萬造寺 齋をあなたは知っていますか(3)

薄幸
 詩人・文学者として開眼した斉ですが、最後まで文壇で名声を得ることはありませんでした。その理由を、斉を知る人たちは、「ただ、ただ、運がなかった」と言います。
 斉も文壇に躍り出るチャンスは何度かありました。当時、ベストセラーとなった雑誌「改造」を手掛けた山本実彦から新万葉集の選者にならないかとの依頼を斉は断ります。山本は川内出身で斉とは旧知の仲でしたが、自分が時代に理解されている状況にないと思っていた斉は「私が選んだことで売れなかったら申し訳ない」と辞退し、名利を得る機会を逃しています。
 ほかにも、大正3年(28歳)に斉が発刊した「我等」は経営難や火事で1年しないうちに廃刊。また昭和6年(45歳)に斉が創刊した雑誌「街道」は、最盛期を迎えていた昭和16年に日本が太平洋戦争に突入。徐々に戦局が悪化するにつれ、物資が不足し統制を受けるようになると、昭和19年(58歳)「街道」は廃刊になります。他雑誌と合併し存続を図るものの、その雑誌も翌20年敗戦の年に廃刊となり、斉はまたもや発表の場を失います。
 さらにその年、長女が他界します。斉は7人の子がいたようですが、4人の子に先立たれ、このことも斉の悲しみを深いものにしています。
望郷
 長女の死はふるさと羽島への望郷の思いを強くさせました。昭和21年(60歳)、斉は羽島へ帰ろうと試みますが、長年の過労や胸の病気が重かったことなどから、妻子のみ羽島に帰します。
 羽島に帰った妻子は農地を耕作していましたが、昭和24年(63歳)に国の農地解放政策で地主が不在として羽島の農地を没収され、斉を深く落胆させました。
 以後、斉の病状は回復することなく、ふるさとに帰ることも叶いませんでしたが、斉の望郷への思いと創作意欲は衰えることはありませんでした。
 病床に伏せながらもふるさとの海や踏破した山々を思いながら歌を詠み続け、昭和32年7月9日、70歳でその生涯を終えます。
 その才能と創作にかける情熱とは裏腹に、処世は不器用で、どこか運命の歯車が噛み合わない人生であったように思われます。

 斉が最後に詠んだ歌は

   一生の
   あがきは終へぬ安らかに
   今はやすらへ
   吾がたましひ

 類まれな才能を持ち、歌や文学に対する真摯で高みを目指す妥協を許さない生き方はまさに”孤高”でした。
 死はそうした斉の魂が解放された瞬間なのかもしれません。

望郷歌碑
 斉の没後、顕彰会が昭和35年に建立しました。表には佐藤春夫が選んだ3つの歌が刻まれています。佐藤春夫は近代日本の詩人で文化勲章者で多忙だったものの、「斉の価値を世に知らしめる機会になれば」と除幕式にも参列しています。

 行かまほし悩みいたづき振りすてて
 南の海辺とおきふるさと

 ふるさとや海のひびきも遠き世の
 こだまの如し若き日思へば

 ふるさとの浜の砂原小石原生きて
 ふたたび踏まむ日なきか

小生の幼少の頃、除幕式に参列していた朧げな記憶があります。古びた写真にはその時の様子が写っていました。訳が分からず親について行ったのでした。最近羽島を訪れた際に旧家の跡地は案内版と空き地に大木のみがありました。