宿縁 八月号 中原寺

 どんな時でも真ん中に人間がいてほしい

  絵画 
 【『叫び』  エドヴァルド・ムンク】

 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
年ごとに沸騰する厳しい暑さに辟易しています。
同時に日々報じられる国内外の動向(戦争、紛争、テロ、対立、排除、難民、貧困、詐欺、金融不安等々)に生きる限りの困難さを実感します。目を覆い耳を塞ぐノルウェーの画家ムンクのあの名画「叫び」そのままが人間の姿なのかと思わずにおれません。
 そんななかにふと口について出たのが冒頭の松尾芭蕉の有名な俳句です。門弟曽良を伴い江戸千住から出立した奥の細道の旅。やがて出羽の国の山寺立石寺についた時に詠んだ発句です。
 「この山寺の静かなことよ、岩に沁みこむように蝉の声が聞こえてくる」
 立石寺は人里離れ、世間の喧騒を離れた山の上です。現在は眼下に仙山線の「山寺」という小さな駅がありますが、勿論芭蕉が旅したころは鉄道なんかありはしません。夏の暑さにあえぎながらも静寂の中にニイニイゼミの岩に沁み入るような声があったのでしょう。目を閉じてその声に聞きいった情景が時空を超えて偲ばれます。
江戸時代に始まった俳句は、現代に至るまで多くの俳人が様々な情景や心情を詠んで受け継がれています。でも正直なところ最近のテレビ番組などでやっているのを見るとだんだん素朴さが感じられず、上手さを競う形になっていて抵抗を感じます。
 俳句も歌もなにげなく口ずさむことができるところに親しみを感じ、現実の疲れからふと解放される大切な空間を埋めてくれるものだと思います。
 わが青春時代、1960年代、70年代頃はフォークソングがはやりました。
 その頃日本の若者たちは、当時の社会情勢に反発し、自由を求め、フォークソングに熱中しました。
 1973年、南こうせつとかぐや姫が歌う「神田川」がヒットしました。中高年には今でも歌い継がれている、あるがままの良さを感じさせる詞だと思います。
 ♪貴方は もう忘れたかしら 
 赤いてぬぐい マフラーにして
 二人で行った 横丁の風呂屋
 一緒に出ようねって 言ったのに
 いつも私が 待たされた
 洗い髪が 芯まで冷えて
 小さな石鹸 カタカタ鳴った
 貴方は私の からだを抱いて
 冷たいねって 言ったのよ

 若かったあの頃 何も怖くなかった
 ただ貴方のやさしさが 怖かった

 貴方は もう捨てたのかしら
 二十四色の クレパス買って
 貴方が描いた 私の似顔絵
 うまく描いてねって 言ったのに
 いつもちっとも 似てないの
 窓の下には神田川
 三帖一間の 小さな下宿
 貴方は 私の指先見つめ
 悲しいかいって きいたのよ

 若かったあの頃 何も怖くなかった
 ただ貴方のやさしさが 怖かった♪

 この名曲誕生の秘話を南こうせつさんがある紙面で次のように語っています。
 「当時の時代の流れとして、ベトナム戦争があって、今のロシアとウクライナもそうですけど、大義名分のない争いになって、アメリカの若者たちが戦争に取られてしまうのです。日本でも沖縄から戦闘機がナパーム弾を積んで出ていくんです。それに対して、アメリカの若者たちは、反戦の歌をいっぱい、メッセージとして歌っていました。われわれも歌っていましたが、過激な人たちは『戦争をやめろ』と、デモをして、それが70年安保闘争と一緒になって、若い人たちが手を挙げていきました。時代が変わって、それが封じ込められて、純粋に新しい世界を創るんだと言って手を挙げていた若者たちが、内部抗争を始めるんです。そこで『フッ』とため息をつくような空白のときが二、三年できるんです。そんなときの『神田川』でした。あの詞を書いたのは喜多條忠で、彼も早稲田の学生で、ヘルメットを被って、機動隊に石を投げていたんです。その彼が週末同棲をしていて、三帖一間の部屋で何もなかったような平和な時間を過ごし、彼女が用意してくれたカレーライスを食べるんです。時が止まったような、その空白のような時を書いたようにおもいます。」(御堂さん8月号対談)
 人間は何か世相の矛盾を感じて、行動的になるときがあります。そしてまた「フッ」とため息をつくような空白を覚えます。持続出来ない人間の弱さというものでしょうか。
 しかし一瞬の間に安らぎを感じ、身近にあった大切な宝に潤わされるのです。
 身近なものの存在は意外と気づかないのが私たちです。
 『南無阿弥陀仏は、かげとかたちとのごとくにて、よるひるつねにまもるなり』と、親鸞聖人は教えてくださいます。