星と嵐ー六つの北壁登行ー レビュファ

ガストン・レビュファ 著  近藤 等 訳 白水社 1955年
ガストン・レビュファ(と近藤 等のコンビ)といえば、ある世代以上の山岳愛好者にとっては、憧れの登山家であり、あるいは実際に親交があったり指導を受けたりした岳人もあるかと思います。
やや長くなりますが、近藤等のまえがきに彼の紹介がまとまって書いてありますのでそのまま引用します。
「彼は1921年5月7日、フランスの港マルセーユに生まれたのだが、幼少の頃プロヴァンス地方の山々を歩き、地中海の紺碧の海に聳え立つカランクの断崖を登っているうちに山の魅力にとりつかれるようになったのだった。十七歳の時、いよいよ本格的な山登りをはじめ、ラ・メイジュを登り、パール・デ・ゼクランを縦走した。二十歳の時には青年山岳研修所に入り、一番の成績で卒業、翌年ガイド免状を下附され、引きつづき、ラ・グラーヴの登山学校のコーチ、陸軍高山学校の教官となり、いよいよ山と離れられず、シャモニのガイド組合に加入し、山にその生涯を捧げることになったのである。
1947年に、国立登山スキー学校の創立者エドゥアール・フレンドと組んでグランド・ジョラス北壁のウォーカー・バットレス第二登に成功して以来、彼の頭上にはいくつもの初登攀の栄誉が輝き、1950年にはアンナプルナ遠征隊の主力メンバーの一人となって最高キャンプまで活躍したことは周知の通りである。その後も、彼はアイガーの北壁をこなし、グランド・ジョラスのウォーカー・バットレスをふたたび登るなど、実践面での活躍をつづけて今日に至っている。」
レビュファはこの本の執筆依頼を受けた時、単なる登攀記では満足しませんでした。
「『星と嵐』は、アルプスの最も大きな北壁を舞台に、山と大自然と、その諸要素と人間との結びつきを、ガイドの職業を通じて語った本なのです。そして、この場合、北壁そのものは私の作品の框にすぎません。それですから、私の本はテクニック的なものではなく、できるだけ人間味を出そうとしました。北壁ではビヴァークせねばなりません。そこで≪星≫という言葉が出てくるわけであり、また登攀が長いことからしばしば悪天候に襲われます。ここから≪嵐≫という言葉が出てきて『星と嵐』としたわけです。」
前置きが長くなりましたが、本書の六つの北壁登攀の概要を書いてみようと思います。

🔷グランド・ジョラスの北壁
1938年8月 リカルド・カシンらの3人のイタリア人パーティーがウォーカー稜を初登攀
1943年 ウォーカー稜をエドゥアール・フレンズと試登、嵐のため下降。
1945年 試登のテラスを越えて、75mの凹状岩壁も越えて、灰色のツルムの下でビヴァーク。翌日、オーバーハングしたチムニーでフレンズが25m墜落。垂直のフェースに転進したが、極度に難しかった。それでも翌朝薄い霧の中垂壁の登攀を再開し、正午最後の雪庇を越えて頂きに抜け出た。
🔷ピッツ・パディレの北壁 
1937年7月 リカルド・カシンらにより初登攀
1949年 ベルナール・ピエールと登攀。垂壁、オーバーハングではないがキメが細かく、うろこ状、凹状の壁に難儀した。ビヴァーク後、巨大なオーバーハングを越えてクーロアールを進んでいったが嵐につかまり、再度のビヴァーク。雨嵐、雷が続いた。翌日は嵐が過ぎ去り正午に頂上に出た。この登攀ではガイドとしての職責を果たし友への信頼が立証された、と述懐している。
🔷ドリュの北壁
1935年7月 ピエール・アラン レイモン・レイナンジェにより初登攀
1946年8月 ベルギー山岳会副会長のルネ・マリエに頼まれてガイド祭の前日の朝、モンタンベールの電車駅を出発し、午後から登攀を始めた。明日の朝のガイド祭に間に合うようにスピードを上げて800mの岩壁を登った。夜嵐が爆発してビヴァークになり、雪も降ってきたが、彼の9年もの思いを実現させ、援助できたことに満足していた。
🔷マッターホルンの北壁
1931年7月 フランツとトニー・シュミット兄弟により初登攀
1949年6月 レイモン・シモンと人と会わない、落石の少ないシーズン初めを選んだ。
この岩壁は難しさというより、危険だ。岩は脆く、氷は硝子のようだ。毎日のように岩雪崩が起こる。またテラスなどの確保点に乏しい。急峻だが垂直ではない。それでもクーロアールは岩雪崩の巣のようだった。それでそこを避けて登った。引き出しのような岩をだましだまし、1日かけて頂上まで登った。最後の陽光のなか夜の9時だった。
🔷チマ・グランデ・ディ・ラヴァレドの北壁
1935年8月 エミリオ・コミチ、ディマィ兄弟により初登攀
1949年9月 この北壁は高々550mであるが、最初の220mはもっぱらオーバーハングしている。ドロミチの名ガイドジノ・ソルダ、若いガイド、マゼッタと学生ローラン・ステルと登った。この壁はハーケンがベタ打ちになっていて、初登攀と比べると困難度が随分と低くなっている。季節の移り変わりの陽光があり秋も近かった。アルプスの登攀とはまた違った一日を楽しんだ。
🔷アイガーの北壁
1938年7月 ヘックマイヤー、フォルク、ハーラー、カスパレックにより初登攀
1952年 この北壁はクライネ・シャイデックを取り囲む愛すべき牧場から、まるで座興を醒まさせるかのように陰鬱に屹立している。太陽も射さずいつも日陰になっていて、わずかに頂稜を陽光がかすめている。1600mの壁はまるで病人の胸のようにげっそりとこけていて、常々霧のヴェールを纏っている。
(アイガー北壁の数々の悲劇、初登攀の記録が書かれていますが、当ブログで過去に書いたので省略します。)
フランス人の経験豊かな隊、ジャン・ブリュノ、ポール・アブラン、ピエール・ルルー、ギド・マニョヌの5人グループはアイガーの壁に取りついた。ところがヒンターシュトイサー・トラヴァースを過ぎて、上方から人の声が聞こえてきた。経験の浅いドイツ人2人組、その上にはオーストリア人のヘルマン・ブールとヨッホラーが先行していた。ブールの名前はかねてから知っていたので挨拶をしたが、返事はなく返してきたのはヨッホラーの方だった。彼らの進みが遅いのでドイツ人に先に行かせてほしいと願ったが拒否された。死のビヴァーク(ゼードルマイアーとメーリンガーが死んだテラス)を過ぎ、第3雪田を越えて≪欄干≫に達した。上の方でブールはルートを逸れたのか悪戦苦闘していた。北壁の中で3隊9人がビヴァーク態勢に入った。頂上直下300m地点にいたが嵐が近づいてきた。翌日ドイツ人の足元から崩れた岩がレビュファの頭を直撃した。ハーケンに指を突っ込んで咄嗟に横跳びしたおかげで大岩の直撃は避けられたが、断片にやられ頭から出血した。右肘も痛い。風雪のなか長いトラバース(神々のトラヴァース)を続け最後の雪田≪蜘蛛≫に達した。ドイツ、オーストリア隊と別れてクーロアールの左上方に進むが雪崩が次々に襲い掛かりレビュファを岩肌から引きはがそうとする。ドイツ隊からザイルを垂らしてもらい、コチコチに凍ったザイルを頼りにクーロアールを渡り切り彼らに礼をいう。2晩目のビヴァークではオーストリア隊は1ピッチ上で、ドイツ、フランス隊の7人は狭い岩棚に塊り足は空中か凍ったザイルのあぶみにかけた。装備の貧弱なドイツ隊を間に挟んでわずかな食糧を分け合った。翌朝は嵐は過ぎ去ったが凍るような寒気が襲い、服はバリバリに凍った。9人は一つの隊となりブールが垂壁をじりじりと突破していった。オーストリア、ドイツ隊からしばらく遅れて18時頃フランス隊は頂上に到達した。感激を分かち合い、しばし高嶺の別世界を眺め渡していたが、日没までに2時間しかないために急ぎ一般ルートをアイガーグレッチャー駅に向かって駆け下りた。

彼の本の記述に従って、六つの北壁登攀について概略を書きました。当然本文には美しい自然とまた時として峻烈な側面をみせる自然の中での山の記述、そのなかでの仲間との友情などが詩情豊かに述べられています。それを書き表す筆力は小生にはなく、原著を読んで堪能して下さい、としか言いようがありません。また彼は他にも幾多のガイドブックや山の本、山のビデオをだしており、アルプスに行ったことのない人でも臨場感豊かに山を感じられますし、行ったことのある人にとっては懐かしさと、さらにアルプスの奥深さ、素晴らしさを再認識させてくれます。
中には彼によって山の魅力のとりこになった人もいるかもしれません。かつては「星と嵐」という山岳同人さえあったかと思います(長谷川恒男など)。
一方で、山での友情を大切にする彼はアイガーでのヘルマン・ブールとの出会いの記述ではやや彼を否定的に捉えているようです。ヘルマン・ブールも伝説の山の巨人で「八千米の上と下」などの本は若かりし日に読んで心に刻まれた本です。その中にもレビュファとの邂逅、アイガーの記述があります。「遅れてやって来た五人の正体は、やがて二組のザイル・パーティーだということが判ったし、間もなく僕は彼等の中に、シャモニで識りあった懐かしい知人達の顔を見出した。まず第一にレビュファだ――声が届くところまで来たので互いに挨拶を交わす。それから後に続く連中の中にマニョーヌがいた。彼にはもう二年前にドリュの北壁で逢ったことがあるが、彼はたったこの間、モンブランの残された最大の未踏壁であるドリュの西壁の初登攀を行って素晴らしい手柄を立てたばかりだった。僕は彼に心からの祝辞を伝える。だが、このとき僕ははっとなにか感じた――いや、僕は思ったのだ。つまり、いまここでこうして国際的に高名なクライマー達と一緒になってみると、僕には自分が余りにも小さな存在で、なんだか全く余計な人間のような感じがしてきたのである。」このような記述をみると、ブールはレビュファをはじめフランス人を無視はせず、むしろ尊敬していたようにも思えます。しかし、ややブールが高名なフランス人達に気後れして一見彼らを無視したように映ったのかもしれません。ただレビュファも壁の上部でブールらから垂らされたザイルに感謝の言葉を述べています。そして一時は9人が一つのザイルパーティーとなった一体感を喜んでいます。
岩壁の中での極限状態での数パーティーの協調、葛藤、さらに多国間となると様々な行き違い軋轢が生じることと思われますが、その中でこその友情を外連味なく表現したものと思われ、単なる美辞麗句よりも実感がひしひしと伝わるケースのように思われました。ただ、人間極限となるときれいごとだけではなく、生か死かの中でぎりぎりの人間模様が現出することが判ります。両者の本は何回読んでも下手な小説を凌駕するドキドキ感があります。

新型コロナウイルスのためにステイ・ホームとなり、レビュファの山の本などまだまだ読みたい本が一杯なのですが、残念ながらまだ県立図書館は閉鎖中です。手持ちのものを引っ張り出しながら読んでいるところです。