あの頃の丹沢

奥秩父で山に目覚めた後は、丹沢に足繁く通うようになりました。多分、小生より上の世代の「山や」は丹沢で修業し、谷川岳、穂高滝谷へと進んで(はまって)いくコースを辿った人が多いようです。
その前例に倣ったわけではないと思うのですが、小生もお決まりのコースを辿りました。
都心から近く多くの峰々や森や草原や谷があり、沢登り、岩の練習、ボッカの練習などができ、夜行日帰りに最適で、気軽に行けるロケーションがお気に入りでした。
1971年の記録をみると(あの頃は真面目に記録していたのだなーと我ながら感心しますが、その後は記録も記憶も次第に不鮮明になっていきます。)丹沢オンリーです。
最初が、金峰山に連れて行ってくれた仲間の一人H氏との登山でした。
大倉尾根~蛭ケ岳~熊木沢~ユーシンとなっています。ほとんど薄れた記憶の中で大倉尾根からみえた秦野の夜景がとてもきれいで印象的だったのを思い出します。
その後、表尾根~蛭ケ岳~原小屋~東野へと初めて単独で歩を進めました。友人を誘って表尾根~蛭ケ岳~檜洞丸~石柵~中川へも懐かしい思い出です。一緒に写真に写っている友人はその後若くして癌でなくなりました。遠い昔の思い出・・・。
そして、講習会で鍋割山。
その後は次第に水無川周辺に足が向くようになりました。金峰山で知り合った仲間達と沢登りをしているうちに岩登りのまねごとなどもやるようになっていきました。水無川流域には手ごろな沢がいくつもあり、本谷をはじめ新茅沢、モミソ沢、セドノ沢、源次郎沢などで遊んだものでした。金峰山で知り合った人が倉見山荘の小屋番をしていて週末よく泊りにいった一時期がありました。大倉から暗い夜道を歩いたり、その後は車で直接行ったりしました。山腹の小さな山小屋なので小屋番以外誰もいないことがよくありました。行くと「藪医者、よく来たな」と歓迎してくれたものでした。当時まだ医学生だったので藪でも医者と言ってもらえたのは褒め言葉だったのでしょう。
薄暗いランプの灯の下で谷川岳はすごいんだぞ、一の倉沢南稜なんかこんなだぞ、などと本や写真をみせてくれたりいろいろ山の話を語ってくれたのを懐かしく思い出します。今思うとやや大げさな人でしたがそんなすごい所を自分も登りたいなと思ったものでした。
丹沢集中山行で、セドノ沢で I さんが滝から転落し、金峰小屋の林袈裟夫さんが担架を作り救出してくれたのもその頃でした。
モミソ沢の入り口の岩場で遊んだり、梅雨時の本谷で流されそうになったり、沢の入り口辺りをうろうろすることが多くなり、真面目に頂上までいかない日々でした。
その後岩登りの山岳会に入り、冬の本谷、西丹沢の氷瀑なども行きましたが、次第に丹沢から足が遠ざかっていきました。
数十年振りに車で本谷出合いを訪れると、賑やかだった人々との触れ合いも思い出されました。塔ノ岳に登るだけでも結構息切れがしてしんどい思いでしたが、やはり間近にみる富士山はいいものでした。

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