宿縁 九月号 中原寺

    「自分の足で歩くことの大切さを知る」

 八月末を第一回として「心を整える会」がお寺の新しい行事として始まります。
 まだ朝の静けさが残る十時から本堂で読経、座禅(静座)、写経といった体験を通して日頃の疲れた心を整えようとする空間です。
 考えてみると今の時代を生きる私たちは、朝から晩まで、いや寝ていても頭が休まらない日々に追いまくられています。
 インターネットやSNSなどの普及による情報過多社会といわれる今日、誰もが落ち着いて生活をすることができなくなりました。社会生活を営む私たちは、たしかにどう生活すべきかの種々の情報は大切ですが、人間は情報を与えられ過ぎると何もできなくなるといいます。
 こうしたことから考えると、情報を知ることによる利点より次のようなデメリット(欠点)に心がけていなければなりません。
①本人の同意がない個人の情報が洩れる
②いじめや嫌がらせを受ける危険性
③情報依存症になる
④情報の拡散が早いので誤解や混乱が生じる
⑤精神的ストレスを生む
等、と言われています。
 そこで、情報化社会の時代に乗り遅れないようにと思うより、私たちにとって大切なのは生きることの真の意味を自ら見出す道を発見すべきではないでしょうか。それが仏道です。仏道は世間のとめどない不安とストレスから解き放たれる世界です。
 親鸞聖人の生きられた時代はおよそ八百年前です。その頃から見ると私たちの時代は生きやすくなったのか、生きにくくなったのか?を考えてみましょう。
 便利さや物の豊かさ等からの幸福度の比較からではありません。
 人として生まれ生きる意味を教えてくれた親鸞聖人のご生涯を思うとき、比叡山での御年九歳から二十九歳までの二十年間のご修行はとても大きな意味を持っているのだと思います。ご自身はこの時期のことには少しも触れておられません。しかし妻の恵信尼さまの遺されたお手紙によると、
 『聖人(親鸞)は比叡山を下りて六角堂に百日間こもり、来世の救いを求めて祈っておられたところ、九十五日目の明け方に、夢の中に聖徳太子が現れてお言葉をお示しくださいました。それで、すぐに六角堂を出て、来世に救われる教えを求め法然上人にお会いになりました。そこで、六角堂にこもったように、また百日間、雨の降る日も晴れた日も、どんな風の強い日もお通いになったのです。そして、来世の救いについては、善人にも悪人にも同じように、迷いの世界を離れることのできる道を、ただひとすじに仰せになっていた上人のお言葉をお聞きして、しっかり受け止められました。ですから、「法然上人のいらっしゃるところには、人が何といおうと、たとえ地獄に堕ちるに違いないといおうとも、わたしはこれまで何度も生まれ変り死に変りして迷いを続けてきた身であるから、どこへでもついて行きます」と、人がいろいろといったときも仰せになっていました。』(「恵信尼文書」現代語訳)
と、親鸞さまのご臨終を看取られた末娘の覚信尼さまへのお手紙が発見されています。
 比叡山は標高848mで今から千二百年前の延暦二十五年に伝教大師最澄によって開かれた天台宗のお寺です。人里から遠く離れたこの山は当時から仏教のメッカとして仏道を学び修行して悟りを開こうとする出家者の聖なる場でした。ここに親鸞聖人は二十年間、常行三昧堂の堂僧としてひたすら止観行に励まれたようです。
 私は二度(真冬と秋)、親鸞さまの足跡にふれたいと比叡山を訪れました。今は道が切り開かれ観光化されていますが、さすがこの常行三昧堂付近の真冬の佇まいは深閑として凍てつく厳しさを身に感じるものでした。
 親鸞さまはここで下界の世界(世間の情報)から遮断された二十年間を過ごされたのです。御仏を仰ぎ自らを省みてひたすら仏道への修行に励まれたことでしょう。
 しかしまったくその間情報が途絶えていたわけではないような気がします。
 やがて生涯の師と仰ぐ法然上人とは四十歳の違いがあります。かつて法然上人もここ比叡山で出家し仏教を学びますが下山し、四十三歳のとき、「阿弥陀仏を信じ専ら念仏を唱えれば、善人も悪人も平等に浄土に往生できる」との教えに確信を持ち、東山吉水の草庵でその教えを説く法座には多くの民衆が訪れている、という情報は親鸞さまの耳に入っていたのではないかと思います。
 そのような状況のなかにある親鸞聖人の姿は『修行すればするほど、自分の煩悩の火はますます燃えるばかり、どれだけ心の中にきれいな月を見ようと思っても煩悩の雲がその月の前に立ちはだかって、私の心をおびやかす』(「嘆徳文」現代語訳)とおっしゃっています。
 ここでお分かりになるでしょうか?
情報は自分でしっかりと確かめることです。
情報はいろいろなことを伝えてくれますが、あくまで自分の責任において確かめることを教えてくださっています。