[供養の本来的意味を問う]
この程、ベトナムの中部に位置するダナン、フエ、ホイアン、ミーソンの世界遺産を巡ってきました。かねがね日本と同じアジアに位置する仏教国ベトナムを訪ねたいと思っていました。
特に、記憶がある方も多いと思いますが、かつてベトナム戦争下で一人の老僧が、仏教徒を激しく弾圧した当時の南ベトナム政府に身をもって抗議して首都サイゴン(現ホーチミン市)で焼身自殺(供養)したニュースが世界に衝撃を与えました。
そのことについて少し記してみます。
この事件は一九六三年五月八日、ベトナム中央部の古都フエで、仏教徒たちが釈迦の誕生を祝う集会を開いていたところ、官憲の手が入ったのです。というのも、彼らは政府によって禁止されていた仏教の旗を掲げていたからなのです。当時南ベトナム政府は大統領がカトリックであったこともあり、カトリックが優遇されていて、国民の大多数を占める仏教徒はさまざまな制限を受けていました。仏旗掲揚禁止もその一つでした。官憲は仏旗を引きずりおろし、引き裂いたのです。それに対して仏教徒が抗議したところ、警告なしに発砲が行われ、子供七人と女性一人が犠牲となりました。政府は、反政府勢力であったベトコン(南ベトナム民族解放戦線)の仕業だと宣伝したのです。
これに対して、二日後の五月十日、一万人の抗議デモがおこり、デモを指導していた僧侶は、殺された八人の補償と、仏教を信仰する自由を政府に求めましたが、官憲は僧侶たちを逮捕するだけでした。
その日から一か月後、今度は首都サイゴンで、フエの犠牲者八人を追悼する催しが開かれ、四百人の僧侶がデモに参加しました。そのとき、一台の車オースチンがデモの先頭に出ました。そして、カンボジア代表部のある交差点で車が止まり、七十三歳のティック・クアン・ドック師(フエのティエンムー寺僧侶)が車から降り、交差点の真ん中に静かに座りました。弟子らしい二人の僧侶がポリ容器に入った液体を師に浴びせ、師はゆっくりとマッチを擦ったのです。一瞬にして炎がたち、師は燃え立つ炎のなかで約四分間座禅の姿勢を保ったまま絶命しました。師が倒れると、僧侶たちは一斉に跪いて合掌しました。あたりはガソリンと人肉の焼ける臭気が満ちたそうです。
焼身した老僧には遺書がありました。
「私は発願しました。自分の幻身を焼いて仏様に捧げ、その功徳によって仏教が永続し、ベトナム全国の平和と国民の安楽が実現しますように・・・南無阿弥陀」。
その後二十人の僧尼が相次いで「焼身供養」しました。政権はまもなく崩壊しましたが、アメリカによる「北爆」がはじまり、戦争終結はこの「焼身供養」ののち、さらに十二年の歳月を待たねばならなかったのです。
二十年にも及んだベトナム戦争は世界に大きな衝撃を生みましたが、大事なことは、センセーショナルな「焼身供養」を通してベトナム仏教全体が戦争という試練のなかで大きく変化を遂げていたと考えたいのです。
ティック・クワン・ドック師の友人であり、ベトナム戦争下でベトナムの仏教徒を結集し、仏教を現実の悲劇を克服できる宗教まで導いたのがティック・ナット・ハーン師と言われています。師は、ベトナム戦争を終結させる上で大きな力を発揮し、仏教における「苦」の解釈に進展を見せたと言えます。すなわち従来の仏教では、「苦」の原因はもっぱら個人の内面に巣くう無知や欲望に考えられがちでしたが、「苦」の原因には社会が生み出したものもあるのではないか、つまり「苦」の原因となる社会矛盾、社会構造の変革に立ち向かうことでありました。「エンゲイジド・ブッディズム」といって、要は社会問題への積極的な関与・参加です。
今一つは、ティック・クワン・ドック師の遺書にもあった「焼身供養」の「供養」という行為です。
私たちは普段「死者の霊に供物をささげること」ぐらいに思っていますが、敬いの心をもって「仏・法・僧」に奉仕することです。
浄土教においては、七高僧の一人唐の善導大師が浄土に往生する行業として五つの正しい行を定められました。①読経(浄土経典を読経する)②観察(阿弥陀仏とそのすがたを心に浮かべみる)③礼拝(阿弥陀仏を礼拝する)④称名(阿弥陀仏を称える)⑤讃嘆供養(阿弥陀仏の功徳をほめたたえ供養すること)です。
わが親鸞聖人が、万人が救われる真実の教とされた「仏説無量寿経」は、久遠の仏が法蔵比丘となってあらわれ、師仏を讃え、すべての迷えるものを救おうという発願をされた。そして、
「仮令身止、諸苦毒中、我行精進、忍終不悔」(たとい身を、もろもろの苦難の中に止まるとも、我が行は精進にして、忍びて終に悔いじ)と誓われた、とあります。
焼身供養という己が身を焼いて「世の中安穩なれ、仏法ひろまれ」と誓願されたティック・クワン・ドック師の行業は、私の眼に心にかつてないほどの振動を与えたことでした。