ローマ人の物語

塩野七生「ローマ人の物語」を読んでみました。数年前にこの本を知り、次第にそのファンになっていきました。古代ローマ人の建国からカエサル、アウグストゥスに到る発展の歴史は人口に膾炙した壮大なドラマですが、国が栄えて行く時の物語はわくわくするような勢いを感じられ、前半は一気呵成に読みました。特にハンニバルの象によるアルプス越え、カンネの戦い、スキピオによるカルタゴへの逆襲、などはまるでリアルなの戦記を読むかのような思いでした。そして、「賽は投げられた!」であまりにも有名なカエサルのルビコン川越えは、この物語のハイライトといえる場面といえます。当時、北の国境とされたルビコン川を軍団と共に渡るのは国法で禁じられていました。しかし、ガリアを制圧しながらも、元老院から解任の最終勧告をうけたカエサルにとっては最終決断の時でした。「ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅」「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」と兵士達に告げ、進軍した、と著者は書きます。著者のカエサル命は微笑ましい程で、その筆致にも勢いが感じられます。カエサルによって共和政から帝政に移行したローマでしたが、その治政は紀元前44年の3月15日に悲劇の暗殺によって幕を閉じることになります。その後のクレオパトラとアントニウスの物語も有名です。カエサルが後継者に指名したオクタヴィアヌス、後のアウグストゥスによってローマ帝国は広大な領土が統一され、パックス・ロマーナの時代に入っていきます。
しかし、その後の皇帝達は、ティベリウス、ネロなどと悪名高い皇帝として後世に残っています。2世紀にはいると、賢帝の世紀といわれるように、五賢帝が統治し「黄金の世紀」といわれるようになります。ネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続き、版図も最大になりローマ帝国の全盛期となりました。しかしながら、次第に衰退の影が忍び寄って来つつありました。飢饉、東方でのパルティア戦役、下剋上の時代へと突入していきました。
 3世紀に入ると、度重なる蛮族の侵入、辺境防衛のための軍事費増加とそれによる財政悪化、官僚機構の肥大化、次々に替わる皇帝と帝国は「3世紀の危機」を迎えるに至りました。73年間に実に22人の皇帝が入れ替わり立ち替わり登場しました。政策は一定せず、迷走しました。まるで現代のどこかの国を彷彿とさせる状況だったようです。
3世紀末になると、ディオクレチアヌス帝が現れて、帝国の分担統治を実施して広大な国土の効率的な防衛によって、帝国の再生を目指しました。さらに副帝をも置き、四頭政を導入しました。皇位継承をめぐる内乱を未然に防ぐ目的でしたが、やはり、四頭は並び立たず内乱に陥りました。また次のコンスタンティヌス帝は北方蛮族の掃討に成功し、新しい首都コンスタンティノポリスに本拠地を移し、キリスト教を公認し帝国の再生を目指しました。しかし、著者はこのことによってローマ的特質は葬り去られた、と書きます。
『ローマ帝国では、後期に入ってもなお、多人種・多民族・多宗教・多文化の帝国であったことでは変わりはない。そして、すべてが多様であるこの大帝国は、「ローマ法」と「ローマ皇帝」と「ローマの宗教」というゆるやかな輪をはめることによって、まとまりを保ってきたのであった。「ミラノ勅令」は、そのうちの「ローマ宗教」という輪をはずしたのだ。』『この2人の皇帝によってローマ帝国は再生したとする研究者は多いが、実は全く別の帝国に変えることによって帝国を存続させた。』と著者は述べます。
 コンスタンティヌス帝の後、一時ユリアヌスによる伝統的な多神教への回帰がありますが、続く皇帝達によってローマのキリスト教化は進んでいきました。「キリストの勝利」として著者はまとめて書き進んでいますが、キリスト教徒ではない著者は西洋人とは一味違ったアウトサイダー(?)としての冷めたとらえ方をしているように思われました。
後世の歴史に皇帝コンスタンティヌスが大帝(マーニュス)と呼ばれるようになったのは、ひとえに彼がキリスト教を公認したからですが、実は彼自身はキリスト教徒ではなく亡くなる前にやっと洗礼を受けたらしいこと、どうもキリスト教を公認したのは政治的理由で、以前の皇帝達がローマ市民からのリコール(?)を受けて殺されたり失脚したのをみて、自身の家系の存続を願ったためのようです。ローマの司教達を優遇して、王権を絶対的な権威にすること、いわば後世まで続いた「王権神授説」アイデアの先駆けは彼だった、と述べています。
そして、もう一人、キリスト教化について重要な人物がいました。長らくローマの高級官僚であり、キリスト者でもなかったが、後に請われてミラノ司教になったアンブロシウスです。文庫本40巻の表紙の見返しに下記のように書いてありました。
「ユリアヌスは数々の改革を実行したが、その生涯は短く終わる。政策の多くが後継の皇帝たちから無効とされ、ローマのキリスト教化は一層進んだ。そして皇帝テシオドスがキリスト教を国教と定めるに至り、キリスト教の覇権は決定的となる。ついにローマ帝国はキリスト教に呑み込まれたのだ。この大逆転の背後には、権謀術数に長けたミラノ司教、アンブロシウスの存在があった。」「彼は、キリスト教と世俗の権力の関係を、実に正確に把握していたのにちがいない。皇帝がその地位に就くのも権力を行使できるのも、神が認めたからであり、その神の意向を人間に伝えるのは司教とされている以上、皇帝といえども司教の意に逆らうことはできない。」
4世紀も末になると蛮族、とりわけフン族の侵攻が活発になってきました。それに押されるようにゲルマン民族がローマ領内に侵入してきました。そして、次第に東と西のローマ帝国は分離の道をたどり、5世紀には西ローマ帝国は崩れるように滅亡していきます。
西ゴート族、ヴァンダル族にイタリアは蹂躙され、476年西ゴート族の族長オドアケルが西ローマ皇帝を退位させ、実質的にローマ帝国は滅亡しました。東ローマ帝国は存続し続けますが、「都市アテネなき都市国家アテネがありえないのと同じに、ローマなきローマ帝国はありえない。首都がコンスタンティノポリスでは、それはもうローマ帝国ではないのである。ましてやラテン語ではなく、ギリシャ語を話すのでは」とあるように東ローマ帝国はもはや古代ローマ帝国とは別の国といえます。
 この後のイタリアはパクス・バルバリカと呼ばれる平和が半世紀も続いたとい

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)