太田正雄のエピソード(1)

主に皮膚科医としての太田正雄のエピソードを経年的にみてみました。
🔷幼少時
明治18年(1885)静岡県伊東市で生まれる。後年姉たけ子は大阪毎日新聞に「今日では兎も角博士になりましたが、小学校の頃はもう学校が嫌ひで嫌ひでどうにも学校に行って駄々を捏ねるもんですから私などよくあれをおんぶして連れていったものでした。それでも「学校に行っても目を瞑ってゐるよ」と申し、そりゃどんなことをしていやうと勝手だと申しますとほんとに目をつぶってたきりで永いこと皆を弱らせたものでしたの」と述懐している。それでも成績は優秀で高等小学校では首席で級長も務めた。
幼少時は兄姉などの影響で多くの本に親しんだ。
🔷高等学校以前
太田家は彼を医者にする目論見であったが、本人は文学や美術が好きで画家になりたかったが、自分より絵のうまい親友の山崎春雄が画家にならず、医学を志したこと、姉きんの画家への強い反対もあり第一高等学校第三類、すなわち医学コースに進んだ。
🔷高等学校
一高時代はドイツ語の岩元偵先生のゲーテの「イタリア紀行」の講義に感銘し、在学中に「明星」「パンの会」などで活躍し、ニーチェ、トルストイ、ゲーテ、ツルゲーネフなどを読み文学部志望との間に揺れる時代であった。
「・・・われは今医業の潮流にあるものなり、されどわれに何となくいやなる気持ちす。而して之に対して、対象を文学にとらむとせり、これはわれに、人のとるべき道なりといへるが如き気持ちす。・・・」
さらに「・・・われの嘗つて-昨年三月頃に於て-迷へりしはわれの医業たらむか画工たらむかの疑なりき、その時決せざりし医の業は、われの嫌ふ所、われの恐るる所、わが主張に反する所なり、画工たるはわれの好む所、其職業はわれの崇ぶ所なり、・・・}とも述べている。
また別の所では自分は国家力の競争、人種間の闘争に価値は見いだせず、軍人、役人には決してならないだろうこと、また医師は数人の病を医するのみで、数人の全癒は我一生の目的かと自問し、自分の進むべき道は文学とまで述懐する、その一方で画業への未練も綴っている。才能に溢れた若き日の太田正雄のある種青臭い青春の悩みのようであるが、これは若き日だけの悩みではなく彼の人生を通した基調となっていくものである。
後年、彼が40歳の時、「一高時代の回顧」という随筆にその思いが凝集されている。
「・・・その三年の生活をいまなほ感謝してゐる。わたくしの自然及び人生に對する眼を當時の恩師及び先輩が直接間接に開いてくれたからである。中に就てわたくしは岩元教授から受けた多大の薫陶を銘意する。多勢の學生の不平にも拘らず、一箇年間にゲエテが伊太利亜旅行三分の二弱を読に了しめた事は實に先生であった。わたくしも分相應にゲエテの気像を感知することが出来た。現にわたくしが人生に處して、心常に平なるを得るは先生から植ゑつけられた多少の読書癖に由るのである。」
🔷東大医学部皮膚科入局の頃
大学生の数年間を、パンの会において、Strum und Drang時代を過ごした杢太郎であったが、卒業後の進路については迷っていた。私淑する森鴎外に相談したところ生理学を勧められた。しかししっくり来ず精神病学はどうかと再び相談するも余り共感を示されなかった。そのうち「土肥君などは教授のうちの最も教授らしい教授だ」といわれ、それも影響して土肥慶蔵主催の皮膚科黴毒科教室に入局することになったようだ。後年東北大学時代に当時のことを振り返り「土肥先生は笑いながら、その男は卒業のときあとから算へる方が早かった。何が出来るかときくと畫がかけるというので醫局に入れた。その後は予期に反したと云ったといふ。・・・」一方で「U氏(衛生学教室で細菌学実習で杢太郎を指導)が杢太郎を知っているかと尋ねたところ、”例年入局は漫然と卒業席次に依って決め、特殊な才能を問題にすることはない。太田君は文芸に限らず多彩な才能を持ち、稀にみる天才的人材である”と答えた」とある。
当初は文芸にふけり、試験日も忘れて再試験を鴎外先生に懇願するも果たせず留年するなどあまり好ましくない学生とみられていた節もあるが、すぐにその実力に評価を替えたというところであろうか。
入局後は、午前は外来に、午後はサブロー真菌培養器と顕微鏡を机上において、真菌を鏡検して写生するという日課であった。その顕微鏡像は限りなく美しく見え、この時間が最も楽しかった、と述べている。
🔷満州から欧州留学へ
南満医学堂教授への赴任は土肥教授の提案であったが、東京での誘惑と雑音の多い生活から離れて静かな自省の世界への願望もあったようである。「所詮わたくしは本来在るべき所に帰着したのである。」と。5年の満州生活を辞し、朝鮮、中国を旅し、10月帰国、翌年5月には欧州留学へ旅立った。アメリカ、キューバ、ロンドンを経てパリに落ち着いた。彼は獨協出であり、欧州の概念の8割方がドイツであったので当初はフランス語に苦労したらしい。暁星やアテネ・フランセの仏語やサブロー博士の著書などでは太刀打ちできなかったらしい。それでもサブロー博士の指導を受け、徐々に慣れていった。サブロー博士にやや反発しながらも真菌の分類に新境地を開き、のちにフランス国からレジオン・ド・ヌール賞を受賞したことはすでに前編で述べた。
🔷県立愛知医科大学時代
正雄は帰国後は、伝研で癩、真菌、皮膚科の研究をやりたかったようだが、土肥慶蔵の鶴の一声や愛知の山崎学長の懇請によって、愛知医科大学に就任した。上司の土肥慶蔵との書簡のやり取りをみると、慇懃な手紙ながら正雄があまり土肥に相談、連絡を密に取らなかったことへの不興の様子が見て取れる。妻をはじめ、親戚などは定職を斡旋してくれた土肥に感謝し、御任せなさい、という態度であったが、正雄自身は自分の将来への思惑とはややずれを感じながらの赴任であったようだ。そして名古屋での2年は「申し分なき厄年相味わひ候」ということになる。借家は大学から遠く、床もがたがたであった。赴任後2年目には虫垂炎となり、長期入院あげくに開腹手術、その間、兄圓三(永代橋を設計するなど優秀な建築家であった)は復興院での疑獄事件に巻き込まれ、無実ながら心労のため自死してしまった。しかし厄年の暗闇にも蕉門の俳諧に目覚め、同好の士と連句会を催したりしている。半年にも亘る療養生活にも別れを告げて10月からは東北帝大の教授として旅立って行くのであった。
その送別会での発句には「よき酒のされども秋の別れ哉」とある。太田を師と仰ぐ医師の谷本光典は後に先の句を評して「うまい発句である。杢太郎にとって厄年の闇黒に、一抹の明りがさしたのは俳諧の窓だけであった、じんと心にしみる句である」と評した。

下記の随想よりの抜き書きですが、具体的な号数は省略します。

随想 「杢太郎」落ち穂拾い 上野 賢一 皮膚科の臨床 51(1)2009~55(4)2013

随想 太田正雄/木下杢太郎 世界的で、人道的で 小野 友道 皮膚科の臨床 55(5)2013~59(3)2017