「山靴の音」 芳野満彦 著
大分前に、この本についてブログに書いたことがあります。しかし、ある時ブログに不具合が生じ、ダウンしてしまいました。知人に回復してもらったのですが、それでもある期間の記事は回復不能に陥ってしまいました。その中にこの記事も含まれていました。
皮膚科の記事はあまり古びたものは、無くなっても惜しくはないのですが、山の記事は未練が残りました。それでまた読み直しで、再掲してみようという気になりました。
芳野満彦はウィキペディアによれば、下記のようにあります。
著書 『山靴の音』の初版は(朋文堂、1959年)
1931年(昭和6年)11月8日ー2012年(平成24年)2月5日 日本の登山家・RCCⅡの創立同人・画家。東京都荒川区日暮里生まれ。アルムクラブ所属
1948年(昭和23年)、早稲田中学2年の17歳のとき八ヶ岳の主峰赤岳で遭難して両足指をすべて欠くが、不屈の精神で登山を続けた。1957年(昭和32年)3月の前穂高岳Ⅳ峰正面壁積雪期初登攀など多くの初登攀を記録。
1963年(昭和38年)、大倉大八とともにアイガー北壁に日本人として初挑戦。
1965年(昭和40年)、渡部恒明とともにマッターホルン北壁の日本人初登攀を達成し、アルプスの岩峰への先鞭をつけた。
新田次郎の小説『栄光の岩壁』の主人公のモデルである。
一方で、画家としても活躍。
2012年2月5日、心不全のため死去。80歳没。
著者は1972年版の前書きで、「私は、この本を含めて今まで六冊の本を創ったけれど、やはりこの『山靴の音』が処女出版でもあり、十代後半から二十歳台の一番一所懸命に山を登り、また考え、書き、描いた時代のものだけに、私の青春を賭けた山々が大変なつかしく甦ってくる、・・・おそらく山の小説とガイドブック以外の本で二万部三万部と版を重ねた本などは五,六例しかないだろう?・・・・この『山靴の音』が自分でいうのもオコガマシイが、その五、六例のロングセラーズの末席をニゴシテいたと思う。」と書いています。
さらに、「当時の日本の登山界というのは、ようやく日本国内の未登の岩壁が登り尽くされて、積雪期の登攀に移りつつあった。勿論ヒマラヤにもボツボツと出かけるパーティーがあったが、今日のようにバリエーションルートからの登山というのはなかった。だから馬でも登れるような山やルートを選んでいた・・・・そのようなオーソドックスというか古い形式の登山が正統視されている時代に勇猛果敢?に積雪期の未登の岩壁を攀るということは白眼視されていた・・・・われわれは二十歳台の若さを誇っていただけに、オエラ方や古い考えの持ち主には強い反撥を抱いて、また行動した、山での行為が唯一の行動のように感じた。・・・・今の時代の人々に、こんなときもあった、こんな登り方もあった、こんな考え方もあったのか、ということを読みとっていただきたい・・・・ひとりのクライマーの記録や随想、そして稚拙なカットなどから何か得るものがあれば著者の私は大変、倖せだ・・・・」と締めくくっています。
著者がいうように若さからくる矜持とともに、青臭さと本の体裁の不揃いを感じる部分はありますが迸る山への情熱はひしひしと伝わってきて、まるでその場に引き込まれるかのような臨場感も伝わってきました。全部の感想は書けませんが、一部を抜粋して紹介してみたいと思います。
まず、はじめは「山靴の音」を始めとしたアンソロジー、そしてあの彼の運命を狂わせた八が岳での遭難の顛末の記録へと続く。
雪と岩の中でーー遭難
昭和23年12月19日、満彦と親友の八巻は松原湖の駅を出発し、稲子から本沢温泉を目指した。猟師らと囲炉裏の回りで寝て、翌日硫黄岳を目指した。猟師には硫黄だけ登って帰ってこい、と言われたが天気もよく先にすすんだ。(後日助けてくれたのはそのうちの一人だった。)お昼過ぎからどんどん風が強くなってきた。引き返そうかとも思ったが、赤岳の石室までは何とか暗くなるまでに行けるかと思い、先に進んだ。途中八巻がスリップしたが、事なきをえた。結局たどり着けず、荒沢不動の手前のやせ尾根でビバークした。ツエルトもシュラフもなくオーバーを着て毛布を頭から被った。
21日 吹雪の中、20~30分で石室到達。猛吹雪の中全力で赤岳頂上へ、わずか30分で到達した。あとは権現岳を越せば小淵沢へ出られる。固い握手をした。大キレットを一気に下り小休止した。ガスは酷く雪が深く夏道が判らない。林の中や尾根をさ迷った。八巻は前進を主張したが、満彦は石室に引き返すことを強調した。引き返して後、急に八巻は疲労を訴え、歩行が困難になってきた。赤岳と中岳の分岐辺りでビバーク。
22日 快晴、八巻は一歩も動けないといい、雪の這松の上に横たわっていた。夕方苦しみだして転げまわった。
23日 吹雪、 彼を背負って歩こうとするが、5,6歩と持たない。死を覚悟する。午後8時、苦しいと聞いたのが最後だった。満彦も深い眠りに落ちた。
24日 曇り、 八巻は5,6m下でこと切れていた。夏道が判らず赤岳の西面を攀じ登って夜になってやっと頂上に達し、ビバーク。
25日 晴れ、 石室付近ではもう歩く力がなく、四つん這いで石室に到達した。着の身着のままで倒れこんだ。
29日 晴れ、風強し、 本沢で会った猟師を先頭に叔父、兄達の救助隊が石室に入ってきた。翌々日稲子村の人々に背負われて救助された。
雪山を見つめてーー徳沢での越冬記録
それから2年後の晩秋、満彦は短くなった足をかばうようにしながら、徳沢園に入った。小屋じまいを済ませ下山する人々と交代に冬季の小屋番として。
「半年間の小屋番生活を顧みていちばんつらかったことというのは、なんといってもその日その日の夕暮れであった。ただ一人じっと雪の山々を眺め、山に逝った友を偲び、その冥福を祈るようにし静かに静かに前穂高の頂に陽が沈むや、一瞬にして暗黒の世と化す大自然、感傷も静寂も暗黒の渦に巻きこまれ、孤独と静寂とが風雪となって私に襲いかかってくるのだった。」
半年間の辛くも充実した日々を振り返りこう書いている。
「五月の一三日に徳沢園の人たちが小屋開きのために登って来た。翌日私は永い永い小屋番生活を終えて帰京することになった。
五月一四日(晴)
想えば長かった半年間、冬の無人の山地で過ごした半年間、雪の降りしきる初冬の夜半は静寂な世界に閉ざされ、ただ一面の氷雪原の中に孤独と寂寥とに支配され、また、吹雪、風雪が荒れ狂い、跳ね廻り、噛み合う厳寒の中に,飢えと闘いながら、永い永い春を待っていた。
やがて化粧柳の蕾もほころび、雪が融け始める。そして残雪に輝いた穂高の峻峰は朝な夕なにくれないに染まり、雪崩の咆哮を子守唄に昼寝の惰眠を貪り、雪の森林を彷徨し、氷と岩の山を攀り、凍結した川を、谷を渡り、ついに春が訪れたのだ。梓川の流れとともに里へ都会へと還り行くのだ。
雄大な穂高の峰々は静かに静かに私を見下す。ただ一人山を下り行く姿、重いザックを背に肩にかつぐスキーが大きくゆれる。一人の人間の過去とともに、半年間の最後のカッティング、釜トンネルのトラバースで大きくステップを切る。」
都合六年もの冬の小屋番生活を続けた満彦は不自由な足ながら技術を磨き、前穂高Ⅳ峰正面壁の初登攀へと突き進んで行く。
憧憬の氷壁ーー前穂高四峰正面壁
積雪期の穂高の最も大きな課題とされた四峰正面壁、友人の北村と狙いを定めて準備していたが、その彼が前穂の懸垂の事故で墜死してしまった。それから間もなく名古屋山岳会が四峰正面壁を狙っているとの知らせを受けた。弔い合戦の意味合いもあり同パーティーへの参加を願い、仲間に入れてもらった。後のアイガー北壁日本人初登攀を果たす高田光政などを擁する強力パーティーだった。その他にも狙っている数パーティーがあった。しかし、いずれも敗退していた。三月というのに吹雪は一週間近く続き、奥又白の池の端のテントに缶詰め状態だった。雪は深く名古屋のグループがラッセルを続け、夏の第二ピッチから岩場が始まった。巨大な雪庇で覆われたハイマツテラスでビバーク。吹雪の中をオーバーハング、雪壁を切り崩し夏の終了点近くの急な雪壁を切り崩してビバーク。満彦は何度か体が宙に浮き名古屋の方々の懸命な努力で引っ張り上げてもらったと述懐している。
最後の断面ーー北岳バットレス中央稜
東面の大樺沢側に高差600mに及ぶ大バットレスを持つ。戦前東京商大(一橋大学)小谷部全助らのパイオニアワークで開発、登攀され、最後の課題とされた中央稜も昭和23年に松涛明により完登された。だが、最後の砦、積雪期中央稜のみは昭和30年代初頭「積雪期登攀は不可能ということを再確認するのみである。」といわれていた。
昭和32年1月、満彦と日本山嶺クラブ・奥山章、紫峰山岳会・甘利仁朗、東京朝霧山岳会・吉尾弘、東京理科大二部山岳部・小板橋徹の混成パーティーによって完登された。混成に至った理由の一つが夏にフィックス・ロープが張られているというニュースだった。いずれも無関係だったが、これを巡ってライバルがついには一つの強力な混成パーティーとなっていった。
1月7日アタック開始。八本歯からトラバースしてCガリーへ。中央稜の大オーバーハングは一片の雪もなく、小さなツララが頭上に垂れ下がっている。身軽な吉尾がハングを越えていく。満彦はハングでアブミを踏み切る瞬間にアイゼンが残り、靴紐がとけて靴が脱げそうになりオーバーシューズの細紐だけで足についている状態になった。空身になり何とか乗り越えて行った。中央バンドでビバーク後全員でピークに立った。吉尾は疲れたといって最終ピッチは先輩の奥山に交替した。
幻想の岩壁ーー劔チンネ正面岩壁
昭和33年3月、彼の中で自身に思い聞かせた日本の三大氷雪岩壁登攀があった。残る一つがチンネ正面だった。北岳でその実力を見せつけられた吉尾とその彼が推す若手の田中が今回のパートナー。
3月10日夜半に池ノ谷左股から三の窓コルへ。7時チンネの基部に到着。チムニーから右のカンテ状をトップの吉尾が行く。氷のルンぜ、チムニーを満彦がトップに立ち、最終ピッチも満彦がリードした。北岳バットレス、チンネでは四峰正面壁ほどの感激はなかったが、次にやってくる岩壁登攀へのファイトで一杯だった。
この他にも、霧の岩稜ーー滝谷グレポン、垂直の氷雪ーー屏風岩中央カンテなどの初登攀記があるが省略。
山に向かう心情、山での夢想と行為、記録や随想、それに独特なタッチの絵画、何回読み返してもまた新たな気づき、感動がそこにある。彼が師表とした上田哲農をも彷彿とさせる。彼の中にも上田画伯のことが念頭にあったのかとも憶測する。
一方で、「ゴンべーと雪崩ーー犬とアンザイレンした話」などは、徳沢園で生まれた駄犬と一緒に、雪の前穂高北尾根に登ったり、雪崩に合いながら九死に一生を得たりの珍道中の一文で彼のユーモア溢れるほっこりする一面をみる思いだ。
青春の瑞々しい画集にも近い山の本だが、この後著者はヨーロッパアルプス北壁の先駆者として活躍するのはウィキペディアの通りである。しかし、この本は彼の山への情熱がひしひしと伝わってくる若き日の満彦の名著だと思われる。
かつて妻と一緒に芳野画伯の個展?販売会?へ東京に行ったことがあります。もう高齢になられた氏は好々爺然として、柔和な笑顔で奥様と共に出迎えてくださいました。当然「山靴の音」や「栄光の岩壁」も読んでいたし、若い頃、三つ峠のクライミング講習会で講師の一人として参加されていてお世話になり、スズキジムニーで軽快に山道を駆け上がる姿など懐かしかったものの、緊張していたのか、ほとんど山の話を聞くこともなく、絵画の小品を数点買い求めて帰りました。(大作も多々ありましたが。)でも最後に小生と一緒に写真に収まって頂きました。感謝です。あの時、少しでもお話しておけば、と今更ながら残念に思います。
しかし、自宅の階段に掲げた絵は朝な夕なに見ています。そして時にフッと「山靴の音」を読み返してみたくなるのです。
そういえば、懐かしい「穂高よさらば」という歌の作詞は芳野満彦なのですね。
彼の穂高への愛がこもっています。作曲はあの古関裕而
穂高よさらば また来る日まで
奥穂にはゆる あかね雲
かえり見すれば 遠ざかる
まぶたにのこる ジャンダルム
滝谷さらば また来る日まで
北穂につづく 雪の道
かえり見すれば 遠ざかる
まぶたにのこる 槍ヶ岳
涸沢さらば また来る日まで
横尾へつづく 雪の道
かえり見すれば 遠ざかる
まぶたにのこる 屏風岩
岳沢さらば また来る日まで
前穂をあとに 河童橋
かえり見すれば 遠ざかる
まぶたにのこる 畳岩