野口英世のこと

先日、たまたま点いていた放送大学のテレビから、野口英世の話が聞こえてきました。講師は山本厚子という人でしたが、女性だけあって、野口英世をめぐる女性達の話題もありました。アメリカ人妻、彼の唯一信頼していた研究助手、渡米してからも恋心をもっていた同郷の女性・・・毀誉褒貶に包まれた彼の生涯の実像にもっと触れたくて、山本厚子女史の本をネット購入しました。最近は一寸手に入りにくい本もネットで購入でき便利です。「野口英世は眠らない」という本でした。
 この本を読み人間野口英世をより深く知らされた思いがしました。先に書いた岡本教授との梅毒のことについてのやり取りもあり、一寸書いてみたくなりました。
 野口英世ほど実像と伝記、また語る人による評価のギャップの大きい人も珍しいと思います。子供の頃の伝記は大方「幼い頃のやけどにもめげず、勉励刻苦の末にアメリカに渡り医学に偉大な功績をあげ、世界の人のために黄熱病の研究途上病に斃れた偉人」のような論調でした。しかし、ある時から本やドラマなどで真逆の野口像も伝わってきました。いわく「放蕩者、寸借詐欺、婚約不履行、学歴詐称、研究結果は散々」かつて岡本教授に話した時もそのような情報のみが頭に入っていたのかもしれません。なんでこのように評価の振幅が激しいのだろう、実像はどんな人だったのだろうと梅毒の研究のことも頭にあり、頭の隅にずっとひっかかっていた人でした。しかも2004年からは千円札の表で毎日のようにお目にかかる人です。この本を読み、少し実像に近づけた気がしました。
野口英世の経歴はWikipediaをみると、客観的な事実を年代ごとに追ってみることができます。簡単に列記すると以下のようになります。
1876年(明治9年) 福島県 猪苗代町生まれ
1877年(明治10年) 囲炉裏に落ちて左手にやけど
1892年(明治25年) 会陽医院の渡部鼎により、手の手術.後、同医院の書生となる.
1897年(明治30年) 明治29年に上京し、医術開業後期試験に合格、医師となる.
1898年(明治31年) 北里伝染病研究所に勤務する.(但し、雑用程度で研究はせず)
1901年(明治34年) ペンシルバニア大学フレキシナー博士の助手となり、蛇毒の研究に従事.研究が評価される.(来日時に通訳をした縁をたよりに押しかけ面会をし、強引に置いてもらう)
1904年(明治37年) フレキシナー博士の指示、推薦でロックフェラー医学研究所に移籍する.        
1911年(明治44年) メリー・ロレッタ・ダージスと結婚.蛇毒の研究により京都大学より医学博士号を授与.梅毒スピロヘータの純粋培養に成功と発表.
1913年(大正2年) 梅毒患者の脳組織より梅毒トリポネーマを発見.
1914年(大正3年) 東京大学より理学博士号を授与.ノーベル賞候補に挙がる.
          (1915年、1920年も候補に挙がる)
1915年(大正4年) 一時帰国.帝国学士院より恩賜賞を授与.
1918年(大正7年) 黄熱病の研究要請があり、エクアドルに出向く.
          黄熱病の病原体(レプトスピラ・イクテロイデス)を発見と発表.(1901年のウォルター・リードの濾過性ウイルスとの説との乖離から発表当時より野口説への反論があった).
1923年(大正12年) 野口の黄熱病研究結果への疑問、批判が起こる.
1924年(大正13年) アフリカ・セネガルで黄熱病発生.野口ワクチンが効果を示さず、野口のいうイクテロイデスも見いだせずと報告.
1926年(大正15年) マックス・タイラーが黄熱ウイルスの単離に成功.
1928年(昭和3年) 黄熱病の調査、研究のために西アフリカへ出向き、ガーナのアクラで黄熱病に罹患し同地で客死する.
 
野口英世の性癖のいくつかは、やはり事実のようです。金銭感覚が尋常ではなく、借金を重ねたり、大金を手に入れても遊郭などでの放蕩であっという間に使い果たしたりということは幾度もあったようです。特に彼に目をかけてくれて援助を惜しまなかった高等小学校教頭の小林栄や歯科医の血脇守之助からは幾度も大金の借金をしながら、踏み倒したりしています。ただ、並の寸借詐欺と違い、後年その恩義を忘れずに、血脇がニューヨークに立ち寄った時には1か月もの間、血脇の面倒をみ、米国要人にも紹介したそうです。別れ際に血脇は「君の若い時から、僕は多少君のお世話をしたことがあるが、この度こちらに参って非常に君の世話になった。もうこれで恩を帳消しにしてもらいたい」と述べたそうです。心の父と慕う小林には米国から300余通の手紙を送り続けたそうです。野口の死後、小林は「あのような秀才はなかなか再来しない、あと10年は生かしておきたかった、」と嘆き記念碑を建て、生家を保存する事業の中心となります。並の金銭感覚からはずれていますが、もっと大きな桁外れな倫理規範を持っていたのかもしれません。
 妻メリーのことについては多くを触れてある文献は少ないようです。今回読んだ本の作者はメリーの足跡を追っていろいろと調べたそうです。
アイルランドからの移民で家族は炭鉱で働いていた.ペンシルベニア州スクラントンの出身でニューヨークに出てピアニストを志望していたらしい.昼間は学問に打ち込んでいた野口も夜は異郷の地での孤独を郷里の小林に打ち明け結婚相手の相談までしている.メリーのルームメイトと彼氏の4人は親密になっていった.ある夜酔いのまわった野口が突然結婚しようと切り出した.そして4人は同じアパートに住んだ.メリーは大酒飲みで、普段は優しかったが飲むと粗暴で、家庭的な人ではなかった.2人とも経済観念がなく、浪費家だった.野口は結婚のことを研究所内、日系人などにも秘密にしていた.喧嘩ばかりしていたとの話もあるが、アフリカからの最後の日々、野口はメリー宛に頻繁に愛するメリーと手紙を送っている.
 野口の死後、妻は初めて風采の上がらない夫が偉大な科学の殉教者と知ったようでした。その後はロックフェラー研究所との関係も絶ち、ひっそりとマンハッタンで暮らしたといいます。1947年すっかり老け込んで早く野口の傍に行きたいといっていたという彼女は静かに息を引き取ったそうです。

 野口英世の研究業績の評価については、残念ながら多くのものが否定されていることは事実です。Wikipediaの研究内容と現代の評価をみると、その詳細が客観的に表としてまとめてあります。彼の仕事は「野口英世は眠らない」とロックフェラーでうわさになったほど膨大な実験、光学顕微鏡観察などから得られる病理学、血清学的な研究手法でした。 評価の高いものは、蛇毒による血管内皮の傷害による溶血性変化、数万枚ものスライドから発見したとされる神経梅毒患者の脳標本からの梅毒スピロヘータの発見などです。当時の精神科病棟での入院患者の半数もが神経梅毒の患者だったそうでその原因を突き止めたことは特に高い評価を得ています。特にペルーでは同国の精神医学の発展に大きな貢献をした医学者と高く評価されているそうです。
また南米ではペルー疣とオロヤ熱の病原体が同一のバルトネラ症であることを証明したことも高く評価されています。)(米国では、これらは別物ではないかと疑われていた。)
 逆にある意味最も有名な彼の研究テーマである黄熱病の原因がウイルスであったように、光学顕微鏡でみることのできない、すなわちウイルス関連の疾患についての業績は軒並み後世では否定されています。病理標本を光学顕微鏡で虱潰しにみていく手法ではウイルスはみつかるわけがありません。電子顕微鏡が実用化される前の時代だったことも不幸だったのかもしれません。また一時は最大の業績とされた梅毒スピロヘータの純粋培養も実は非病原性のもので、現代では否定されています。
 幾多の間違いを知りながらもエクアドルをはじめとした南米での野口英世の評価は非常に高いといわれています。それは野口のワクチンによって南米のワイル病の流行が実際に収束したこと、実験機材や顕微鏡などを各地の研究所に供与したこと、オロヤ熱やリーシュマニア病などの熱帯感染症の研究にも取り組み、南米の医学研究を促進し、野口に影響されて南米の医学のリーダー達が多く育っていったなどということも関係しているようです。
 後世の我々が間違った結果を批判することは簡単です。しかし、未知のものを探していく際に完璧、絶対間違わないことなど神様でもない限りありえないでしょう。トップリーダーは羅針盤のない、目的地も解らない大海原へ嵐をものともせずに漕ぎだしていくようなものです。遭難を恐れていてはとても前へ進めないでしょう。
 しかし、今からみれば彼の研究手法は、黄熱病でも指摘されていた濾過性ウイルスの情報を無視したことなどやや強引でスピロヘータに拘りすぎたのかもしれません。彼の助手の一人は「野口先生は日本人らしい几帳面な性格ではなく、実験器具の取り扱い方も不用意だったようです。」とも述べています。ノーベル賞候補にあがり、凱旋帰国した1915年頃が彼の最も油が乗りきって輝いていた頃だったのではないでしょうか。
 最後の数年は研究に邁進しながらも苦悩の日々だったのかもしれません。。1923年頃からは正面きって彼の研究結果への批難がまきおこります。翌年になるとアフリカで発生した黄熱病に対し野口のワクチンは効果がないこと、彼が発見したというイクテロイデスが見つからないという報告が上がってきます。次第にお膝元のロックフェラー医学研究所のラゴス本部でも野口説に否定的な見解をもつ研究者が多くなり、彼はそこを避け、アクラの研究所で現地人などを助手として孤独な研究を続けたといいます。彼自身も自分の研究結果に対し確信が揺らいできたのかもしれません。
アクラでは「皆さん、私は最善を尽くします。その結果については私は何も申せません。私にははっきりした自信がありません。」と挨拶しています。またアフリカ人助手たちに向って「野口の日没だ。おそらく不吉な日没だろう。」などといったともいいます。
野口が唯一心を許し英文論文の添削もしたという研究助手のエベリン・バトラー・ティルデンは「西アフリカの野口博士はふだんの先生ではありませんでした。」と後年述べたそうです。そして、「私が一緒に行っていたら、ああはならなかった。」とも野口の客死のことを述べていたそうです。エベリンは野口が秘書から研究員に育て上げた唯一の学者で頭脳明晰、整理・整頓の行き届いた人だったそうです。彼女が野口の専属研究員となってから彼の乱雑な研究室は整理され、論文も次々に仕上がっていったといいます。3月にはアクラからフレキシナー所長に対し、「アフリカの黄熱病の新しい病原体を発見しました。」と知らせています。しかしながら最後にエベリンへの手紙で野口は黄熱病の原因は濾過性微生物(ウイルス)が病原であると言及しそれまでの自説を否定したとも言われています。(Wikipediaより)。野口の最期の言葉は「私にはわからない・・・」というものだったそうです。
 研究結果に混乱をきたし、意識も混濁したための言葉かもしれません。しかし、小生にはこれは真摯に研究する者の、真理を追究する者の一番真面目な高貴な態度のように思われます。誰かの後追いの研究をするのでもない、間違いを権威主義のもとに捻じ曲げるのでもない科学者の真骨頂が吐露させた最期の言葉のようにも思われます。
 彼の死後、残念ながら日米の関係は悪化の一途を辿ります。彼の意思とは無関係に国威発揚の材料に使われたようです。母シカは「軍国の母」として、野口は「国民が野口のような大科学者になったら世界に恐れる国はない、どんな強い国が攻めてきても必ず日本は勝つのだ」といった具合です。戦後も疲弊した国民に勇気を与えるために「アメリカ人と互角に勝負をした偉大な医学者」というような論調もみられ、伝記にも彼の負の部分を覆い隠した偉人伝が多く出されました。
 しかし、先に述べたようにこれと真逆の出版物やドラマもみられるようになり、真の野口像からは遠のいてしまったように思われます。過度に持ち上げるのも、また過度に貶めるのも彼の人生を歪曲するものといえましょう。
 今日、我々は意識せずとも千円札で毎日のように野口英世と挨拶をかわしています。
しかし、その実像、特に本当の業績についてはあまり知られていません。解説書にすら漠然と、あるいは明らかに間違って伝えているものもあります。結果的に間違っていた研究を差し引いても、彼は近代日本の医学、特に国際的な立ち位置で大きな足跡を残した人には違いはないと思います。
ニューヨーク、マンハッタンのウッドローンの墓地には野口英世の自然石で作った墓碑があるそうです。そのプレートには次のように書かれているそうです。
Through devotion to science, he lived and died for humanity.
一身を科学に捧げ、人間愛を生き、そして、人間愛に殉じた。

 誰もが知っている人なのにその人物の実像、評価など振幅の激しい人でもあります。
福島の猪苗代の貧農の清作が世界の野口英世となり、大都会のニューヨークに眠っている、そのことだけでも何かしら夢物語のようです。彼の経歴のそのままを見習い、肯定することはできませんが、近年日本人がややもすると内向きになり、ガラパゴス化するような傾向に対し、野口のような生き方は国際人の一員として生きていく将来の若者の指標になるかと思いました。