生かされて

  先日、高校の同窓会がありました。遠方ながら出かけていって久しぶりの旧交を温めてきました。記憶は薄れてきているものの、やはり同級生との昔話には花が咲きました。同級生の中に篤志家がいて、皆からA4一枚分の原稿を集めて記念文集「もどき」を作ってくれました。体裁は一切問わず、写真あり、長歌あり、中にはChat GPTに挨拶文を書いてもらったものまでありました。(それがまたよくできている、ただ当たり障りの無い優等生的な文ではありましたが)。その中で、「生かされて」という一文がありました。皆に感謝しながら生きてきたという主旨のものかと思いつつ読んでいたら大違いなものでした。
 某商社マンの半生記で、将に九死に一生の連続の物語でした。多すぎてその一部だけを書くと、
 ゴルフ場の土地買収に絡む仁義なき抗争に巻き込まれて、(その筋)の人達に囲まれてドスを突き付けられた(広島で)。軍事クーデター勃発の夜、いきなり軍隊に囲まれて銃剣を突き付けられた(ブエノスアイレスで)。軍隊から銃口を突き付けられながら尋問をうけた(マニラで戒厳令が解除されたばかりの頃)。NYの事務所にいきなりFBIの捜査官がきて尋問を受けた(南米からの輸入コーヒー豆に麻薬が入っていた)。スキポール空港でJAL機がオーバーランし緊急停止した(エンジンが水鳥を巻き込んでいた)。本社社長と同乗していた小型ジェット機が突然出力低下し、グライダー状態で着陸した(エンジンが鳥の一群を巻き込んだ、ブラジルで)。地下鉄サリン事件の1時間前に現場にいた。9.11の数日前NYのワールドトレードセンターにいた。 他にもいろいろな“やばい”事が書いてありましたが割愛。
 それに比べれば、自分は何事もなく、平々凡々な人生をこの歳まで歩んできたのだなーと思いました。
 でも、いや待てよ、ある意味、小生も結構危ない橋を渡ってきたなー。「生かされて」ここにいるのかもしれない、何者かに感謝しなければと思い至りました。
 若い頃は山にうつつを抜かしていました。山に入れ込んだ人は多かれ少なかれ危険な経験はしているのでしょうが、・・・思い返せばよく無事でいたなー、との感慨があります。いまさらながら、ですが事のついでに列挙してみました。
・初めて谷川岳一ノ倉沢に連れて行ってもらって、衝立岩の側稜から空中懸垂をしてコップ状岩壁の下、コップの広場(といっても斜面が衝立スラブに続いていますが)で砂粒交じりの小石を踏んで、スリップし、墜落しそうになった。(先輩に、動くなといわれ、手引いてもらった。)
・一ノ倉沢の一の沢で滝の落ち口の透明な苔に気付かず、大の字になってスリップしたが偶然靴のコバが岩の微かな出っ張りに引っ掛かり、墜落せずにすんだ。
・台風の接近している時に、一ノ倉沢衝立岩正面岩壁を登っていた。ザイルが風で真横に靡いていた。最後のオーバーハングを越えるときに結構体力を消耗して苦戦していた。丁度目の前にシュリンゲ(細い補助紐)が垂れ下がっていた。これをつかめば楽にハングを越せると思った。その誘惑に負けて掴んだ途端、紐が切れて空中に放り出された。かなりの距離を落下したが、オーバーハングの下だったので途中壁に当たらず、下の岩壁に斜めに着地した形になって打撲だけで済んだ
・衝立の隣のコップ状左岩壁は屋根状のオーバーハングがある難関だった。その下の凹状のルンゼは湿っていて泥混じりだった。足を置いたスタンスがズルッと滑って墜落した。近くにビレーを取っていなかったので、大きく落下するところを、ルンゼの狭間に足がロックする形になり、墜落を免れた。ほうほうの体で逃げ帰ったが、後日リベンジを果たした。
・衝立岩の右側にダイレクトカンテというのっぺりとした垂壁がある。人工登攀には快適なルートだが、ここでもやらかした。一寸ルートを見失ったが、上方に曲がったハーケンを見つけた。よく確かめもせず、あぶみをかけて、それに乗り移った。その瞬間、鉄錆びたハーケンに銀色の亀裂が入り、あっという間に千切れてしまった。ほんの1、2秒の出来事だったが、その時の絶望感は今でも瞼に残る。真っ逆さまに10数メートル転落したが、垂壁の為自身の怪我は無し、しかし下でビレーしてくれていた相棒は急激にザイルが滑り、手に火傷を負わせてしまった。
・吹雪を突いて衝立岩に取り付くも風雪の為に基部で雪洞を掘ってビバーク。今来たテールリッジを雪崩が越えて行く。愕然とする。翌日は何となく息苦しいが、風の音もしない。天気が回復したのかと思ったが大違い。天井が埋まり1メートルも堀り進むと轟轟とした風雪。雪崩れないことを祈りながらほうほうの体で出合まで退散した。
・3月の一の倉沢南陵を4人パーティで登攀、初日は晴れていて、なんとか登りきった。続く一ノ倉尾根の雪稜を登りビバークした。翌日は天気は打って変わって風雪となった。立って歩く事もできず、四つん這いでやっとピークにたどり着いた。冬の経験の多いSが先頭で稜線を行くがルートが解らず、それでも偶然肩の小屋前に出た。全くのホワイトアウトの中、どこまで地面で、どこから空かも解らない。よくリングワンデリングの起こる所らしい。見当をつけて西黒尾根を目指したが間違った。結果としてもっと簡単な天神尾根に入りこみほっとした事だった。
・ジェルバズッチクロワールを友人と登った。セラックの崩壊を避けての夜間登攀であった。クレバスに落ちないようにアンザイレンしてバレブランシュ氷河を行く。急峻なクロワールはまともにビレーもできない。どちらかがスリップしたら二人とも氷河に叩きつけられるだろう。慎重にひたすらダブルアックスを繰り返して雪壁を登った。頭上のセラックが崩れ落ちないことを祈りながら。やっと頂稜に辿り着いた頃、朝日が射してきた。
・ミディ南壁の登攀では夏にも関わらず途中からミゾレ、雷が鳴りっぱなしになった。頂上近くでのっぺりとしたスラブに出てしまった。一寸正規のルートを外れたかも、と思った。垂壁ではないが、ごく細かなスタンスのみのノペッとしたスラブだった。もう後退はできなかった。無論ビレーも取れない。スリップしたら2人とも持って行かれるかもしれない、と思った。祈るような気持ちで一歩ずつ前進しやっとビレーポイントにたどり着いた時は心底ほっとした。その日は最終のロープウェイに間に合わずにミディの頂上駅でビバークさせてもらった。
・最後に夏の奥穂高に登った時のこと。奥穂小屋からはザックを置いて身軽になって登った。あいにくストックの片方が壊れてしまったので、手にナップザックを持っての変な登山だった。頂上にいた人から御一人ですか?仲間は下ですか?などと聞かれた。多分年寄りが一人でフラフラ登ってきたので気遣ったのかもしれない。いや独りです、といってよせばいいのに粋がって昔は冬の奥穂も来ました、ジャンダルム、馬の背は結構大変でしたよ、などとベテラン風を吹かせて下っていった。奥穂の小屋が見える程に近づいた頃岩に躓いてバランスを崩してオットットといった感じで転倒してしまった。ヘルメットをかぶっていたのでメットがガツンと岩にぶつかっただけかと思っていたら、額から生暖かい血がしたたり落ちてきた。それ程痛みは感じなかったが、余程緊張、動転していたのかもしれない。滅多に持たないエラスコットを何故かナップザックの中に仕舞っていた。頭部をぐるぐる巻きにしたら血が止まったようだった。もう少し下での転倒ならば確実に絶壁から転落していたかもしれない。小屋には偶然看護師の方も常駐していらして、手厚く介護して頂いた。血に染まった上着は捨てて、黒っぽい雨具を提供して下さった。また山小屋の主人の計らいでヘリコプターを手配して頂いた。初めて上空から見る穂高、上高地はアッという間の飛行だった。家に帰ってから病院で傷の縫合をしてもらった。何と後で気付いたが、前歯が1本折れていた。人工の歯を入れてもらったが、歯が折れて何で口唇が裂けなかったのかと今でも不思議に思う。アッと大口を開いたのか、たまたま石が歯に当たっただけなのか不幸中の幸いだった。本人にしてみれば通常コースで岩壁でもないのに、と思ったが案外そういった所ででも事故は一瞬のうちに起こり取り返しのつかないことになる事を思い知りました。また老いは確実にやってくることも思い知りました。

そういうわけで、自ら招いた危ない橋が幾度もあり、家人にはその都度迷惑をかけてきたことでした。運よくこの歳まで無事に辿り着いたことに感謝です。
 本当ならば、「生かされて」きた人生に感謝しつつ残された年月を世の中に少しでも恩返しをしなくてはならない年齢なのですが、取り立てた働きもなく、燃える思いもありません。
 ただ、生涯一皮膚科医として少しでも社会のために生きていければ、と思うこの頃です。(老害にならない程度に)。