先日西穂高山荘に泊った際に、山小屋の書棚にケルンの復刻版を見つけました。ケルンは戦前の藤木九三、水野祥太郎らが活躍した関西RCCを中心とした新進気鋭の山岳家達がリードした啓蒙的な山岳誌ですが、戦争の激化とともに解消してしまいました。
そんな古い本など誰も手に取ってみていないようでしたが、小生にとっては近代登山が始まってまもないその当時の熱気が感じられて新鮮な思いでした。
その本と共に、ペデスツリアンという一冊の本もありました。関西徒歩会編 復刻版
アテネ書房 と書いてありました。
パラパラとめくっていくと、その中に吉田登美久の名前で数編の寄稿がありました。
吉田氏とは、単独行で有名な加藤文太郎が最後に北鎌尾根で遭難死した時のパートナーです。興味を惹かれて読んでみました。
吉田氏のことは、新田次郎の小説「孤高の人」の中で、功名心が強く、狷介な人物として登場します。そして、加藤を死地に導いた要因を作ったようにいってみれば悪役として描かれています。しかし、事実はかなり違います。小説だから創作は仕方ないとしても、ほぼ加藤の伝記として描かれているので、やはり吉田氏の名誉のためにも史実に即して書いて欲しかったし、真相は書いて置くべきだと思い一寸書いてみました。
吉田氏の寄稿は一月の八ヶ嶽、秋の薬師・槍・錫杖(単独行)、春の前穂高北尾根―穂高小屋を根據として―の3篇でした。
いずれもしっかりとした文体で、山に対する真摯な思いが伝わる文章でした。
春の前穂北尾根の文では、1月の伊吹で「2人で穂高に入りませんか。」と加藤から声をかけられたことを述べています。この一つをとってみても、小説「孤高の人」で加藤文太郎が初めてパートナーと行動を共にしたのが北鎌尾根というのが事実と異なることが分かります。
また、加藤文太郎自身が、「その後の父の病気はだんだん重くなって行くのになお山の恐ろしい力が私を誘惑する。それは前穂の北尾根と槍の北鎌尾根なので、一人では少々不安だ。(中略)そう考えている時ちらっと吉田君の顔が頭に浮かんだ。吉田君は恐ろしく山に熱情をもっていて、山での死をすこしも恐れてはいない。その上岩登りが実にうまい。だから私は間もなく吉田君を誘惑してしまった」と書いています。
前穂北尾根は彼らの試みの少し前に、慶応大学の有名な山岳家であった大島亮吉らが遭難死した場所です。加藤らの北尾根も壮絶なビバークとなりました。
加藤は、「岩登りの下手な僕が終始ブレーキになって、第三峰のチムニーの下にきたときには予想外に時を経ていた。」と書いています。雪のチムニーを突破するために三時間ほどの穴堀が必要でした。上部に抜け出したものの雪が激しく、ルートも不明なためにチムニーに戻り着の身着のままでビバークします。吉田は書いています。「チムニーの三時間は加藤の努力の賜物、夜は食欲がないものの加藤が作ってくれた豆の煮たものをコッヘルで温めて食べた。加藤は体を自分の上に乗せて温めてくれた。」
翌日も吹雪で、加藤は「吹雪の止むまでここで待つか、引き返すか。」といったのに対し、吉田は「もう一晩もこんなところにいたくない、どんなことがあっても今日中に小屋に帰ろう、悪いところはみんな自分が頑張るから」と述べています。
お互いに信じ合った良いパートナーぶりで相手を立てています。
また吉田は「この度の山行において徹頭徹尾足手まといに終わった事を紙上を借りて深くおわび申し上げる、」とまで書いています。右手がしびれて凍傷にかかったようで翌日は消耗し計画を短縮したのかもしれませんが、岩場を終始リードしたのは吉田であり、先輩を立てて謙遜して書いているように思われます。
また、「秋の薬師・槍・錫杖」の文では錫杖の岩場を単独で登攀した記録も載せています。ルートは定かではないものの、靴を脱いで足袋で登り、ほぼ垂壁も越えています。一月の八ヶ岳、赤岳、阿弥陀岳も登っており力量はかなりの人のようですし、文章力もなかなかの人のようでした。
藤木九三が追悼の文でいみじくも書いています。
「当時行を共にした吉田富久君が手足纏いになったろうとか、または危難の原因がこの一事にかかわるといった風のことを意味するのでは毛頭ない。むしろ当時天候の定まらないのを知りながら、吹雪を衝いてあえて出かけたということ、殊に平生あれほど要心深い、かつ用意周到を期する加藤君が、ほとんど食料らしいものを携行せずに出かけたという事実が、この危機を惹起した直接原因のように考えられる。」
この日の行動に関しては、全くもって腑に落ちない点が多いのですが、加藤、吉田の2人は良きパートナーとして最後まで頑張り尽くしたものと推察します。第三吊橋の袂に立ててあったというピッケルは加藤文太郎が立てた吉田の墓標のように思えてなりません。
西穂高からの帰り道、新穂高ロープウェイから正面には錫杖岳がみえました。かつて吉田登美久(富久)氏はどこのルートを辿ったのだろうか、などと思いながら穂高を後にしました。