熊本にて

連休を利用して熊本にやってきました。空港からレンタカーで金峰山霊厳洞を訪れました。宮本武蔵が五輪書を著した場所です。漱石の草枕に登場する峠の茶屋では「だご汁」という素朴なほうとうのような汁物を戴きました。そこを過ぎて曹洞宗の雲厳寺にたどり着きました。洞窟は寺の奥の五百羅漢像の並ぶ岩山の奥まった所にありました。「我事において後悔せず」との言葉は有名ですが、坂口安吾は「この人は後悔してばかりいたんだな」と評したと書いてありましたが、面白い物の見方だと思いました。ただ、死の間際まで兵法の、ひいては人生の奥義を極め、書画をよくし、彫刻までの達人とは天才と言う外ありません。しかも諸外国の言葉に翻訳され今も人気を博しているそうです。
自画像の眼差しは鋭く、しかも透徹しているようでした。木に止まった鳥の絵はよく言われることですが、あの一筆の線は剣の達人でなければ引けないものだと肯かされました。
 そこを辞して田原坂公園・資料館に行きました。いわずと知れた明治10年西南戦争の激戦地田原坂ですが、公園はその近くにあります。資料館には当時の激戦のあとを物語る資料がいろいろとありました。中でも驚いたのは空中で弾と弾がぶつかって融合してしまった金属の塊がいくつも展示してあることでした。弾が雨霰のようにとは、よく使われる比喩ですが、この現実は想像を絶するものでした。事実、何万発もの砲弾が飛び交い刀で切り結んだ壮絶な戦いだったそうです。
 雨は降る降る、陣場は濡れる 越すに越されぬ 田原坂 と歌にもありますが、3月の冷たい雨の中での激戦だったようです。
 そして、思うのはやはり、西郷隆盛と大久保利通のことです。まさに竹馬の友ともいうべき二人が敵 、味方に別れて戦うはめになった歴史の非情さを感じました。西郷を敬愛する小生としては、そちらに肩入れしたくなりますが、歴史の大きな流れとしてはもう武士の時代は終わっていて新生日本が動き出していたのでしょう。諸外国に眼を向けた大久保ら新政府は守旧派の士族とは相容れなくなったのでしょう。西郷の政治家としての役目は征韓論で敗れて下野した時、いや江戸城無血開城の時点で終わっていたのかもしれません。人間としての西郷は至誠の人として遍く敬愛されていますが、政治家としての先見の明は大久保に軍配があがるかもしれません。その大久保も程なく凶刃に斃れます。その時、胸には西郷からの手紙がしまってあったとのことです。また死後大久保には蓄財はなく、借金さえあったとのことです。あまり人気のない大久保ですが、この人こそ明治の礎を築いた政治家だと評価する人もいます。この両人は袂を別ったとはいえ、親友であったことに変りはなく、また共に新しい日本を作ろうと志したことには変りなかったでしょう。あの世で旧交を温めているであろう事を信じたいと思いながら田原坂を後にしました。

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