宿縁 二月号 中原寺

      「あらゆる人々と共に歩むのが仏道」

 新年を迎えたその日に起きた震度7の能登半島地震は、大規模な災害をもたらして、いまだその被害の全容がつかめない極めて深刻な状態にあります。被災されました方々に心よりお見舞い申し上げます。
 我が家のルーツは同じ能登地方ですから日々に情報が伝えられるたびに、またいろい ろなことが思い起こされています。
 一つに「能登はやさしや土までも」と古くから言われています。
 能登の厳しい自然環境で生きていくため、 支えあい心豊かに暮らしてきた能登人の強さとやさしさを表した言葉です。
 この原点は元禄時代、加賀藩士の朝加久敬の旅日記「能登浦伝」の中で記されたも のによると言われている説があります。
 久敬が険しい海道に難儀していたとき、 道すがら綱とる馬子の愛らしい笑顔に出会ったこと。泊った宿主が「今日はめでたい 節句だから」と草餅と桃酒を振舞われたもてなしに、「能登はやさしや土までも」が、本当にその通りだと旅日記に残してあるそうです。
 いま一つは「能登のとと楽」という言葉です。
 これは能登の女性はよく働くことから旦那衆は楽しているというのです。男は酒造りに出稼ぎに行くから女は家業を守るために働くということです。因みに「加賀のかか楽」と続く言葉があります。加賀のおかみさんは天下の城下町でいい着物を着て美味しい食べ物に事欠かないという意味だそうです。
 母方の祖母は私が中学生のころまで存命して、芯がある強い女性を感じましたが、子ども心に優しい人でもありました。母がよく話していたのは「父は政治に関心を示す人で家を空けることが多く、田畑に精を出し家の切り盛りは母がしていた。そして仏法を大切にした人生は舅さんの影響が大きかった」と話していました。
 そんな祖母が子どもの私に能登弁で話しかけていた方言の面白さを覚えています。
*「だちゃかん」 (駄目だよ、いけません)
*「だら」(馬鹿)
*「なーんもや」(いいえ)
*「ほうや」(そうです)
 何かしらこうした方言からも、暖か味を感じていたものです。
 時代の移り変わりは激しく、昨今町には以前のような銭湯(お風呂屋さん)はほとんど無くなってしまいましたが、大半は北陸、それも能登出身者が多かったものです。そしてその作りは豪華な唐破風の玄関屋根でした。
 何故なのか?
郷里のお寺の屋根を模したそうです。それはお寺は身近に在って、いつでも誰でも参れる場所、なぜなら仏法を説く本堂はみんなが平等に救われていく教えの場だから、銭湯も同じくみんなが分け隔てなく裸になれる平等な場所だからです。
銭湯へ行った経験を持つ人は思い起こし てみてください。脱衣所も洗い場も湯船も、そこには年寄りも若いものも幼きものも赤ん坊もみんな同じ場所を共有していましたよね。
 子どもが湯船ではしゃいだりすると他人のお年寄りによくられたものです。
 あの風景は、お寺で代々仏法を聞いた大地に生まれ育った能登人が、それを忘れぬようにと生業であるお風呂屋の屋根をお寺と同じ唐破風か千鳥破風にしたのだと聞いたことがあります。
 世間の人は未だにお経は「死んだ人にばかり向けるもの」ぐらいにしか思っていませんが困ったものです。お経は釈尊の説かれた永遠普遍の真理、人間の本当に生きる道(法)ですからこの私へのメッセージです。
 釈尊がこの世にお出ましになられた時代 (二千五百年ほど前)も、今の時代も人間の争いや愚かさは変わりません。それどころか人 間の闇と愚かさの度合いは深く罪業は増すばかりです。それは真理の教え(光)に効果が無いのではなく、教え(光)に背を向き続けるこちら側の問題です。
お経をお勤めする最後には、どんな宗派でも次の言葉で締めくくられています。
  『願以之功德 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国』
(願わくは この功徳をもって 平等に一切 に施し 同じく菩提心を発して 安楽国に往生せん)
 人間の闇を打ち破る真理の光(教え)は、常に生きとし生けるすべてを包んでいるのだから、その光(教え)に出遇ったものは自分中心のものの見方が打ち破られて、共に存在するいのちへの目覚めから、共に生きようと願う歩みをするのである。これが仏教です。
 いまNHKの朝ドラ「ブギウギ」が好評で す。このドラマの始まりはお風呂屋さんからのシーンでした。戦中戦後と活躍したブギの 女王、笠置シズ子さんの人生をドラマ化した作品ですが、混乱する時代の中にあって常に 大衆とともにあり続けた主人公の生き方は、とかく感動を失い、なんとなく日々を過ごし している現代人にとって刺激を与えてくれる 内容です。
 罹災されている方々の窮状に心を寄せつ んの一日も早い復興を心から念じましよう。