花の百名山 田中澄江 著

田中澄江  1908年生まれ、2000年没の作家、脚本家。
昭和の初めの頃から山に親しむ。花の百名山は昭和53年から3年間に亘り「山と渓谷」に連載された記事をまとめたものであるという。当時は雑誌に連載されていることは知っていたが、ほとんど読んだことはなかった。最近読んでみて遅まきながら女史の山に対する愛と植物への博識のみならず歴史・文化への博識さを認識した。
日本百名山ならば、本家の深田久弥のものがあまりにも有名であるが、こちらの花の百名山は関東から東北、北海道に及び再び中央から西日本、九州へと全国に亘るものの山の大きさ、高さ、品格などにはこだわらずに著者の辿った遠近の山の花の随筆集といった趣である。
書かれた時期は昭和50年代だが、その思い出の足跡は昭和の初めまで遡る。
著者の子供時代、大正から昭和にかけては東京の高い所からなら、北に筑波、日光男体山、赤城、榛名、西には大菩薩、丹沢、箱根、富士、天城の山々が見えたという。
6歳で死に別れた父が手植えた庭の山野草を見、山の話を聞かせてもらいながら山への憧れを募らせていったという。学校の遠足、地理で近隣の山を知り、卒業して学校の教師になり月給をもらうようになると週末には一層山を歩くようになった。結婚して思うように山に行けなくなり、転んで足の骨を折ったりして一時期山から遠ざかったがまた運動の楽しみを山一本にしぼりゆっくりと山行を楽しむようになった。高水会という中高年の女性を中心とした山の仲間と頻繁に手近な山を歩き、いよいよ山の花が眼につき面白くなっていったという。
父は富士山にいて私が来るのを待っている、’お父さんは山にいる’。その思いを胸において山を歩き続けていったという。
昭和の初めの頃の9月の赤城登山の思い出も興味深い。「急に思いついてのことで、紫地のお召しの着物に朱赤の帯を締め、カナリアいろのパラソルをさして、草履であった。」黄ばみそめた白樺の葉と真っ白な幹の対照が鮮やかだった、と。また小沼のほとりのマツムシソウがきれいでその中に寝転んでいると怪しまれた、沼のボートでは投身自殺者と間違われた、という。身なりも身なりだが、その当時の若い女性の1人登山など一般的ではなかったのであろう。戦後俗化されたものの懐かしくまた往時の道を辿ると緋に燃えるようなレンゲツツジの花盛りであった。地蔵岳から忠治温泉への下り道で、草むらのなかに一点の赤い色を見つけた。薄紅のアツモリソウだった。その名は一谷に死んだ平敦盛の背に負った母衣の形からとったという。
著者は「登る山をえらぶとき、高さよりはその山が人間の生活とどうかかわりがあったかが、いつも気になる。私は古戦場とよばれるような山を歩くのが好きである。敗残の生命をかつがつに保って、落城の兵の逃げていった道などは、殊に心惹かれる」と書くように古人の故事にまつわる山を好んで取り上げている。
ヤマトタケルノミコト、源平の武将達、戦国の武田勝頼、佐々成政など悲運の末路を辿った人々の跡を辿っている。彼らはいまわの際に故郷の山河、恋する人に思いを馳せたのであろうか。そういう著者も「若い日というものは、周囲に対して、馬車馬のように注意のゆきとどかなかったものだと、今ごろになって恥ずかしい・・・ただ速く歩くばかりが能だったのである」とも述懐している。この人にしてもやはり青年期というものは一途で周りが見えないものらしい。
わが身を振り返ると、北海道から九州まで百名山も登れば数々の山の花々を目にしてきたはずだが、あまり記憶に残っていない。大体花の名前を知らないので記憶に留めようがないのかもしれない。青年期を過ぎてもただ登るだけで周りに注意が行き届かず忸怩たる思いだ。それでも、ニッコウキスゲやチングルマ、シナノキンバイ、ウスユキソウ、コマクサ、シャクナゲ、カタクリ、コバイケイソウなど貧弱な記憶の中にも思いは重なり、感慨深い。
著者は高山植物が好きといっても、図鑑と首っ引きで、花に詳しい人からその名を教えて貰うのが精一杯の花との付き合い方と謙遜されているが、植物同好会に入っていて、よく牧野富太郎氏の後をついて武蔵野の丘々を歩いた、という。また武田久吉氏から直々に尾瀬の花の話を聞くなど本格的である。
著者の花の旅は、古の人々を偲んでの山行きが多い。ただやみくもに山を歩いていた小生等には見えなかった世界だ。当たり前のことだが、この国の山も川も古からあり、人々も山河を越え、花を見ながら幾多の歴史ドラマを繰り広げていったのだろう。
その中で二上山はとりわけ心に残る一項である。昔、高校時代に皆と文集などを作っていたが、国語の先生がそこに二上山の記事を寄稿して下さった。
二上山はその昔大津皇子の悲しい歴史を秘めた山である。
大津皇子は天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の大田皇女。父天武天皇が崩じてわずか1月も経たずに皇位を奪おうとしたとの謀反の嫌疑をかけられて死を賜った。それには早世した大田皇女の妹で自分の叔母にあたる持統天皇や藤原不比等の画策が覗われるとされる。夫の悲報に妃の山辺皇女は髪振り乱してその亡骸に取りすがり、殉じて果てた。伊勢神宮の斎王であった姉の大来皇女は皇子が二上山に埋葬された後、悲しんでうたに詠んだ。
  うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む
大津皇子は幼くして学を好み、また長ずるに及んで武芸にも秀で剣を良くしたという。性格は闊達で人望が厚かった。さらに政治にも参画し将来を嘱望されていた、とある。それだけに持統天皇は実子の草壁皇子の将来の地位を脅かす存在になると思ったものであろう。この姉弟は死の前にすでにそれを暗示するかのような歌も詠んでいる。悲しい結末をすでに思い定めていたのであろうか。
この悲劇も天智、天武朝の骨肉相食む政変劇の一つに過ぎないかもしれないが、有望な貴公子だっただけに、彼を愛した人々の逸話が伝わるだけに悲しい物語である。高校の恩師は寄稿文の最後にこの悲しい歴史を秘めた山は「にじょうざん」ではなく「ふたかみやま」と呼ぶのが似つかわしい、と結ばれた。このことはずっと心に引っかかっており、いつか訪れたいとは思っていたが、近くを通り過ぎたことはあってもまだ実現していない。女史も古の大津皇子を偲んで、レンゲやペンペン草の花盛りの田園風景の中を爪先登りに登ったという。高々500m程の山で現在ではハイキングコースというがいつか訪れてみたい。
 この本は山の花好きの人にとってはきっと情景がありありと目の前に浮かんで心躍る本であろうと

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