鳥甲山の想い出

青春の一時期、鳥甲山に入れ込んだ時があった。
日本登山体系「南会津・越後の山」の鳥甲山の岩場と沢の項目に以下のようにある。
「秘境と呼ぶにはひらけすぎてしまった感はあるが、それでも秋山郷は遠く、静かな山里である。この山里の名を高めているのが中津川の左岸に聳立する鳥甲山の存在であろう。中津川をはさんで対峙する苗場山がゆったりした山であるのに、和山を臨む鳥甲山の東面は荒々しいルンゼが数本駆けあがっている。いわゆる白嵓、赤嵓といわれる岩場である。・・・第二の谷川岳と喧伝された時代もあって、慈恵医大山岳部、独標登高会、東電山の会、山岳同志会、などのパーティーによる開拓や集中登攀で全貌は明らかにされているが、訪れるクライマーの数は現在でも多くはない。高距500m、幅2Kmと称される岩壁帯も草付きが目立ち、石英安山岩質集塊岩の脆さには手を出しかねるというのが正直なところだろう。・・・」
昭和50年夏、山を始めて数年後、登山雑誌で紹介されていた未開の岩壁の記事に魅かれて友人と2人で鳥甲山白嵓の岩壁群の探索(見物)に向かった。もう記憶も薄れてしまっているが、夏の暑い最中、白沢の雪渓を登り、岩壁基部を藪漕ぎしながら左へトラバースしていった。上から見下ろすと今来た道を熊が横切っていくのが見え肝を冷やした思い出がある。第4、第5ルンゼの基部を探索したが、大きな岩壁ながら岩の脆さに辟易した。
数年たって、山岳会の仲間6人に声をかけて(普段自ら積極的にリードするタイプではないのだが、よほど手つかずの岩壁を登りたかったのかな)大量のボルト、ハーケンなどを調達して連休の山に向かった。
ここからは、当時「山と渓谷」誌に投稿した記事を抜き書きします。
鳥甲山の不遇な岩場を登る
鳥甲山白嵓沢第四・第五ルンゼ中間壁ピラミッドフェースTCCルート(仮称)
第1回試登 1981年4月30日~5月3日
先発は切明より、後発は屋敷方面より入山。BCを白嵓岩壁帯下方の台地上におく。雪の付いたスベリ台状岩壁より取り付く。右上後、垂壁をボルト連打でシャクナゲテラスへ。2ピッチ目、オーバーハングを右より回り込んでブッシュ帯下部へ。続く3,4ピッチ目はリッジ状のブッシュ帯をいくが、安定した足場に乏しく腕力を消耗する。5ピッチ目、オーバーハングをカンテラインを越えて左に回り込み、細かく脆いフェースを直上。
第2回試登 同年6月6日~7日
7ピッチ目、垂壁を直上するが、時間切れで1ピッチ伸ばしたのみ。
完登 同年9月24日~27日 今回は初めて参加の後輩を誘って2人で登った。
9月24日(曇り)。7時10分、白嵓沢出合発。岩壁基部着、12時30分。雪が消えて取付点は約5m下となる。シャクナゲテラスまで荷上げし、同テラスでビバーク。
9月25日、終日雨で停滞。
9月26日(曇りのち雨)、8時30分登攀開始。12時、前回到達点着。8ピッチ目、フェースを右上後、右側がかぶっている凹角沿いに左上し、ハング帯出口へ。このピッチは短いが、落石とザイルの流れを考えると、屈曲点でピッチを切った方がよかった。9ピッチ目、断続するバンドを右上。難しくはないが岩は脆く、プロテクションはとれない。頭上のぼろぼろの垂壁を避けて右上し、灌木帯に入り立木でビレー、17時30分終了。雨の中を下降を続けシャクナゲテラス着23時。
9月27日(雨)9時30分下降開始。13時20分出合着。
アプローチがやや不便で岩は総じて脆いが、静かな山である。最後に山行に際していろいろとお世話になった和山仁成館の諸氏にお礼申し上げます。

その後も会の皆と集中山行をしたり、冬季初登も試みたが、途中で断念し完登は果たせなかった。もう半世紀近い月日が経ってしまった。
その後大地震で秋山郷も多大な損害を受けたという。雪深く、路肩も分からない山道を足しげく通ったことも今となっては忘却の彼方に去ってしまった。
自分としては、唯一の初登攀で、しかもローカルな岩場をボルトなど動員して試登をしてまで登ったのはあまりスマートとは言えないかもしれない、取り上げる程のことではないかもしれないと思いつつも、やはり懐かしく愛おしい。
過ぎ去っていった青春の一時期の遠い思い出・・・
もう、山には登らなく(登れなく?)なった近頃、遥かな青春時代の山の一コマを振り返ってみました。

日本登山大系 南会津・越後の山 より

山と渓谷 1982年1月号より

ハング帯が頭上に迫るフェースを直上、ハングの手前でボルトを打つ。

厳冬期鳥甲山全景(白嵓)