中原寺 宿縁 一月号

 日に日に新たなり

 どなたもはじめての2024年の1月1日をむかえました。
 どこかの大学の校歌に「日に日に新たに」で始まる歌詞があります。再三その学校の体質が問題となって世間の非難を浴びていますが、この最初の歌詞はなんびとにも日々を過ごす上に常に心がけていくべきことだと思います。
 「新陳代謝という言葉をご存じでしょう。私たち生き物は、ごく当たり前のように食事をして栄養を体に取り込み、その栄養が入ってくる代わりに、体にたまっていた古い物質が外に排出されます。このように、体内で新しい物質と古い物質が交替することを新陳代謝と表すことができます。
 こうした体の仕組みは普段意識をしませんが、日々それが繰り返されているのです。ところが、心が多くのことを否定しているのです。
仏教は私たちの苦悩の根源を「三毒の煩悩にあり」と教えています。貪り・怒り・愚かさといって、自分にとって好ましいと思うことがいつまでも続き、そのことに執われを持つことです。怒りとは、思い通りにゆかないから裏にはいつも腹立たしさを抱えているのです。愚かさとは、自然の道理を受け入れないからぐるぐる不安定な世界を果てしなくめぐっているのです。
 残念ながらあなたのどこかに、若きものはいつか衰え、健康であってもいつかは病に侵され、生あるものはやがて死を迎えるという言葉だけを「無常」と勝手に解釈していませんか。またそのことを教えるのが仏教だと思っていませんか。
 だから仏教に魅力を感じないのです。自分の生き方に張りを失うのは当然です。
 仏教はそんな思い込みをぶちこわして、「新陳代謝」の喩えの如く、吾がいのちの根源は。限りなく新しい世界を生み出していることを教えてくれているのです。
知らぬふりをしていても、夜眠っていてもこの体は新陳代謝を繰り返し続けている、それを生かされて生きているといいます。
 だから昨日の私と今日の私は違うのです。去ったものの中に、新しい今のいのちが生まれ出てきたのです。
 思い込みほど怖いものはありません。仏教の説く教えは固定的なものではありません。私たちはその真実といわれる教えをどう受け止め、活かしていくかが大事なのです。答えはこの私が出していかなければ、絵に描いた餅で、飾り物を眺めているばかりです。
 宇宙にあって太陽は地球上の生物を構成している星ですが、少しもとどまっているものではないでしょう。盛んに活動しているでしょう。だから地球の植物や木々も、その恩恵にあずかって生育し美しい自然界を生み出しているのです。
 太陽という不断のはたらきがあるから、そのはたらきをこうむって地上には植物の芽が生え、若木となり、蕾となってやがて花を咲かせ、立派な木に生長し、やがては朽ちていきますが、それで終わりではありません。新たな生への営みに参加していくのです。
 人間という生き物は自分の目に映ったものしか見えないし、それのみは確かだと思いますが、結局はその本質を見通す眼がないのです。だから阿弥陀仏といっても固定的にしか見ませんから、どこにいるのか、どんな形をしたものなのかと追い続けて、固定観念に閉じ込められ、むなしく終わるのです。
 サン=テグジュペリの著書「星の王子様」の中で、小さな星からやってきた王子様が砂漠に不時着した飛行士に語る有名な言葉を思い出します。
 「肝心なことは目に見えないんだ。」

 私たちの命は、今この個体という形式のなかに閉じ込められています。そして、たいていそういう自分がまもなく消えてなくなるように思っています。これはとりもなおさず、命に対する疑いです。けれども仏さまの教えを聞いたら、それは私たちの考え違いだということがわかるのです。あなたはこの世で長生きしたいとだけ思っているかもしれないけれども、あなたのなかの命はそんなことは思っていない。あなた自身の命自身は、そのような長生きだけでは決して満たされないような要求を持っています。それは、浄土へ生まれたいという要求です。
 たとえば、一人の赤ちゃんの誕生を考えてみましょう。赤ちゃんがなぜ胎児から個体になるのかというと、母の胎内に閉じ込められた状態ではおれなくなったからです。赤ちゃんは自分の意志でも、母親の意志でもなくて、赤ちゃんのなかに生きている命そのものの要求なのだと聞かせていただきました。
 お浄土に生まれるということは、命が命それ自身に還っていくということです。自我という小さな個体性のなかに閉じ込めれている命が、個体性の枠を突破して無限な、枠のない真の命そのものに還ることをいうのです。
 だから仏の教えを聞き仏道を歩む人は、お浄土に還るといい、死ぬとはいいません。