すかんぽと百花譜

木下杢太郎は昭和20年終戦後、まもなく亡くなりましたが、最晩年まで執筆、描いていたのが、「百花譜」であり、「すかんぽ」でした。百花譜については以前、書いたことがありますが、すかんぽのことは今回はじめて知りました。
木下杢太郎絶筆原稿としてその原稿のコピーが展示してあり、病床にありながら「雑草食」に並々ならぬ思いを注いでいたことが偲ばれました。敗戦の色濃いなかで、自らの命のそう長くないことも認識していたと思われますが、日記に託し、色々な時勢への思いを吐露し(声高に言えないまでも無謀な戦いに導いた軍への批判、戦争とはいえ市民をも殺戮するという米軍への批判などが戦況記述の合い間に垣間見られる)、自らを慰めていたのでしょう。それだけでなく、戦時下の食料難をなんとかしたいという強い思いがあったのを今回の展示をみて知りました。
「すかんぽ」には杢太郎は幼少時より馴染みがあり、一寸齧ってみて酸っぱかったり、父に教わって握り飯の味噌で食べたり、というエピソードもあります。そういえば「土手のすかんぽ、じゃわさらさ・・・」という北原白秋の童謡がありますが、ひょっとしたら杢太郎からの話を聞いて発想したのかな、とも思いました。
杢太郎の没後、杢太郎記念館機関紙の名前は「すかんぽ」と命名され、今は杢太郎会会報として続いているそうです。