杢太郎と明治の文豪の接点

木下杢太郎記念館の展示に明治の文豪の自筆の書状がありました。文壇にデビューしたとはいえ、文学者とも医師とも画家とも確立していない中で、一流の文人にも一目置かれて、あるいは目に留まっていたということでしょう。やはり「栴檀は双葉より芳し」と言う喩えの如くに、若くしてズバ抜けた才能を持っていたということでしょうか。
【夏目漱石】
杢太郎は一高在学中に英語を漱石に習った。杢太郎が「和泉屋染物店」という戯曲を漱石に贈ったところ、返礼として「彼岸過迄」を贈っている。その時の自筆の書状。「あの装釘は近頃小生の見たる出版物中にて最も趣のあるものとして深く感服仕候・・・」とある。
また、別の所では「あなたの特色として第一に私の眼に映ったのは、饒かな情緒を濃やかにしかも霧か霞のように、ぼうと写し出すお手際です。」とある。

【芥川龍之介】
杢太郎が欧州留学から帰国した際のお祝いへの招待状への書状。家内に病人がいて出席出来ないが、お会いしたい、また以前の新思潮の表紙絵へのお礼も述べている。


【森鴎外】
杢太郎の人生の師表とも言える人。スバルなど、文芸に於いても指導的立場だったが、皮膚科医になったのも彼の助言が大きい。「僕は大学の卒業が近づいた頃、何の専門にいるべきか。(当時医学はきらいだったので)自分に見当がつかず大に迷った。それで先生(鴎外)にその事を尋ねて見た。僕は精神病学を選ぼうと思ったが、先生はそれを賛成せられなかった。生理学はどうだと謂われた。又土肥慶蔵君の如きは最も教授らしい教授だとも言われた。多分それが暗示となったのであろう。僕は後に土肥先生の門に入った。」
また鴎外の娘の小堀杏奴は次のように述べている。
「亡父鴎外が、岩波書店から全集を出版して頂く幸運に恵まれたのは、昭和十一年、その死後、約十数年後である。木下先生がご紹介下さっているように、父はその生前よりも、死後に於いてようよう人々に知られるようになった。それも岩波書店から全集が出版せられ、それによって真価を知って頂けたと言っていい。亡父全集を、同書店より出版出来るよう、熱意を以って御推薦下さったのは先生であり、その意味で先生は、己れを空しくして、亡父生前から、その死後に至る迄、変らぬ尊敬と、愛情をそそいで下さったばかりで無く、人々に亡父の、眞の価値を報らしむる機をお與え下さった唯一の大恩人と申し上げるべきおかたなのである。」
【谷崎潤一郎】
ほぼ同年齢で、杢太郎が南満医学堂の教授時代に奉天の彼の家に泊めて貰った時の思い出を彼の没後に書いている。グルメで独身だったため、当地の酒楼にしばしば連れて行ってくれた、と。また語学の才に触れている。彼が早くから独仏の語に長じ、それらの言語を読みこなす力をもっていることは知っていたし、又奉天に来てからは中国人の教師に就いて中国の古典を学び、当時は『荘子』を習っているということも聞いていたが、しかし実際に中国人を相手にしてあんなに流暢に会話の遣り取りが出来る程「しゃべる語学」が達者であろうとは、思いも寄らなかったのであった。」
【北原白秋】
1907年7月、杢太郎は与謝野寛、平野萬里、北原白秋、吉野勇ら新詩社の5人で九州旅行をした。この旅行記は「五足の靴」として本になっている。これがキリシタン戯曲、詩の端緒となり、白秋にも多大な影響を与えたが、下調べをして主導したのは杢太郎であった。これを契機に2人の親交は深まり、「パンの会」や「スバル」で共に活躍した。太田慶太郎は「比類稀な詩境の発見者」ということでは、白秋も杢太郎に劣るものではなかったが、白秋はより官能的であり、詩人にして科学者でもある杢太郎はより理性的であった。」と述べている。
【与謝野晶子】
杢太郎が学生の頃、新詩社を訪れて以来の友人。晶子の方が7、8歳歳上だったが、杢太郎の純心で高邁な人柄を愛した。大正15年の明星に「木下杢太郎さんの顔」という歌を載せている。
「・・・友は何処に行く、猶も猶も高きへ、広きへ、胸張りて、踏みしめて行く。われはその足音に聞き入り、その行方を見守る。科学者にして詩人、他に幾倍する友の欲の重りかに華やげるかな。・・・
羨まし、友は童顔、いつまでも童顔、今日見れば、いみじき気高ささへも添ひ給へる。」
さらに、石川啄木、斎藤茂吉、永井荷風、阿部次郎、和辻哲郎などとも親交があった。