)
1979年・冬 モンブラン、ブレンバフェース、グラン・クーロワール冬期初登攀(満則・秋子)
1980年・冬 モンブラン、フレネイ中央岩稜冬期単独初登攀(満則)
1981年・冬 モンブラン、プトレイ大岩稜北壁ボナッティ=ザッペリ・ルート冬期第3登(満則・秋子)
1981年 中国新疆省・コングール北陵にて消息を絶つ(満則)

🔷マジョール単独登攀・・・森田 勝との話し合いで、冬のプトレイ大岩稜からフレネイ中央岩稜への連続登攀の約束でシャモニに着いたものの、彼から唐突にルートをドリュの北東クーロワールに変更を告げられその怒りからザイルを組むことを断る。そのうっぷんもあり、以前から考えていたブレンバへの単独登攀へ向かう。
冬のブレンバに単独登攀者が入るのは初めての試み。雪の状態が悪くころあいを見計らいつつ、シャモニと往復、3度目にして雪崩をかいくぐりアタック。セラックの崩壊をかいくぐりながらただひたすらに登高。センチネル・ルージュを越えてグラン・クーロワールをトラバースしマジョール・ルートに取りつく。岩稜を越えて、氷壁を越え、最後に頭上に覆いかぶさっているセラックに挑んだ。そこは大きな船の舳先を見上げるようなオーバーハングになっていた。その下の難しい岩と氷のトラバースを行い、ピッケル、バイルを駆使して乗り越え、氷を砕いてトンネルを掘り、モンブランの頂稜に抜け出した。もしも足元の氷が体重の重みに耐えきれなければ万事休すところだった、と。
🔷マッタ―ホルン北壁冬期登攀・・・夫婦で登ったが、女性では世界初。同時に挑んだポーランド女性隊はヘリコプターの支援を受け、女性の初登攀を狙ってきていた。後から山学同志会の3人も追いついてきていた。2回の辛いビバークの末、北壁を登り切った。同時に壁に挑んでいたポーランド隊は凍傷などで力尽き頂上直下100mからヘリコプターで救助されたとのことだ。
🔷グラン・クーロワール冬期初登攀・・・センチネル・ルージュとマジョール・ルートに挟まれたこのクーロワールは一直線にモンブランの頂上へと続く素晴らしいルートながら最上部のセラックといい、雪崩の通り道でもありあまりにも危険度が高く、かつて誰も挑んだことのないルートであった。ブレンバフェースを夏冬と知り尽くした満則の最終目標ともいえるべきルートであった。妻にさりげなく同行を求めると、当然ながら雪崩の心配をしたものの、信頼する夫に同行することを快諾した。1月の凍てついた寒気のなかをヘッドランプをつけてグラン・クーロワールへと急いだ。雪はしまっており、雪崩は全くない。夜は明けてきたがセラックは日陰になっており、日は直接当たっていない。クーロワールの喉ともいえるジョウゴの底のような灰色の氷の部分は硬くツァッケが滑りそうである。無事最難部を乗り越える。上部で空にレンズ雲がでてきた。天候悪化の兆しだ。必死にピッチをあげる。最上部の岩場はセラックが一面に岩を覆い、氷のオーバーハングを形成しており、つるつるに磨かれていた。直登は不可能だ。右斜上し唯一の出口と思われる方にトラバースした。雪が降り出し、夕方岩場の基部でビバーク体勢に入った。翌朝青氷帯からセラックの裾を回り込むようにして斜上すると緩斜面に抜け出ることができ登攀は完了した。吹雪のモンブラン頂上からバロー小屋で泊まり、慣れ親しんだグーテ小屋へのボス山稜を深雪をついて下降した。長年の夢を完成させたものの、後でこの登攀を一か八かの危険な賭け「ロシアン・ルーレット」と呼ばれたことに対して満則は怒りを覚えた。これはロシアン・ルーレットではない。一見、危険以外の何ものでもない所でも時期と時間を慎重に選びさえすれば登れる可能性があるということが実証されたのだ、と述べている。
🔷フレネイ中央岩稜冬期単独初登攀・・・1979年冬、単独でフレネイ中央岩稜核心部の最上部のシャンドルまで今一歩の所で吹雪につかまり、苦しい敗退を余儀なくされた。(長く苦しい敗退、下降を繰り返し、シャモニに帰還したのは出発9日後の事だった。)都合4回のアタックを繰り返したが、吹雪にはね返された。次第に冬期単独登攀者も増えてきた。フレネイへの思い入れも募り、翌年2月にまた挑んだ。取付きから空身でザイルをフィックスし、下降してザックを背負って再び登ることを繰り返しながら登攀した。二人で登る時よりもランニングビレーを多めに取り、絶対落ちないことを念頭に登り出した。スラブからチムニー、クラックとなり、雪と氷に覆われた苦しい内面登攀が続いた。しばらくして、突如右手のクーロワールにゴーという激しい音とともに雪崩が起こった。その中に赤や青のザックが混じってきた。その後からなんと手足を拡げた人間が落ちてきてあっという間にシュルントに飲み込まれていった。しばらくして救助のヘリが上空に飛んできてプトレイ山稜上部の仲間の登山者を吊り上げて行った。そしてプトレイのコルを何回も旋回し遭難者を捜索していた。彼自身では何もする事が出来ず、気をとりなおして登攀を続行した。外開きのチムニーは難しく手袋を外して素手で登った。感覚を失いかけ墜ちる寸前に雪のバンドに出た。首筋に手を入れると失った感覚の痛さが蘇ってきた。ビバーク中もヘリはやって来てサーチライトで捜索を続けていた。翌日ヘリは近づいて来てホバーリングした。救助が必要か問いかけているようだった。シャンドルの方を指差して登る意思を伝えるとパイロットは頷き雲の彼方に去って行った。雪の中をやっとのことでシャンドルのテラスに到達した。一本の古いクサビがあった。かつての悲劇の舞台のボナッティらの痕跡かと想いを偲んだ。翌日は風は強いものの天気は回復してきた。核心部シャンドルの登攀だ。ハングになったチムニーを必死の思いで人工とフリーで越す。かろうじて岩に引っ掛けたナッツを頼りに越すことが出来た。一日かけてたったの3ピッチ。狭いスタンスに効かないハーケンを打ってビレーしビバークした。長く苦しい夜が明けて、さらに岩雪氷のルートが続いたが、核心部を抜けたことで勝利を確信できた。強風の中をモンブラン頂上へと進んでいった。
🔷プトレイ大岩稜北壁ボナッティ=ザッペリ・ルート冬期第三登
プトレイ大岩稜からフレネイの「氷のリボン」への連続登攀を目指して夫婦で挑んだ。これはかつて誰も試みた事がないルートだった。秋子にとっては2度目の冬のブレンバだった。ギリオーネ小屋からトラバースしムーアのコルに至る。グラン・クーロワールを越えて1000mもあろうかと思われる長いトラバースを経て、ポワールの基部を回り込み、北壁の基部に到達。雪壁と氷壁を直上し、難しい凹角を人工とフリーのミックスで越す。そして狭い岩棚でビバークした。翌日は頭上の覆い被さるセラック下の氷壁を弱点を探しながらトラバースしプトレイ山稜に抜け出した。ここで、プトレイのコルへ下降し、フレネイの「氷のリボン」へと継続登攀をするか、このまま直上するか迷った。しかしあまりにも雪の状態が悪すぎた。いまにも雪崩れそうな下降路だった。連続登攀の夢は破れむなしさがこみ上げたが、北壁の冬期第三登を果たせた。プトレイの上部は硬い氷壁になっており、強風も吹き荒れ、さらに頂上直下で1ビバークを強いられた。

タラレバになってしまいますが、もし彼がコングールで遭難しなければ、単独であるいは夫婦でもっと素晴らしい登攀を続けていったように思われてなりません。

ワルテル・ボナッティ 著「わが山々へ」より

小森康行  著「ヨーロッパの岩場」より