千葉県医師会医学会

11月3日、文化の日に千葉県医師会医学会第17回学術大会が開催されました。今年のメインテーマは「医療の進歩と人の尊厳」でした。運営委員の末席をけがしている身でもあり、午後の公開シンポジウム、県民公開講座を聴講しました。
ただ、普段は皮膚科のことしかかかわらないので新鮮な驚きとともに、これからの日本はどうなっていくのだろう、と深く考えさせられる意義深い講演でした。

前半のシンポジウムは最新の医療の進歩。
「最先端医療支援ロボットの現状」 九州大学 橋爪 誠 先生 
いまやコンピューター外科手術の技術革新は目覚ましいというか、凄まじい進歩があります。手術支援ロボット「ダヴィンチ」のシステムは年々進歩を続けているそうです。
スーパーコンピューターが自動で切開、自動縫合し経験の少ない外科医でもベテラン並みの高度な手術ができるようにもなるそうです。びっくりしたのは、日本からの操作で、韓国や東南アジアの機器を遠隔操作、手術もできるということでした。また皮膚を傷つけない外科手術も進歩しつつあることも驚きでした。ヒトの本来の穴、口、肛門などから内視鏡を入れて手術をする方法です。口から管を入れて、腹腔を通り虫垂の切除手術をするビデオは驚きでした。皮膚には全く手術痕はできません。
究極的には外科医は人工頭脳を持ったロボットが手術をするのをそばで見ているだけで、手術が完了するのも可能とのことでした。
「ゲノム情報・ゲノム修飾情報とがん医療」 千葉大学 金田 篤志 先生
いまや素人でもヒトゲノムDNA情報が解析されたり、その異常によって癌が起こることは知っています。その研究の進歩も日進月歩で、遺伝子レベルで個人の癌になり易さ、予防、その人に合ったオーダーメイドの分子標的薬などの作成が可能になってくる時代がすぐそこまでやってきているそうです。
「ビッグデータと医療」 千葉県病院局長 矢島 鉄也 先生
レセプト情報・特定健診等情報データベース(ナショナルデータベース)を元にしたビッグデータを活用することによって、疾患のリスクを早期に発見して、成人病などの発症を予防して脳卒中や認知症や寝たきりを減らすことが期待されています。ビッグデータと個人の健診データとを照らし合わせることによって、個人の健康維持、疾病の重症化を予防することも期待されています。

後半は上記のようにいかに医療が進歩してもヒトには寿命があること、いずれは人生の終末を迎えることを避けることはできない、という厳粛な事実を終末医療の現場に携わっている医師による講演によって再認識させられました。

「癌と共に穏やかに生きる」 五味クリニック 五味 博子 先生
癌は身内からでたもので、全くのよそ者ではない、いわばたちの悪い親戚といったもの、との説は成程と思いました。完全に縁を切れればそれで良し、どうしても縁を切れないときは何とかうまく付き合っていくしかない、と。
癌の末期や老衰などの終末期に胃瘻や経鼻チューブから人工栄養をすることは延命にはなっても誤嚥性肺炎や褥瘡を作りむしろ非倫理的であるとの認識は欧米から20年も遅れているとのことです。
在宅医療の長年の経験から穏やかな旅立ちは病院よりも家族とともにある自宅での方がより満足度は高いこと、在宅で安らかな穏やかな看取りを多くみてきたことなどを話されました。
「「超超」高齢社会時代の医療 最期まで自分らしく生きる」 三和病院 高林 克日己 先生
日本の人口は江戸時代までは2,3千万人とほぼ横ばいで、明治以降爆発的な増加をきたしました。そして近年そのピークは過ぎ、減少に向かっています。このことは誰でも知っていますが、そのカーブはいわば我々はジェットコースターのピークの直下にあるのだと例えられました。我々日本人が頑張って長寿世界一を果たしたことが、皮肉にも超超高齢社会の状況を作り出しました。この状況は欧米先進諸国ですら経験しない日本が唯一の国とのことです。誰も経験したことがない未来に対処していかなければならないのです。増え続ける高齢者に常に三次救急の高度医療が求められているわけではありませんし、高齢者自身も本当にそれを望むわけではありません。しかし、現実には家族が救急車を要請すれば、三次救急病院へ搬送され、救急延命措置を受ける、というルートが確立しています。これからは高齢者自身が事前指示書を書き、それが適切に生かされて無理・不要の救急措置を受けることのないような法令化が必要とのことです。ただ、逆に高齢者の切り捨てに安易につながるのは避ける必要があります。医療は無理な延命治療ではなく健康寿命を伸ばすことを努力すべきとのことでした。
「平穏死を受け入れる」 芦花ホーム 石飛 幸三 先生
人生の前半は消化器外科医、そして血管外科医として多くの業績をあげ、頸動脈内膜剥離術、野球ピッチャーの血管損傷の手術法の発展に寄与してきた人の言葉だけに重みがあります。
多くの人は人生の最期には、病院で管だらけになって死ぬのは嫌だといいます。しかし、身内の最期が来ると救急車を呼んで病院に送ります。最愛の人に1分1秒でも長く生きていて欲しいと思う心はよく分かります。しかし、人は人生の最期になると衰えて必要な水分や栄養の量はどんどん減っていくのです。入れない方がむしろ穏やかに逝けるのに無理に入れるのです。点滴でじゃぶじゃぶにして、胃瘻から無理やりに栄養補給をすれば、命は永らえられます。しかし、誤嚥性肺炎を起こし、褥瘡を作り、手足を縛られて延命治療をすることは意味をなさない、むしろ苦しめているだけなのです。
そうであれば、無意味な延命治療をしなくても責任を問われるべきではないという社会の通念を広げるべきであるということを主張されています。そして穏やかに看取ることを「平穏死」という言葉で表しています。
ちなみに明治の古い時代にできた刑法268条、269条ではいまだに生きていて「生存に必要な保護をしなかった時は3月~5年以下の懲役に処す」となっているそうです。

医療の目覚ましい進歩にも目を丸くしましたが、むしろ深く心にしみ込んだのは後半の部でした。
医者としてよりも、一人の老いていく者として待ったなしの対応を迫られているのを実感しました。
日本はこれからどこの国も経験したことのない海原に個人も、国全体も漕ぎ出していくのだ、それを全世界の人々が注視していることを痛感しました。
数十年前は病院での看取りが2割、在宅が8割だったそうです。それが今や逆転しています。これから先の人口動態や医療財政、施設数などを考えると在宅へのシフトが必然となってきます。認知症への対応や老老介護の問題など高齢者社会への問題は山積です。