わが触れし岩膚

アンドレア・オッジョーニ  わが触れし岩膚  若きアルピニストの手記  横川文雄 訳  白水社

同年のワルテル・ボナッティと共に、戦後アルピニズムの輝かしい歴史を飾る不世出のクライマーの一人。1961年7月16日、30歳の若さであのモンブラン・フレネイ中央稜で亡くなった。最期に連れ添ったのはかの有名なワルテル・ボナッティ、ピエール・マゾーらだった。この悲劇は10年後マゾー等の手によって映画化された。マゾーはその後フランスの政界に進出し、大臣など重鎮として活躍した。
オッジョーニのことを知ったのは、街の山岳会に入会して小生のお師匠さんともいえる今は亡きT氏がオッジョーニ命だった人だったからだ。山では自分のことをオッジョーニと呼び、我々にもそう呼ぶように仕向けていた。常にザイルのトップが好きで、自らも小柄だった彼はオッジョーニに自身を投影していたのかもしれなかった。
アンドレア・オッジョーニはミラノ郊外のモンツァに生まれた。10代の頃から見よう見まねで岩登りを始めた。最初の岩登りはザイルの代わりに洗濯用のロープでの懸垂下降だった。モンツァの岩登りの一員となり、知り合ったヨズヴェ・アイアッツイがザイル・パートナーとなった。ほどなくしてワルテル・ボナッティと知り合ったが、最初は彼は山登りのことは全く知らなかった。しかし誘って山に行くうちにクライマーとして非凡な才能を表しはじめた。
そしてドロミテ山群の5級、6級ルートも楽にこなせるようになっていった。クロ・デッラルティッシモ南壁を攻略した彼は偉大なカシンが初登攀したピッツ・パディレ北東壁に挑み粗末な衣服と装備で雨と嵐の難壁を登り切った。勢いづいてモンブラン山域に向かった。たまたまワルテル・ボナッティと出会い、グランド・ジョラス北壁ウォーカー・バットレスのイタリア人第二登を狙うことになった。フランス人ガイド達の懐疑的な奇異な眼差しを受けつつも、わずか19歳ながら粗末な装備で北壁の第ニ登を成し遂げた。次はカシンの三大ビッグ登攀の残りともいえる西ツィンネの北壁に挑んだ。そしてアイアッツイと嵐のなかを完登した。
彼の山歴を顧みるときワルテルとのそれとは切り離せない。というのも始まりも最期も彼と一緒で、イタリアの、いや当時の登山界の先頭をきっていたクライマーといっても過言ではないからだ。ただ、中間の時期はやや距離がある。ワルテル・ボナッティはK2,ガッシャブルムⅣ峰の遠征隊に参加しているが、オッジョーニは希望しながらも選出されていない。彼は不満を述べている。「K2では完全に無視された。理由を問うといろんな噂が耳に入って来た。曰く、『彼は西部アルプスの山男でははい、長途のキャラバンは無理だろう、イタリア代表としてはあまり綺麗ではない、恰好よくない(?)』等々。いずれも正当な理由とも思えない、と」。1955年にはボナティがドリュ南西岩稜を単独初登攀したが、試登はアンドレアも共にしている。成功の報をラジオで伝え聞いて彼は祝福しながらものけ者にされたような複雑な気持ちを吐露している。一方でワルテルはこの登攀はK2で受けた屈辱的な事態(わが山々へ、参照)に対する「一種の買戻し行為だ。抗議だったんだよ。」と述懐している。両者の微妙な立場のズレを感じるエピソードでもある。
そういったこともありながら、彼は南米ペルーの個人的な遠征隊の一員として6000メートル級の初登攀をいくつか成し遂げ、帰ってから岩と氷のモンブランに向かっている。そしてクールマイユールのボナティを訪ね、多くの登攀をなし、さらに1961年6月には二人とも南米ロンドイ北峰に遠征し成果をあげて帰国した。
そして事態はその直後の7月のモンブラン・フレネイ中央稜への悲劇と暗転するのだった。
 この本は彼の遺稿と追悼からなっており、彼の山への情熱、達成された山行の数々は素晴らしいのだが、記録集としての日時、明確な行程などはなく、いささか読みにくくもある。やや長くはなるが、本書を翻訳した横川文雄氏が優れた、明確な訳者あとがきを書いておられるのでそのまま転載します。

本書はLe mani sulla rocia(1964)の全訳である。著者アンドレア・オッジョーニは、現代イタリアを代表するアルピニストの一人で、わずか三十歳という若さでこの世を去った名クライマーである。ドロミーテンにある第六級の岩壁やモン・ブラン山塊、あるいは、アルプスの全域にわたって、幾多の輝かしい登攀を行ない、新しいルートをひらいた。また、ペルー・アンデスにも遠征して、いくつもの6000メートル峰に初登頂している。
 「日記」といっても、正確には、不慮の死を遂げるときを自ら予感して、後進のために書き遺した「手記」なのだが、これはそのまま、近代アルピニズムの記録文書であるともいえよう。まことに、模範的な登山家の生涯をつづる記録である。
 農家に生まれ、イタリアのモンツァにある製油所に働く機械工アンドレア・オッジョーニが、資格審査のなかなかきびしい、尖鋭的なイタリア山岳会に、若くして受け入れられたのは、そのすぐれた登攀技術が認められたことはいうまでもないが、そのうえ、彼の素朴で質実な、気取りもなければ、少しの衒うところのない人柄が高く評価されたからだろう。
さらに驚くことは、二十歳になるかならぬオッジョーニが、じつは独学で、アルピニストとしての技術を完璧に自分のものにしていたことである。
 十八歳で初めてグリーニャの岩場にでかけたとき、ただ山への限りない情熱と物干用のひもだけが彼のもつ全装備だったのである。やがて、十年という歳月のなかで、彼の夢は次々に現実のものとなり、またアルピニストとしての精進が重ねられていった。そして、円熟した技術と鍛えた鉄の意志をひっさげて、三十歳の夏、モン・ブラン山塊にある未登のルート、フレネイ中央バットレスに果敢な闘いをいどみ、あとわずか八十メートルの岩場を越えれば上に出られるという地点で、まれにみる苛烈な嵐に襲われ、寒冷の吹雪のなかで、一九六一年七月一六日、短いが充実した生涯を終えたのである。
 すでに世界的に有名な登山家ワルテル・ボナティは、オッジョーニにとって無二の親友である。最初ボナティを山に誘ったのは、むしろオッジョーニのほうで、いわばオッジョーニはボナッティの先輩なのである。ボナッティは大自然を師と仰ぐ、きわめて穏健な思想を持つスポーツマンである。そのボナッティと終始行動をともにしたオッジョーニも、健康で誠実で素朴な思想の持主だったことはいうまでもない。
 この二人は、十九歳という若さで、粗末な装備を山への熾烈な情熱と激しい気魄で補うと、一九四九年にグランド・ジョラスの北壁におもむき、ウォーカー・バットレスを登り、彼らの輝かしい山歴の門出を飾った。やがて、アルプスで腕をみがいた二人は、遠くヒマラヤ、あるいは、ペルー・アンデスの未登峰の頂にその足跡をしるしたのである。
 そして、この海外遠征の直後、オッジョーニにとって不幸な遭難の日がやってきたのである。オッジョーニと最後まで行動をともにし、またその死を見守ったフランスの登山家ピエール・マゾーは、奇跡的にこの遭難から生還した一人だが、死を覚悟しながら毎夜零時に書きはじめた日記を、後日ドイツの山岳誌『アルピニスムス』に発表した。マゾーの日記は、真の山男たちが自分たちの出会いを尊いものと感じ、己をむなしくしていかに友愛の美しい証しを立てたかを、あますところなく伝えて、読むものの心をつよく打たずにはおかない。そして、その日記のなかでマゾーは、オッジョーニのことを次のようにしるしている。
「・・・・二時十五分、アンドレアはぼくの腕に抱かれて亡くなった・・・・
アンドレア・オッジョーニ、きみの名前は、ぼくにとって一つの象徴だった。きみの名前は、ボナッティの名前と切り離しては考えられない。二つの名前が一つになってはじめてほんとうの名前といえるのだ。また、きみの名前とブレンタの凹状部やモン・ブランの南壁とを離して考えることもできない。君は死んだ。なぜだ?それは、ぼくたちを助けようという心からなのだ。しんがりを引き受けて、みんなが早く助かるようにと、きみは全員を前へ前へと促した。アンドレア、きびしいが、同時に言いしれぬ穏やかな表情を浮かべた小柄なきみが、永い眠りにつくところを、ぼくは目のあたりに見たのだ。そしてきみは、死ぬことがなんでもないということを教えてくれた・・・・数々の思い出、しばしの祈り、そして、人間は消えてゆく・・・・」
短い生涯だった。しかし、アンドレア・オッジョーニが、その十年にわたるアルピニストとしての活動を通じて、身をもって実践してきた、人生への、素朴で謙虚な、しかも果敢で明朗な態度は、若い世代にいろいろと示唆するものをもっていると思う。
一九六九年九月 横川文雄