宿縁 二月号 中原寺

 [生と死に光を与える仏教]

 今年も桜のきれいな季節になりました。中原寺の境内にある枝垂れ桜もあと数日もすると満開になりそうです。
 桜は日本人が最も愛する花といってもいいでしょう。日本各地に桜の名所と呼ばれる場所があり、テレビでは毎年桜の開花日を予想するなど、多くの人が花見を楽しみにしています。
また、桜の季節は卒業式や入学式の頃と重なっていて、人生の節目の思い出を彩るものとして私たちの生活に密着した花とも言えます。
 日本人に愛されてきた花だからこそ、古来より桜は和歌や俳句の題材とされてきました。そしてそのかなには、桜の美しさを表現しただけでなく、その美しさとともに儚く散ってゆく姿を自らのいのちに重ねあわせ、この世の移ろいを詠んだ歌が数多くあります。
 世界三大美女のひとりである小野小町は、「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」と詠み、その美貌が時の流れとともに変わっていくことを嘆き、良寛和尚は辞世の句として「散る桜 残る桜も 散る桜」との言葉を遺し、「私の死は決して他人ごとではありませんよ。残されたあなた方も必ずいのちを終える日が来ることを覚悟しなさい」と示されました。
 宗祖親鸞聖人も得度(出家)される際に、戒師の慈鎮和尚が「もう夜遅いから、得度の式は明日に延ばしましょう」とおっしゃられたことに対し、「明日ありと 
思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは(桜は明日見ればいいという心が仇になって、桜を見ることができないいことがある。夜中に嵐が吹かないとどうして言えますか)」と歌を詠み、その日のうちに得度をされたといわれています。
 このように、春の間でもほんの短い期間だけに咲き誇り、風と共に薄い花びらはさらさらと散っていく桜は、この世の無常の象徴ともいえるのです。
 釈尊がさとられた真理の一つが諸行無常です。この世のすべてのものは常に移り変わり変化し続ける、いかなることも常では無いとの真理です。この真理によって知らされる私のいのちの姿とは、「生」だけが人生ではなく、老も病も死も人生そのものであるということです。いのちの一部である健康、生、若さだけを求め、自分に取って不都合な老病死に怯え、目をそらす生き方はいのちの本質を見失います。
 兵庫県の寺に生まれ、浄土真宗の僧侶であるとともに教師として多くの青少年の教育に身を捧げた東井義雄師は、多くの詩をとおしていのちの不思議・尊さを伝えられました。
 そのひとつに「おとせばこわれる茶碗」という詩があります。

 おとせば こわれる 茶碗
 いますぐにでもこわれる茶碗
 おとせば こわれる いのち
 いますぐにでも こわれるいのち
 でも
 それだからこそ
 この わたしのいのちが いとしい
 たまらなく いとしい
 こわれずに いま ここにあることが
 ただごとでなく うれしい
 プラスチックのいのちでないことが
 ただごとでなく ありがたい。

 この詩は、こわれていくいのちに背を向ける でも絶望するわけでもなく、はかなく、移ろいゆくいのちだからこそ、今生かされていることへの感動、感謝の思いが芽生えることを教えてくれます。若さ、健康、生の視点から老、病、死を遠くに眺めていては、こうはいきません。自分にとって不都合なものとしか思っていなかったものが、いのちの本質を浮かび上がらせるのです。
 また、この詩の中で「おとせばこわれる私」に不安や恐怖がないのはなぜか。それは落ちていくいのちを受けとめてくれる存在を知っているからです。今はまだ若く元気であっても、年を重ねるうちに出来ていたことが一つ二つ減り、そのうちに出来ることのほうが少なくなり、最後には何もできなくなってこわれていくいのちです。しかし、この落ちてこわれていく私をそのままに必ず抱きとって離さないはたらきこそが阿弥陀さまのお救いです。しかも落ちてこわれていく私を目あてとして、決して見捨てることはしない阿弥陀さまのお慈悲があるからこそ、安心して落ちてこわれていけるのです。
 浄土真宗の教えの根本となる『浄土三部経』や親鸞聖人などのお聖教がまとめられていいる『浄土真宗聖典(注釈版)』には、「生に迷い、死をおそれつつ生きる私どもを導いて、その生に意義あらしめ、死に光りあらしめるものは、真実に目覚めたもうた仏祖のみ言葉でえあります。」と書かれています。仏法とは、「生きていることがすべて、死んでしまえばすべてお終い」と信じている私に、生きることに意味を与え、死にも輝きを与えてくれるのです。