日本アルプスの登山と探検

本書は日本近代登山の師とも呼びならわされるウォルター・ウェストンの若き日の日本アルプスの登山記である。
ウェストンは1861年にイギリスで生まれ、宣教師として1884年に来日した。1894年に帰国したが、これはその時期の紀行文である。その後、1902年新婚のエミリー・フランシスを伴い再来日、1905年まで聖アンデレ教会の司祭として横浜に居住した。さらに1911年から1915年まで三たび来日し、横浜に居住した。
本書は1896年英文で上梓されたが、それから7年後に横浜の岡野金次郎という青年がこの本を偶然手にし、心臓が止まるばかりに驚いた。散々苦労してこの夏登ってきたばかりの槍ヶ岳の写真までも写っていたからである。
このことが小島烏水に知らされ、後にウェストンとの交流から日本山岳会への設立へと繋がっていったそうである。
彼は英国山岳会にならった団体を日本にも作るように勧め、帰国後も様々なアドバイス、激励の手紙を書いたとのことで、日本近代登山の師と仰がれ、毎年ウェストン祭が行われるのも頷ける。
しかし、この本ははただ一人の山好きなイギリスの青年の異国での見聞録で、後世の評価のような大層な目的のための書でも、日本人に向けての書でもない。その分純粋な山への情熱が伝わってくるし、率直な当時の日本への感想も知ることができ興味深い。内容について個人的な思いも含めて書いてみたい。

まず感じるのは当時の日本と英国の山登りに対する認識の違いである。日本ではまだ個人の楽しみ、趣味としての登山という概念は一般にはなかったようである。従って、彼は行く先々で何のために山に登るかと訝しがられる。銀や銅などの鉱物が目的か、何か宝物でも探すのか、といった具合である。
また、当時の中部山岳地帯の景観、地元民の生活、風習などが事細かに活き活きと簡潔に記されている。決して美文調ではないが誇張のない実態が浮き彫りにされている。
「僕が、あえて詳細な旅行記を書いたのは、その土地のほとんどが、人に踏み慣らされた道をはずれて、事実上世に知られていない土地へ足を踏み入れたからである。そこには、典型的な日本の風景とは少しも結びつかぬ雄大で野生的な景観があった。また一方、手厚いもてなしを受け、頗る楽しい交際を結ぶことのできた農民たちの間に伝わる、昔ながらの風習や迷信も、それなりに注目すべきものである。」と書かれている。

彼の紀行文を読み進めると、風景や風習のディテールへ良く注目していることがわかるが、それにも増して広い山域を大掴みに捉えていることもわかる。山頂から四方に眼を向けて遠望を捉えていて、岩の質、種類についても記述があり、地学の素養が感じ取れる。
紀行は碓氷峠越えから軽井沢、浅間山登山に始まって、槍ヶ岳(試登)、木曽駒ヶ岳から天竜川下り、乗鞍岳、そして念願の槍ヶ岳登頂と続く。さらに赤石岳、針ノ木雪渓から峠越え、上条嘉門次との前穂高岳登攀、5月の富士登山、恵那山から天竜川下り、白馬岳、そして、地元民の迷信に妨げられつつやっと登った笠ヶ岳、常念岳、そして御岳と書き進んでいる。
彼の紀行を通して、当時の日本の交通機関や道路事情もよくわかる。当然のことながら、文明開化間もない時期なので、鉄道は一部出来たばかり、地方までは伸びていず、鉄道馬車、人力車が多くなる。また道は貧弱で御者、車夫も慣れていない人も多かったようでいろいろと苦労している。むしろ歩いたほうがよかった所もあったようだ。ただ、一方で文明開化が急速に進み、古いよいものが壊されて便利になるにつれ、外国人擦れして、料金は高くなり、対応も良くなくなる傾向があることも嘆いている。
外国人を初めてみる人々の戸惑いや珍奇な物をみるような好奇心に当惑しながらも、一見教養のない田舎の人々でも少し接してみるととても礼儀正しく、親切で真の教養は特有の階級の専有物ではないと感心している。しかしまた一方でごまかしをしたり、知ったかぶりをして役にたたない案内人などにも触れていて人様々と感じる。
時間のルーズな事、運送便の遅さにも触れていて、日本には「時は金なり」という観念がないと述べている。現在の日本の正確、厳密な時間感覚からは想像もつかない。文明の発達というものは時間感覚を変えるのだろうが、当時はゆったりとした時の流れのままに生きていけたのだろう。
また文のあちこちで触れているのが、宿屋や山小屋での蚤の被害だ。日本への旅行者へのアドバイスとして必ずノミ取り粉を持参することと書いている。あと宿屋で辟易しているのが、夜遅くまで続くどんちゃん騒ぎと襖一枚しか隔てのないプライバシーのなさだ。こちらは現代でも当てはまる処があるのかもしれない。
彼は日本料理と温泉は気にいったようで登山の端々に記している。
彼の山行記録は実に淡々としている。客観的な事実が述べられていて取りたてて誇張もなく、すっきりした感がある。
針ノ木雪渓では「堅く凍った雪渓は、三十八度近くまで勾配がきつくなり、猟師たちは、雪渓を通るのを嫌がった。」
また、ガラ峠の先では「やがて、六十度も傾斜している赤土の斜面を横切らなければならなかった。」などと記述している。険しい岩場などではむしろその登攀を愉しんでいる様子がみられる。本場ヨーロッパアルプスでの岩登りや氷河を経験してきた彼にとっては日本アルプスでの岩場や雪渓も5月の雪の富士山も特に手強いものでもなかったのだろう。むしろ渓谷の岩の上に付いた苔でスリップし、草鞋の威力を知り、鋲靴に草鞋を重ねるなどの工夫をしている。
彼の一連の登山の中で、小生が最も興味をそそられたのは、上条嘉門次と一緒に登った前穂高岳の記録だ。嘉門次小屋を出て、前穂の東面から前穂高岳に登り、その日のうちに下山している。はっきりとルートは判らないが北尾根を登ったそうなので、5、6のコル辺りから登下降したのだろうか。(東壁~北尾根というルートをとった前穂高岳である、と訳注にあるが、まさか、現在の前穂東壁ではなかろう。これはもう本当の岩壁登攀になってしまうから)
この登攀のことも彼は「ここの岩は、ぼくが経験したどこよりも、嶮しく固かった。僕たちは、全精力を登攀に傾注した。それだけに極めて痛快であった。」と書いている。当時としては特筆すべき山行のように思われる。

この書は最初に書いたようにウェストンの第一回目の、若き日の山行の記録である。従ってまだ夫人も登場していないし、日本山岳会との交流もない。ましてや後年日本近代登山の師などと呼ばれることなど想像もつかないことだろう。また都合17年間も日本に居て、そこが第二の故郷になることも想像していなかったろう。
むしろ、後年のことを度外視して読むと、好奇心と観察眼にあふれ、温かみのある、本当に山好きな一人のイギリス青年が浮かび上がってくるように思われる。