北里柴三郎のひととなり

第40回日本臨床皮膚科医会総会・臨床学術大会が先日宇都宮で開催されました。
そのなかで文化講演がありました。その内容の骨子を書いてみます。

「北里柴三郎のひととなり」 北里柴三郎記念館 館長 北里 英郎

1853年、のちに”日本近代医学の父”と呼ばれる北里柴三郎は熊本県阿蘇郡小国町で庄屋の長男として生まれました。幼少期を親戚の家に預けられ、「四書五経」などの儒学を学び、礼儀作法を身につけて成長しました。さらに藩校・時習館に学び、学問・武芸に励みました。さらに新設の熊本医学校に進み、オランダ人軍医マンスフェルトからオランダ語を習得、医学の素晴らしさを学び、東京医学校(現・東京大学医学部)に進学しました。柴三郎は温厚、篤実、几帳面ながら一方で豪放磊落な性格で、在学中は教授の論文にも口出しをするなど、大学とぶつかることもあり、何度も留年し卒業時は31歳と遅咲きです。卒業後は長崎でのコレラの論文が評価され、また同郷の緒方正規の計らいで1886年ドイツのベルリン大学に留学しました。炭疽菌の純粋培養や結核菌の発見などで著名なローベルト・コッホに師事し、めきめきと頭角を現していきました。1889年には破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年には世界で初めて血清療法を発見し、ジフテリア毒素と破傷風毒素に対する抗血清を開発しました。1901年の第1回ノーベル生理学・医学賞は最終選考の15人には残ったものの、彼にはノーベル賞は贈られませんでした。

ちなみに慶応大学教授の吉村明彦先生は、そのいきさつを著書『免疫「超」入門』で次のように書かれています。(筆者 注記)
 「北里博士は、毒素を投与しても死ななくなった動物の血清中に毒素を無毒化する物質があると考え、これを「抗毒素」と名付けました。それが今でいう「抗体」です。
 北里博士の研究は、抗体を世界で初めて発見し、同時に破傷風という致死性の高い病気の治療法を確立したのですから、ノーベル賞に値する業績といえます。ところが1901年の第1回ノーベル生理学・医学賞は、なんと北里博士の同僚のエミール・ベーリング博士に贈られました。
 ベーリング博士は、当時ヨーロッパで猛威を振るっていたジフテリア菌による感染症に対して血清療法を確立しました。しかし、それは北里博士が指導したもので、1890年に発表した血清療法についての最初の論文も北里博士とベーリング博士の連名になっています。なぜ北里博士ではなく、ベーリング博士がノーベル賞を受賞したのでしょうか。当時のヨーロッパでは破傷風よりもジフテリアの方が脅威であったこと、第1回のノーベル賞は一つの部門に1人しか受賞できなかった(現在は3人まで)ことなどが理由として挙げられますが、東洋への偏見があったのではないかともいわれています。」(公式には柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠はみつかっていない、とされています。)

 柴三郎の活躍により、米英国より招聘の動きがあったようですが、彼は日本国への恩に報い、脆弱な日本の医療体制を改善し、伝染病の脅威から国民を守るために日本へ帰るといって断り、1892年に帰国しました。帰国後は日本にも感染症専門の研究機関が必要と説き、それに共鳴した福沢諭吉の支援を受けて彼の所有の土地に私立伝染病研究所を設立し、所長に就任しました。1894年にはペストの流行する香港に赴き、ペスト菌を発見しました。その後、研究所は内務省、文部省へと移管され、(北里の意思と相違?)所長を辞して、1914年私財を投じて「北里研究所」を設立しました。また1916年には福沢諭吉の恩に報いるために慶應義塾大学医学科の創設に尽力し、医学科学長に就任しました。創設後は無給でその任にあたりました。また日本医師会を創設し、初代会長に就任しました。
後輩たちからはドンネル(ドイツ語で「雷おやじ:der Donner)と畏敬され、いかにその雷を避けるかが逸話としても残っているそうです。柴三郎は怠惰や不勉強には怒ったそうですが、対外的には弟子の不始末は自らの責任として弟子を守ったそうです。
1931年に78歳でその生涯を閉じました。
 東京大学の卒業ながら、時の権威主義には反発し、官僚とはならず、福沢諭吉の支援もあり私学の道、近代日本の医学を切り開いた先駆者でした。

有名な医学者であり、誰もが知っている人物であり、新千円札にもなる人物ですが、その業績、実像はよく知りませんでした。今回の文化講演で改めてその偉大さ、高邁さを教えてもらいました。