木下杢太郎記念館

先日の休日に伊東に行ってきました。
お目当ては木下杢太郎記念館を訪れることでした。かつて伊東に行った際にも行ってみたのですが、あいにく休館日で入館できないままに立ち去り残念な思いをしたことがあり、いつか行こうと思っていた念願がかなったわけです。
日曜日の夕方着いて、翌日は月曜日で本来ならば休館日ですが、祝日とあって開館するとのことです。それでゆっくりと2日間訪れることができました。しかも入館者は小生1人のみで(月曜日、短時間1人の入館者はありましたが)写真、資料などを心行くまでみてまわりました。(それでもさわりだけでしたが)

「伊東市立木下杢太郎記念館は、医学者にして、詩、文学、美術など広い分野で優れた功績を残した木下杢太郎(本名:太田正雄)をたたえ、その資料を展示公開し、教育文化の振興に寄与するために、昭和60年10月、生誕100年を記念して開館した。記念館は明治40年の建築物で、国登録有形文化財で、外観は土蔵造りになまこ壁を配し、長い歳月の経過を物語って、見る人の心をひきつける。記念館の奥には天保6年(1835年)に建てられた生家が当時のままの状態で保存されている。伊東市内に現存する最古の民家であり、市指定文化財である。」(同記念館資料より)

木下杢太郎のことは過去にもブログで数回書きましたので、更には書きませんがその足跡に触れるたびに新たな感慨があり、ため息がでます。一人の人に天はかくも多彩な才能を与えたものだ、若くして(60歳なので当時としては若死にでもないかも知れませんが)亡くなったのは返す返すも惜しい、と思わざるを得ません。
本人はその才能をどう思っていたのだろう、という想いは常々ありましたが、今回資料をぱらぱらめくっていてその思いの一端に触れるような書き物が眼に止まりました。

「今の私の考では、精神文明の種々相、即ち科学、芸術、文学、宗教等に何等の階級的価値を分ける必要を認めません。そうして小説、戯曲、或は造形芸術を、何か異なったもの――しゃれたもの、慰みにするもの、特殊の天稟に限られた興味、時代の装飾になるもの――などと云ふ風には考へません。—-中略―-
私に取っては創作といふものが、生活機能の必然なる要素であるのです。私が小説を書くといふことを咎める人は、即ち私の生活の一部を否定しようとするものであって、畢竟私の生存の敵なのです。」
『唐草表紙』(大正四年)の跋の中に記されたこの言葉は杢太郎の生涯に亙る多面多彩なすべての活動に当嵌めて不可はないであらう。小説のみならず、医学の研究も吉利支丹史の追尋も、詩作も本画集にはわづかしか収められない水墨も、晩年の『百花譜』も、すべてこの人の必然的な内心の要求の顕はれであったのだらう。画作を職業としなかったといふ点では、言葉の純粋な意味に於いて文人画といふこともできるであらうけれど、杢太郎の場合作詞も作画も、通常余技と呼ばれるものと少しく違ってゐたのではなからうか。それらが時に軽妙、特に洒脱であっても、それは単なる手すさびではなくて、真面目な生活の一部であったのであらう。勝本(正晃)博士によれば、杢太郎はよく常談のやうに、神は自分にあまり多岐な才能を授けてくれてうるさくて仕方がない。それをどう始末していいか分からないで困ってしまふ、と嘆じてゐたといふ。一事に専念しないといふ非難はこの場合意味がない。寧ろふとした好奇心から始まって南蛮趣味を吉利支丹史の緻密な史実探求まで掘り深め、少年のかりそめの嗜好を『百花譜』の如き画家も及ばぬ繊細微妙な境地にまで高め得たことに注目すべきであらう。

伊東市立木下杢太郎記念館

木下杢太郎