萬造寺 齋をあなたは知っていますか(2)

新進歌人
萬造寺 齋(1886-1957)(以下「斉」と表します。)は今から131年前、明治19年に羽島の地主の家に生まれました。子どものころから家にあった本を読みふけり文学に興味を持つようになります。東京の少年雑誌に歌を投稿する喜びを知ると、川内中学校(今の川内高校)や鹿児島の旧制第七高等学校(今の鹿児島大学)に在籍していた頃には中央文壇の文芸誌「明星」にもたびたび歌が掲載され、鹿児島では新進歌人として名は通っていたようです。
 その後東京大学に入学したのを機に与謝野鉄幹に師事。与謝野鉄幹は、文芸誌の「明星」「スバル」を発刊していた「新詩社」という同人結社を主催していた当時の文壇の中心的人物です。
 斉は新詩社の歌会でもその才能の片りんを見せ、優れた作品を次々に投書して頭角を現します。
 斉が27歳のころには歌人堀口大学が評したように「短編実作者の第一人者」と自他ともに認める存在になっていました。
暗雲
 常々文壇で一旗揚げようと機会を狙っていた斉は、28歳の時、「スバル」の最終号の編集をするかたわら、文芸誌「我等」(大正3年1月〜11月)を創刊します。斉は地主として持っていた鹿児島の加世田の田を売り払ってお金を工面し、発刊にこぎつけました。
 しかし、元来詩人肌だった斉にとって雑誌の経営は難しく、また、編集の場となっていた斉の下宿が火事にあい、書き留めた小説や原稿などを焼失したことなどもあり、「我等」は一年もしないうちに廃刊になります。
 火事ですべてを失ったはずの斉ですが「これまで自分を束縛していた過去の一切から解放されたような感じであった」と「我等」を通して知り合った、のちの妻となる伸子のいる京都へ活動の場を移します。
転換点
 京都に移った斉は、5年ほどの間、生活苦もあり、ふるさと羽島に妻子をほぼ残したまま、東京、京都、羽島を行き来し、あるいは四国西条に流れて小説などを書きます。
 このころの斉の作風は、当時の文壇が理想的なもの、宗教的なものが求められていたということもあり、自らの精神や思考を高揚させて「迸り出るままに書く」というスタイルでした。このことは「自分の霊を照らすべき光を求めて」いる状況で、斉は理想と現実のはざまで苦悶し、また創作力の枯渇にも苦しみました。そのため、たびたび遊蕩生活に一時の逃避を求めることもありました。
 しかし、大正11年(36歳)、京都に妻子を呼びよせた斉は心身にようやく平穏を得ます。そして京都の美しい自然や街並みに親しみ、大学で芸術思想としての”自然”に影響を受けた斉の内面に大きな変化が起こります。「内ばかりに向かっていた私の目は忽然と”自然”に向かって開いた」のです。
 これは斉の大きな転換点でした。”自然”そのものの想像力が宿ったかのように、「無尽蔵なるものを抱擁しているという自覚」が斉の中にはっきりと意識されたのです。開眼したといってもよいと思います。そして次々と自然にあふれ出る詩や歌を斉は誌上に発表して行きます。
 こうして大正13年(38歳)から昭和2年(41歳)まで京都に住んでいた間、斉は約1000首の歌と十数編の長詩を作ります。この間、発表の場であった文芸誌「明星」が廃刊になりますが、斉の創作意欲は衰えることなく、「ただ自分のノートに書き込むのを楽しみに」歌を詠み続けます。斉の一生の中でも、「最も創作上の収穫の多い」3年間で、斉はこの頃から文壇の動向とは関係なく自らの道を歩き始めます。
 また、山の魅力にはまり、全国の山に登るようになったのもこの頃からです。