宿縁 三月号 中原寺

  「念仏者として権力への姿勢を思う」

 アメリカで二度目の大統領になったトランプ氏の言動に、今や世界中がふりまわされています。
 一人の権力者によって人間社会は常に動揺が生み出されます。「権力」とは、辞書に「他人をおさえつけ支配する力」「支配者が被支配者に加える強制力」と書かれています。また他の辞書には「他人を強制し服従させる力」「特に国家や政府などがもつ、国民に対する強制力」とあります。
 いずれにしても「権力」という言葉には嫌なイメージしか出てきません。
 先日、偶々テレビの番組で「多様性社会に響く民藝」と題する番組がありました。「多様性」とは、個々の違いを尊重し、多様な人びとが共存する社会や組織を目指す考え方です。性別、人種、年齢、文化的背景、価値観、ライフスタイルなど、さまざまな要素が含まれます。まさに「権力」と「多様性」とは正反対のものを感じます。
 柳宗悦が生涯追求した「民藝」を創始した「美の発見」は民衆的工藝の略字で、飾るために作った品物ではなく、生活の中から生みだされた工藝品なのです。
 そして、各地の風土から生まれた生活に根ざした民藝には使用に即した「健全な美」が宿っていると、新しい「美の見方」や「美の価値観」を提示しました。
 民藝運動の起こりは、世界に工業化が進み、大量生産の製品が少しずつ生活に浸透してきた時代の流れも関係しています。失われていく日本各地の「手仕事」の文化を案じ、近代化=西洋化といった安易な流れに警鐘を鳴らしました。より良い生活とは何かを民藝運動を通して追求したのです。
 思想家であり仏教哲学者でもあった柳宗悦の民藝運動には河合寛次郎、浜田庄司といった人たちが加わりました。この運動は1926(大正十五)年に提唱された生活文化運動です。当時の工芸会は華美な装飾を施した観賞用の作品が主流でした。
 そんな中、柳たちは、名もなき職人の手から生み出された日常の生活道具を「民衆的工藝」と名づけ、美術品に負けない美しさがあると唱え、美は生活の中にあると語りました。
 当時の日本の政治は国粋主義が台頭し軍部による八紘一宇(太平洋戦争期、日本の海外進出を正当化するために用いた標語)による朝鮮や中国への侵略が著しさを増していった時代でしたが、柳は国家という枠を超えて個々の国や地方に伝わっている言語、文化、芸術に注目しその保護にも役割を果たしています。しかし同時代を生きた無政府主義者の大杉栄からは民藝運動は生ぬるいと批判されていたようです。その大杉栄は大学卒業後、社会主義運動に参加、国体を批判する危険人物(アナーキスト)だとして幾度か投獄されました。そして大正十二年の関東大震災の際、作家である内縁の妻伊藤野枝と大杉の甥であるアメリカ国籍の橘宗一(六歳)の三名が憲兵隊特高課に連行され、憲兵大尉の甘粕大尉らによって殺害されたのち、遺体は井戸に遺棄されました。
 さて、こうした過去の歴史の事実と人物像を通して繰り替えされる人間の罪悪性と愚かさを考えずにはおれません。
 二月二十四日はロシアがウクライナへ侵攻して三年目となりました。連日報道されてくる内容は、破壊と戦死者が増え続ける数字と悲しみに打ちひしがれる遺族の姿です。戦争はいかに愚かで勝者も敗者もない馬鹿げた行為といいながら、どうすることも出来ない人間ゆえの繰り返される業にただおろおろするばかりです。
 仏教に救いを求めてその教えを人生の指針とする仏教者は、この娑婆の起きる不条理に対処せねばなりません。「不殺生」を中核とする仏教は特に戦争の愚かさを意識し不戦の思いで生きてゆくことが求められます。
 かつて、先の太平洋戦争では高木顕明や竹中彰元といった僧侶が「戦争は罪悪である」と体を張って当時の体制に抵抗したことは有名です。しかし彼らの名誉が回復されたのはずっと後の事でした。
 権力によって個々人の自由が封殺されるときは最も恐ろしい社会です。そうなってしまったらそのことについて個々に声を上げるのは真に困難であります。大きな濁流に飲み込まれてしまうのが事実です。
 しかし支配権力に対する親鸞聖人の姿勢は『教行信証後序』に出てまいります。
 「承元の年(親鸞三十五才)主上・臣下、法に背き義に違し、怒りをなし、怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の太祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えずみだりがわしく死罪につみす、或いは僧儀をあらため、姓名を賜うて遠流に処す。予はそのひとつなり。」これは若い時代の念仏弾圧を晩年に至るまで鮮烈に記憶し、いささかの妥協も交えず、国家権力に対する親鸞聖人の姿勢の原点を示すものと思います。
 だからこそ私たちは、自身の幸せと自国の平和だけを享受するのではなく、仏法を主としてこそ見えてくる様々な人生の課題を御同朋(同じ念仏に生きる仲間)と一緒に共有し行動してまいりたいと思います。
 あなたの身近な人が戦争で死んだら・・・?

宿縁 二月号 中原寺

    「ドコトテ 御手の真中ナル」

 一月二十日夜のNHKテレビ「映像の世紀ーー兵士たちの負う心の傷トラウマ」は、感傷の情にたえませんでした。
 日本が終戦から八十年となる今年、その時五歳であった私はいろいろと考えさせられます。
 映像の中ではこの地にあった「国府台陸軍病院」が映し出されていました。戦地で精神疾患を患った方々は終戦までここに約一万人が入院していたようです。
かつてのベトナム戦争でアメリカの傷病兵たちのトラウマ、そして第一次世界大戦ではイギリス兵たちが軍法会議で臆病者として処刑されていく映像など、人間の深い罪悪性を思わずにはいられませんでした。
 さて、有縁の皆様方にお参りいただく中原寺本堂のご本尊阿弥陀如来のお木像について、その縁起をお話しておきましょう。
 戦前東京南千住にあった寺は先代住職の父が出征中に大空襲ですべてが焼失してしまいました。戦後二十一年に戦地より復員した父にとっては一日も早く現在の地で新たにご本尊をお迎えしご入仏をしたいとの思いが強かったことでしょう。そしてご先祖の縁をたどり石川県能登部のお寺にあった阿弥陀如来像をいただいたのだと聞かされています。終戦後間もないときであり、父は汽車を乗り継ぎながらそのご本尊を風呂敷に包み背負ってきたそうです。
 現代はいつの間にかすべてを物質化して考え、金銭でモノの値打ちを決めるようになりました。今は世の中の価値観が変わってしまいました。
日本には昔から「手間」というすばらしい言葉があります。「ある事のために費やす時間、または労力」をいいますが、効率的で即効性を追求する現代の感覚はいかがなものでしょうか。あらゆることに手間をかけることをさけ、手間のかかることを回避するようになりました。
 父がそうであったように、待ち焦がれたご本尊をお迎えできたことの喜び、ひと時も吾が体から離されないぬくもりが仏像の木肌から満身に伝わったことでしょう。そして憎しみと破壊に身心が疲弊した戦争という恐ろしい業火から救ってくださる阿弥陀仏のお慈悲にふっと心動かされたのではないかと思います。
 どのようなことにもそこに到る深い歴史があることに気づかされると、不思議と七十数年前に別れた父のその時の気持ちが時空を超えて今私の心底に再現し、とめどなく広がってまいります。
 近頃、忘れがちだった民藝の創始者として知られる「柳宗悦」(一八八九~一九六一)に再度出会う機会がありました。本屋さんで目に止まった若松英輔氏が取り上げ解説した「柳宗悦ー美は人間を救いうるのかー」の本です。
 柳宗悦は民衆の暮らしの中から生まれた美を世界に紹介した人ですが、その根底には大乗仏教経典の「無量寿経」の教えがあります。特に晩年に書かれた「南無阿弥陀仏」は浄土思想=他力道を民藝美学の基盤として捉え直した書として何人にも大きな影響を与えました。そしてこの本には「心偈(こころげ)という言葉が付されています。改めてモノ、コトの視点の深さを教えられます。

  『打テヤ モロ手ヲ』
 「ほれぼれと見守るものを、いつも目前に見るがよい。幸いこれに如(し)くものはない。「モロ手」は両手である。なぜ両手を打って悦ばないのか。讃嘆(さんだん)しないのか。考えると、讃えるべき光景が、如何に吾々のために、沢山用意されていることか。即時にここに、その輝かしいものが現前する。どうしてそれを見ないのか。人間は何時だって、仰ぐべき本尊を心に持つがよい。物にも持つがよい。上は釈迦牟尼仏(阿弥陀仏)から、下は一枚の布、一個の壺でもよい。もろ手を打って、ほめ讃えるべきものを持つことが出来れば、生活は輝く。何故なら、人間はこれで謙譲や、反省や、精進や、清浄や、もろもろの徳に交わる縁と、固く結ばれるに至るからである。」

 今の時代を考えてみると、仰ぐべきもの(ご本尊)を持たなくなりました。いや、自らを仰がれるべき存在の道にと突き進んでいると言ってもいいかもしれません。「自分を偉くして、その力量でものを左右しようとする」人は、世の中にたくさんいます。その道は「自・他」「好・醜」「優・劣」「多・少」「生・死」といったニにとらわれる迷いの世界であって、差別の助長でしかありません。仏教の教えは「不二の法門」です。
 「私たちは自分の能力には注目しても無垢なるものに目を向けることは少ない。能力はいずれ衰えていきます。そして、それは比較の世界に私たちを閉じ込めがちです。もちろん能力は大切なものです。しかし、無垢なものはさらに重要であり、根源的です。自他ともに無垢なる眼で見つめること、そこに不二の世界が顕現するのです。」との若松英輔氏の論評には、素直に賛同を覚えます。
 多くの現代人にとって仏教は、帰依するものであるよりも、学びや教養の対象になっているかもしれません。いかがでしょうか?

宿縁 一月号 中原寺

             [光といのち きわみなき世界へ]

 先頃はじめて親族の死に出あい、一連の葬儀の進行を見ていた五歳の孫が、翌日母親と交わしたのがこんな会話でした。
 孫「おじいちゃんは今どこにいるのかなぁ」
 母親「お骨になっておばあちゃんと一緒にお家に帰ったよ」
 孫「えー? タイムマシンに入ったのにー」
 火葬場に行き、遺体が炉に入って別れをした光景の中で思った子どもの何とも言えない無邪気な感慨だと思いませんか。
 タイムマシンは、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』の作品に登場するひみつ道具。作中では、2008年に発明され、実用化された時間旅行用の乗り物です。時間の流れを超えて過去や未来に旅行するための架空の機械なのです。
 あらためて孫の発した言葉から、子どもの無邪気さとはすばらしいものだと考えさせられました。。無邪気とは、邪心のないこと。考えの単純なこと等と辞書にあります。本来私たちは無邪気さをもってこの世に生まれてきたのに大人になるにつれて邪心が増え、常識に縛られ知覚でもってこの世を生きていこうとします。素直さを失い自分自身の色眼鏡で見るようになってしまうのです。
 タイムマシンとは時と場所を超えた世界、自由自在な世界をあらわしています。
 私たちが生活を営む世界は、果たしてどのように形成されているのでしょうか。
地図上で見ればそれぞれの国が国境を定めて、それにしたがって人々は自動車、電車等で行き来しています。しかし、国や社会というものは目に見えないものです。
普段、なんとなく日本、アメリカ、東京などと地域を区切って話をしますが、それは人が定めたもので、犬や猫たちには何の境界線もありません。
 イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリ(1956~)はホーキンス博士の再来と言われ、「時間は存在しない」という本を出して世界的に注目されています。
かつて鴨長明が『方丈記』で、「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」(川の流れは途絶えることなく、それでそこを流れる水はもとの水ではない。川の流れのよどみに浮かんでいる水の泡は、一方では形が消え、また一方で形ができたりして、長い間そのままの状態でとどまっている例はない。この世に生きている人とその人たちが住む場所とは、またこの流れや水の泡のようである)と書き残しました。
 この絶えず変化していく過程が世界を形成しているのだという鴨長明の観点や仏教思想の縁起の概念は、カルロ・ロヴェッリの物理学の観点から捉えた概念としても見通しているように思います。
 仏教の四大思想は、「無我(むが)」、「無常(むじょう)」、「縁起(えんぎ)」、「空(くう)」であると言われています。我という欲望を無くすることが無我、万物は必ず移り変わり流れていくと説いた無常観、人と人との間に発生する起こりのようなものを縁起と呼び、この世界は縁起の連続帯によって形成されているのだと説きます。そして我と宇宙の間には途方もない物理的距離がありますが、実は刹那的な距離すらないのかもしれません。華厳経には「一即一切(いっそくいっさい)・一切即一(いっさいそくいち)(一つがそのまま全体であり、全体の中に個があると共に、個の中に全体が含まれている)と説いています。
 さて、浄土真宗は
「帰命無量寿如来 
 南無不可思議光でしょう」
と言われるくらい、かつて人は正信偈のお経を全部知らなくても正信偈の冒頭のこの言葉はそらんじていました。
すなわち親鸞さまのご生涯をかけて顕された結論がこの二行に凝縮されていると言ってもいいのです。
 無量寿も不可思議光も阿弥陀如来のすべてのものにはたらくはかりなき命と、人知を超えた限りなき光の世界に生れ出ることへの歓喜の言葉です。
 はかりなき命とは時間を超えた世界であり、限りなき光とは場所を超えた自在無碍な世界で、人間世界の束縛から解放されたさとりの真実世界のことです。そして親鸞さまは、「帰命(南無)とは如来の願い(仰せ)に順うことだ」と申されました。
 それは、人間の妄念からつくり出した時間や場所にがんじがらめになっている娑婆の人生が万人を浄土へと導き喚び覚ましてくださる如来の願いの言葉に順って生きていくことを教えてくださいました。
 おじいちゃんが亡くなったとの知らせに、
 孫「おじいちゃん 世の中いやになっちゃたのかね!」
 母親「違うよ おじいちゃんは一生懸命働いてきたんだよ」
 孫「へー、いつもお椅子に座って眠っているだけなのに」
 「自然法爾」(自らあるがままにあること)をふつふつと感じさせられます。

宿縁 十二月号 中原寺

        [いつでも他人事で過ごす]

 暖冬に油断してか、久しぶりに風邪をひいて喉をやられました。声が出ないというのは本当に困ったもので人とのコミュニケーションが通じない苛立ちを経験しました。
 しかし、今年は周囲でも亡くなられた方が多くあり、また体調を崩されたりしたことを聞いて淋しい思いをしました。
 また不思議なことに、普段と違って自らの体調が悪く臥せっているときには、先に人生を終えた方々との改めての宿縁を深く想うことがあります。
 時の流れはいつも変わらないのでしょうが、体調が良いときはかえって世事に流されてしまっているかも知れません。
 私たちが師と仰ぐ親鸞聖人の九十年のご生涯で、聖人が六十才を過ぎて関東から京都に帰られてご往生されるまでに関東各地の門弟に与えられたお手紙が四十三通あり「御消息」と呼ばれています。その第十六通は特に人間の領域から離れられぬ私たち凡夫の身ですが、阿弥陀如来の広く平等な領域を気づかされ、間違いなく今救われる身となる「信心決定(しんじんけつじょう)のことを述べられていられます。
 『なによりも、去年・今年、老若男女おおくのひとびとの、死にあいて候らんことこそ、あわれに候へ。ただし生死無常のことわり、くわしく如来の説きおかせおわしまして候ふうえは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まづ親鸞が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑いなければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、おわりもめでたく候へ。如来の御はからいにて往生するよし、ひとびとに申され候いける、すこしもたがわず候ふなり。』

 右(上)は、正元元年から文応元年にかけて、全国的な大飢饉と悪疫におそわれ、死者がはなはだ多かったようです。その悲惨な姿に動揺する人たちに送られたお手紙で、信心の行者は、臨終の善悪にかかわらず救われると説かれています。
 当時の人も、科学的な思考に統御された現代人にあっても、変わらぬこの世のありさまは「諸行無常」(万物は常に変化して少しもとどまらないこと。)と「諸法無我」(いかなる存在も永遠不変の実体を有しないこと。)の真理です。それをしっかりと認識できずに絶えず人間の見方考え方を優先する領域から出られないところに私たちの大きな動揺が生じます。
 一寸先を見通せないこの私に執着して、人間の考えの領域で過ごす限り、私の迷いと苦しみはどこまでも続いていきます。
 人間の領域とは、何でも対象とするものを分けて考えどちらかを選択する思考です。多少、自他、善悪といった分別する心の領域から出られないのが人間の理性です。常に色眼鏡を通してしか見られない自己中心の見方です。
 さとりの領域とはそうした見方を超えてすべては一つであると知ることです。それを「一如(いちにょ)」と言いますが、一は絶対不二のことで、さとりの智慧によってとらえられたあり方で、すべての存在の本性が、あらゆる差別の相を超えた絶対の一であることをいいます。だから生も死も一つの世界であり、分断した世界ではありません。
 浄土真宗の信心を死後浄土に往く期待のように理解している人がおりますが、往生浄土は決まったということは、とりもなおさずこの現世が明るくなったいうことなのです。浄土は明るいけれども、この世にいる間はまだ明るくないというのは、親鸞聖人が批判された過去の浄土教です。そうではなく、阿弥陀如来を信じた人は現世において正定聚(しょうじょうじゅ)に入ります。つまり仏にならせていただく身に、この世において定まるのです。人は死に臨むときに仏さまが迎えに来る「来迎」を期待するというのは「いまだ真実の信心をえざるがゆえなり」と、聖人は批判されています。
 どこまでも自分自身の考え(領域)に固執して何とかそこに落ち着こうとするのは他人事のことではありませんね。「大往生」とか、「安らかに息を引き取った」などの言葉が口をついて出てくるのも如来さまの「大慈悲心」の領域に目覚められない表れです。親鸞聖人のお手紙には、続けて法然さまの「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と、したためておられます。「愚者」とは、自らの愚かさ、罪深さに自力が打ち砕かれたところに仰がれる救い(往生)です。
 以前、聞いた地方のあるご住職の話です。葬場勤行の折のお経は「正信偈」で、「帰命無量寿如来で始まり〜超発希有大弘誓」でいったん声を切ります。そして一呼吸の後、導師が「五劫思惟之攝受」と声を高く発するところなのですが、いつもそのご住職は、ここにくると感極まって声がかすれてしまい、その後の声が出なくなるのだそうです。列集の僧侶はそれを心得ていて「重誓名声聞十万」と声を続けるとのことです。
 この救われ難き私一人のために、「はかり知れない時をかけて如来の思案がめぐらされたのだ!」といただいた感歎の極まりの姿と言えましょう。お経は常に新鮮なのです。

宿縁 九月号 中原寺

    「自分の足で歩くことの大切さを知る」

 八月末を第一回として「心を整える会」がお寺の新しい行事として始まります。
 まだ朝の静けさが残る十時から本堂で読経、座禅(静座)、写経といった体験を通して日頃の疲れた心を整えようとする空間です。
 考えてみると今の時代を生きる私たちは、朝から晩まで、いや寝ていても頭が休まらない日々に追いまくられています。
 インターネットやSNSなどの普及による情報過多社会といわれる今日、誰もが落ち着いて生活をすることができなくなりました。社会生活を営む私たちは、たしかにどう生活すべきかの種々の情報は大切ですが、人間は情報を与えられ過ぎると何もできなくなるといいます。
 こうしたことから考えると、情報を知ることによる利点より次のようなデメリット(欠点)に心がけていなければなりません。
①本人の同意がない個人の情報が洩れる
②いじめや嫌がらせを受ける危険性
③情報依存症になる
④情報の拡散が早いので誤解や混乱が生じる
⑤精神的ストレスを生む
等、と言われています。
 そこで、情報化社会の時代に乗り遅れないようにと思うより、私たちにとって大切なのは生きることの真の意味を自ら見出す道を発見すべきではないでしょうか。それが仏道です。仏道は世間のとめどない不安とストレスから解き放たれる世界です。
 親鸞聖人の生きられた時代はおよそ八百年前です。その頃から見ると私たちの時代は生きやすくなったのか、生きにくくなったのか?を考えてみましょう。
 便利さや物の豊かさ等からの幸福度の比較からではありません。
 人として生まれ生きる意味を教えてくれた親鸞聖人のご生涯を思うとき、比叡山での御年九歳から二十九歳までの二十年間のご修行はとても大きな意味を持っているのだと思います。ご自身はこの時期のことには少しも触れておられません。しかし妻の恵信尼さまの遺されたお手紙によると、
 『聖人(親鸞)は比叡山を下りて六角堂に百日間こもり、来世の救いを求めて祈っておられたところ、九十五日目の明け方に、夢の中に聖徳太子が現れてお言葉をお示しくださいました。それで、すぐに六角堂を出て、来世に救われる教えを求め法然上人にお会いになりました。そこで、六角堂にこもったように、また百日間、雨の降る日も晴れた日も、どんな風の強い日もお通いになったのです。そして、来世の救いについては、善人にも悪人にも同じように、迷いの世界を離れることのできる道を、ただひとすじに仰せになっていた上人のお言葉をお聞きして、しっかり受け止められました。ですから、「法然上人のいらっしゃるところには、人が何といおうと、たとえ地獄に堕ちるに違いないといおうとも、わたしはこれまで何度も生まれ変り死に変りして迷いを続けてきた身であるから、どこへでもついて行きます」と、人がいろいろといったときも仰せになっていました。』(「恵信尼文書」現代語訳)
と、親鸞さまのご臨終を看取られた末娘の覚信尼さまへのお手紙が発見されています。
 比叡山は標高848mで今から千二百年前の延暦二十五年に伝教大師最澄によって開かれた天台宗のお寺です。人里から遠く離れたこの山は当時から仏教のメッカとして仏道を学び修行して悟りを開こうとする出家者の聖なる場でした。ここに親鸞聖人は二十年間、常行三昧堂の堂僧としてひたすら止観行に励まれたようです。
 私は二度(真冬と秋)、親鸞さまの足跡にふれたいと比叡山を訪れました。今は道が切り開かれ観光化されていますが、さすがこの常行三昧堂付近の真冬の佇まいは深閑として凍てつく厳しさを身に感じるものでした。
 親鸞さまはここで下界の世界(世間の情報)から遮断された二十年間を過ごされたのです。御仏を仰ぎ自らを省みてひたすら仏道への修行に励まれたことでしょう。
 しかしまったくその間情報が途絶えていたわけではないような気がします。
 やがて生涯の師と仰ぐ法然上人とは四十歳の違いがあります。かつて法然上人もここ比叡山で出家し仏教を学びますが下山し、四十三歳のとき、「阿弥陀仏を信じ専ら念仏を唱えれば、善人も悪人も平等に浄土に往生できる」との教えに確信を持ち、東山吉水の草庵でその教えを説く法座には多くの民衆が訪れている、という情報は親鸞さまの耳に入っていたのではないかと思います。
 そのような状況のなかにある親鸞聖人の姿は『修行すればするほど、自分の煩悩の火はますます燃えるばかり、どれだけ心の中にきれいな月を見ようと思っても煩悩の雲がその月の前に立ちはだかって、私の心をおびやかす』(「嘆徳文」現代語訳)とおっしゃっています。
 ここでお分かりになるでしょうか?
情報は自分でしっかりと確かめることです。
情報はいろいろなことを伝えてくれますが、あくまで自分の責任において確かめることを教えてくださっています。

宿縁 八月号 中原寺

 どんな時でも真ん中に人間がいてほしい

  絵画 
 【『叫び』  エドヴァルド・ムンク】

 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
年ごとに沸騰する厳しい暑さに辟易しています。
同時に日々報じられる国内外の動向(戦争、紛争、テロ、対立、排除、難民、貧困、詐欺、金融不安等々)に生きる限りの困難さを実感します。目を覆い耳を塞ぐノルウェーの画家ムンクのあの名画「叫び」そのままが人間の姿なのかと思わずにおれません。
 そんななかにふと口について出たのが冒頭の松尾芭蕉の有名な俳句です。門弟曽良を伴い江戸千住から出立した奥の細道の旅。やがて出羽の国の山寺立石寺についた時に詠んだ発句です。
 「この山寺の静かなことよ、岩に沁みこむように蝉の声が聞こえてくる」
 立石寺は人里離れ、世間の喧騒を離れた山の上です。現在は眼下に仙山線の「山寺」という小さな駅がありますが、勿論芭蕉が旅したころは鉄道なんかありはしません。夏の暑さにあえぎながらも静寂の中にニイニイゼミの岩に沁み入るような声があったのでしょう。目を閉じてその声に聞きいった情景が時空を超えて偲ばれます。
江戸時代に始まった俳句は、現代に至るまで多くの俳人が様々な情景や心情を詠んで受け継がれています。でも正直なところ最近のテレビ番組などでやっているのを見るとだんだん素朴さが感じられず、上手さを競う形になっていて抵抗を感じます。
 俳句も歌もなにげなく口ずさむことができるところに親しみを感じ、現実の疲れからふと解放される大切な空間を埋めてくれるものだと思います。
 わが青春時代、1960年代、70年代頃はフォークソングがはやりました。
 その頃日本の若者たちは、当時の社会情勢に反発し、自由を求め、フォークソングに熱中しました。
 1973年、南こうせつとかぐや姫が歌う「神田川」がヒットしました。中高年には今でも歌い継がれている、あるがままの良さを感じさせる詞だと思います。
 ♪貴方は もう忘れたかしら 
 赤いてぬぐい マフラーにして
 二人で行った 横丁の風呂屋
 一緒に出ようねって 言ったのに
 いつも私が 待たされた
 洗い髪が 芯まで冷えて
 小さな石鹸 カタカタ鳴った
 貴方は私の からだを抱いて
 冷たいねって 言ったのよ

 若かったあの頃 何も怖くなかった
 ただ貴方のやさしさが 怖かった

 貴方は もう捨てたのかしら
 二十四色の クレパス買って
 貴方が描いた 私の似顔絵
 うまく描いてねって 言ったのに
 いつもちっとも 似てないの
 窓の下には神田川
 三帖一間の 小さな下宿
 貴方は 私の指先見つめ
 悲しいかいって きいたのよ

 若かったあの頃 何も怖くなかった
 ただ貴方のやさしさが 怖かった♪

 この名曲誕生の秘話を南こうせつさんがある紙面で次のように語っています。
 「当時の時代の流れとして、ベトナム戦争があって、今のロシアとウクライナもそうですけど、大義名分のない争いになって、アメリカの若者たちが戦争に取られてしまうのです。日本でも沖縄から戦闘機がナパーム弾を積んで出ていくんです。それに対して、アメリカの若者たちは、反戦の歌をいっぱい、メッセージとして歌っていました。われわれも歌っていましたが、過激な人たちは『戦争をやめろ』と、デモをして、それが70年安保闘争と一緒になって、若い人たちが手を挙げていきました。時代が変わって、それが封じ込められて、純粋に新しい世界を創るんだと言って手を挙げていた若者たちが、内部抗争を始めるんです。そこで『フッ』とため息をつくような空白のときが二、三年できるんです。そんなときの『神田川』でした。あの詞を書いたのは喜多條忠で、彼も早稲田の学生で、ヘルメットを被って、機動隊に石を投げていたんです。その彼が週末同棲をしていて、三帖一間の部屋で何もなかったような平和な時間を過ごし、彼女が用意してくれたカレーライスを食べるんです。時が止まったような、その空白のような時を書いたようにおもいます。」(御堂さん8月号対談)
 人間は何か世相の矛盾を感じて、行動的になるときがあります。そしてまた「フッ」とため息をつくような空白を覚えます。持続出来ない人間の弱さというものでしょうか。
 しかし一瞬の間に安らぎを感じ、身近にあった大切な宝に潤わされるのです。
 身近なものの存在は意外と気づかないのが私たちです。
 『南無阿弥陀仏は、かげとかたちとのごとくにて、よるひるつねにまもるなり』と、親鸞聖人は教えてくださいます。

宿縁 七月号 中原寺

葉っぱのフレディに自分の姿を見る

 つい先日の朝刊のコラムにこんな記事が載っていました。
 『東京都知事選で選挙ポスターが物議を醸している。品位のない掲示手法は論外だが、九州では投票を呼び掛ける選挙啓発ポスターが話題になった。問題視されたのは「他力本願知事・ほかだよりひこ」という表現だ。良くない知事の例として挙げたもので、鹿児島市の本願寺鹿児島別院などが「他力本願の使い方が本来と違う」として強く抗議。これを受けた県選管は「人まかせ知事」に修正した。おやと思われた人もいるだろうか。平成十四年に企業の「他力本願から抜け出そう」という新聞広告が騒ぎになったことがある。元は仏教用語で阿弥陀仏が衆生を救いたいとする願い(本願)のことだが、転じて辞書に「他人の力をあてにすること」と列記されている。その意味しか知らず、日常的に使う人が多いのだ・・・』
 こうして本来の仏教用語が分からず世情の考え方にすりかえられられるのは残念です。しかし世間の物差し(世間智)しか知らず仏法(真理)を聞き学ぶことがない人たちが使用するのでは仕方ないのかもしれません。
肝心なのは仏法を志す人(求道者)は、仏教の言葉は正しく使用し、間違って使用する人たちには何度でも声を上げ続けることが大切でしょうね。
 「他力」は「自力」に対する言葉ですが、「ここでは阿弥陀仏の力(はたらき)を意味します。「本願」は阿弥陀仏が、善悪、大小を問わず、すべての生きとし生けるものを浄土に往生させようとする誓願のこと。つまり、他力本願の意味は、自らの修行の力ではなく、阿弥陀仏の本願の力によって仏に成る(目覚める)ことであります。
 こう説明しても「分かりました!」という人はまずいないでしょう。人間の進化の過程で得た「ことば」は感情や思想を伝える表現方法で、他の生き物にはないツールですが邪推や憶測を伴うものでもあります。
 「他力」・「本願」・「阿弥陀仏」といった言葉をどんなに説明したところで世間智で生きる私たちにはなかなか体にストンとおちないのです。
 そこで小児科医である駒澤勝さんの「目覚めれば弥陀の懐」の本に出会えた中身を一部紹介し、他力本願について考えましょう。
 まず目に引いたのは「誤解している『葉っぱのフレディ』の章」です。数年前にブームになった絵本で、森繁久彌さんの朗読を収めたCDも発売されました。深い哲学的思想がなかなか的確にわかりやすく説明されていて私もとても良い本だと記憶しています。
 おおよそのあらすじはこうです。
 『一本の大きな楓の木があって、そこに何千枚もの葉っぱがついているが、その一枚がフレディである。同じように葉っぱであるダニエルやベン、クレアらとともにフレディは春に芽が出た。つまり誕生した。夏には青々とした立派な大人の葉っぱに成長する。太陽の光を存分に浴び、さわやかな風を浴びてダンスを踊り、楽しく過ごす。そして秋が来ると他のどの葉っぱともまた違う、フレディらしい美しい黄金色に身を染めて葉っぱの人生を謳歌する。しかしいよいよ秋が深まるとともに、自分の死期が迫っていることを察知し、行く先を心配し不安に思うようになる。友達の葉っぱで物知りのダニエルが、「落葉した後、また木の栄養となって翌年の葉っぱを支えるのだ」と諭してくれる。そして冬の到来とともに、友達の葉っぱは次々に落葉する。つまり死んでいく。そして雪の多い冬のある日、雪の重みに耐えかねて、ついに落葉して一生を終える』という物語です。
 この本ではフレディは擬人化されて、一つの生命単位として描写されています。ダニエルやクレアなどそれぞれの葉っぱは一つの生命体であって、それぞれ、その命を生きているように描かれています。実はこれは間違いであると駒澤先生は言います。この場合、一本の楓の木全体がひとつの生命体であって、何千枚の葉っぱがそれぞれ一つの生命体であるわけではない。つまりそれぞれの葉っぱに統合主体があるのではない。葉っぱの一生は大きな楓の木の命の営みの現れに過ぎない。フレディが春に芽が出るのも、そして柔らかく薄緑色の葉っぱから、夏に青々として骨格がしっかりしてくるのも、次第に人の手のような形になるのも、秋に紅葉するのも、フレディが勝手にそうなっているのではない。楓の木がそうしている。フレディがそうなるのは楓の木の性である。楓の木はそういうものである。葉っぱは次元が一つ上の楓の木の統合主体に統合されているのであって、自主独立ではない。それなのに、フレディは「自分は一つの自主独立の生命体」と思いこんでしまっている。楓の木と無関係に自分が存在するかのように思っている。自分が自分の力で変化し、自分の力で存在している自主独立の生命体だと思っている。もしフレディがこの誤りから目覚めて、「自分は葉っぱの命を生きているのではない、楓の木そのものだ」と気づいたら、今までとは全く別次元の世界が広がることになるはずである。
 さあ、皆さんはこの話から何かを感じ取れましたか。よく考えてみてください。

宿縁 六月号 中原寺

 仏教者として生きていますか___自分に

 去る五月二十日夜に放映されたNHKテレビ『映像の世紀』は「殺人兵器カラシニコフ銃1億丁 戦火と憎しみの世界で巨大化したモンスター」というタイトルでした。
 『人類史上、最も多くの人を殺したと言われるカラシニコフ銃、80年前、ソ連で秘かに生まれたこの銃は、誰でも簡単に扱え、故障知らずで、1丁10ドルから手に入るゆえに、世界に広がったのです。アメリカが敗れたベトナム戦争でも、アフリカの内戦の無差別殺戮でも、そして繰り返されるテロでも、使われたのはカラシニコフ銃だった。コントロール不可能までに巨大化したモンスターの記録である。』
「銃が悪いのか、それとも人間が悪いのか」
 この言葉と映像によって伝えられたわずか四十五分ほどの時間は、言い知れぬ恐怖と憂いと問いをもたらすものでした。
 そして同時に頭によぎったのは、ブッダ釈尊の真理のことば(教え)です。
 『すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ』                      (第十章 暴力)
 『実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みの息むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息む。これは永遠の真実である。』    (第十四章 憎しみ)
 「映像の世紀」で、ある記者の言葉にも注目させられます。
 『十年前、アフリカ大陸を三か月間旅する中で出会ったスーダンの青年。彼には十二歳から三年間、少年兵として戦った過去がありました。「あの頃は、人を殺すことになんのためらいもなかった。AK-47を持っていれば、いつの間にか自分が強くなったように思えた。異常な精神状態だったよ。」彼が語るように、銃は人間にとてつもなく暴力的にする力を持っています。ひとりが銃を持てば、対抗するために、周囲も銃を手に取り、それが社会の中で連鎖していく。壊れにくいカラシニコフ銃はどれだけ月日が経とうとも、使用可能な状態で残り続ける。そして、人と人が殺し合い、憎しみ合う悲劇は拡大していく。』
 いま仏教者として、一人一人が現実をどう直視し、行動を起こすかが問われます。戦争はすべての人のいのちを奪い、町や村を破壊し残されたものの生活の場まで奪い、戦いはやがて終わります。勝者も敗者もないのに双方の死者は葬られ、生きるためにまた復興に向けた歩みが始まります。時の経過はまたどこかで戦火が起こり殺し合いと破壊が始まります。人類の歴史はその繰り返しなのでしょうか?
 心に張り付いているのは、親鸞さまの「業縁(ごうえん)=行為、結果を引き起こすはたらき」による人間の行為の深い洞察です。
 『歎異抄(たんにしょう)』は、親鸞さまの教えがその門弟唯円(ゆいえん)によって書き記された有名なお聖教です。誤った考えの生じたことを嘆く思いを述べている後半部分、特に第十三章はとても大事な章です。親鸞様が唯円に対して語り掛ける問答によって人間の善悪の行為の判定について次のように述べられています。
1.『業縁(ごうえん)なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて殺さぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし』
(どんなことでも自分の思い通りになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せとわたしがいったときは、すぐに殺すことができるはずだ。けれども、思い通りに殺すことができる縁がないから一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう)
2.『さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし』
(私たちは、縁にふれたら何をするかわからないものを、みな同じように持っているのだ)
 先般カリフォルニア州バークレー市の本願寺仏教センターで開催された「日米仏教チャプレンシイの基礎」と題したワークショップでご一緒した大谷大学教授木越康さんは、これからの日本仏教の在り方に言及して「臨床仏教」という言葉を用いられた。その背景に「東日本大震災」で津波によって息子を亡くした母親との交流で「死んだら終わりですか?」の問いかけにこれまでと違う戸惑いをもたらすことになったと述べられました。
 「あの日、大勢の人たちが津波から逃れる為、この閖上中学校を目指して走りました。街の復興はとても大切な事です。でもたくさんの人達の命が今もここにある事を忘れないでほしい。
 死んだら終わりですか?生き残った私達に出来る事を考えます。」
この、わが子を失った母親の言葉に私自身も息をのまずにはおれません。
そして、あなたは仏教者として生きていますか?と死者から問われているのでした。

宿縁 五月号 中原寺

 井の中の蛙 大海を知らず

 三月の二十七日から二十九日までの三日間、カリフォルニア州バークレー市の「本願寺仏教センター」を会場に開催された『アメリカと日本のチャプレン会議』に出席するご縁をいただきました。
 チャプレンとは聞きなれない言葉かと思いますが、病院、養護施設、介護施設、刑事施設等で患者、家族、スタッフ、被収容者の精神的、宗教的スピリチュアルなニーズを支援する聖職者のことです。
 最近では大災害や震災など思わぬことに遭遇して、家や家族を突然失い肉体的にも精神的にも深い傷を負っている人、また自死を願望する人への寄り添うなどの大切な道にも広がりを見せています。
 今回の会議でプレゼンテーションの一人に招聘された私は宗教教誨師として「心情の安定を目的とした教誨の実施上における仏教の役割と今後の期待について」語ってほしいというものでした。
 会議の前後二週間を初めて過ごしたアメリカでは、何といっても思わぬ素晴らしい人たちと出会えたことでした。仏教に関心を示す聴衆は勿論のこと、仏教を実践し研究する意欲ある人生を歩んでいる人たちと巡り会ったことは大きな大きな収穫です。アメリカでは、かつて日本から移民した人たちの仏教徒の時代は過ぎ去り、伝承の難しさを感じながらも、あらゆる問題が生じてきた現代にあって仏教への関心を持つ若者たちが多くなっていることを実感しました。
 中原寺にもたびたびご法話にお出でいただく武蔵野大学名誉教授のケネス田中師は著書「目覚めるアメリカ仏教」の中で、次のような二つの願いが含まれていると言われます。その一つは、欧米において仏教が伸長しているという興味深い現象を、日本の人より広く、詳しく知ってほしいということ。仏教は「西洋の壁」を超え、もはや「東洋」に限るものではなくなった。そして二つ目の願いは、現代の日本仏教を新しい視点から考え、改革を目指す人々にとっての参考となるということです。アメリカ仏教には、未来の仏教、本来の宗教の在り方自体が潜んでいるのではないかと考えられる、と申されていることを私自身思い起こしました。「百聞は一見に如かず」でしょうか。
 そこで、仏教(生きていく上の柱となる教え)は、先ず個人としての目覚めが尊重されなければなりません。今日の日本の仏教は江戸時代に制度化された寺檀制度(すべての人々を特定の寺院に檀家として所属させる)が色濃く残っています。これは寺院と檀家との関係を信仰上の関係から形式的関係へと変化させる要因になりました。これは本来の仏教は家中心ではなく、個人として尊重されるべき信仰(宗教)のありようが二の次になってしまったのです。「信教の自由」は日本国憲法の保護する基本的人権で、憲法第二十条によって保護されています。
 先のケネス田中師は、「なぜ今、アメリカ人は仏教に魅了されるのか?)」の中で『アメリカは宗教への関心が非常に高い国であり、日本とは比較にならないほど社会や教育に宗教が浸透している。そうしたアメリカ人が、六十年代後半頃から一気に仏教に関心を持った原因はどこにあるのか?キリスト教から仏教に改宗した人たちに尋ねると、キリストの復活を「信じる」ことより煩悩による誤った見方を是正して自らが「目覚める」ことを究極の目的とする仏教の教えのほうが魅力的だと答える人が実に多い。キリスト教やユダヤ教には、立派な教義があるが、その教えを体験する方法が明確ではないのに対し、仏教は誰もが日々実践できる瞑想などを通して実際に教えを体験できることに惹かれると話す。』
と書いていますが、注目すべき指摘だと思います。
 このたびの『アメリカと日本のチャプレン会議』に日本から出席され、親しく声をかけてくれた東京大学東洋文化研究所の川本佳苗さんは、実に仏教を実践し行動されていて、2004年から自死防止活動を開始し、生き辛い思いや死にたいほどの悩みを抱える方の声に耳を傾けたいと願うボランティア活動、京都自死相談センターSOTTOにも在籍されました。
 川本さんはサラリーマン家庭に生まれ、国内外で音楽家として活動した後、2008年から六年間ミャンマーで東南アジアの上座部仏教の修学と瞑想修行をし、2014年に帰国しました。柔軟にオープンに研究して仏教学と人類学を融合した独自の仏教研究をされています。
 「井の中の蛙大海を知らず」の諺がありますが、とかく自分の殻の中が安全だと思ってしまう私たちの人生は、もっと柔軟な生きかたこそ大切なので、事や出会いの中にきっと新鮮さがあるのだと教えられました。
 親鸞聖人はご自身の精神遍歴を三顧転入(倫理的執われ➡自己満足➡仏の願いに身をまかす)で顕されていますが、その結論だけを安易に受け取ることなく、自分が歩む生き方の中で頷けることでなければなりません。仏教は人の生き方を眺めているようでは自分の目覚めにはならないことを教えられました。

宿縁 二月号 中原寺

      「あらゆる人々と共に歩むのが仏道」

 新年を迎えたその日に起きた震度7の能登半島地震は、大規模な災害をもたらして、いまだその被害の全容がつかめない極めて深刻な状態にあります。被災されました方々に心よりお見舞い申し上げます。
 我が家のルーツは同じ能登地方ですから日々に情報が伝えられるたびに、またいろい ろなことが思い起こされています。
 一つに「能登はやさしや土までも」と古くから言われています。
 能登の厳しい自然環境で生きていくため、 支えあい心豊かに暮らしてきた能登人の強さとやさしさを表した言葉です。
 この原点は元禄時代、加賀藩士の朝加久敬の旅日記「能登浦伝」の中で記されたも のによると言われている説があります。
 久敬が険しい海道に難儀していたとき、 道すがら綱とる馬子の愛らしい笑顔に出会ったこと。泊った宿主が「今日はめでたい 節句だから」と草餅と桃酒を振舞われたもてなしに、「能登はやさしや土までも」が、本当にその通りだと旅日記に残してあるそうです。
 いま一つは「能登のとと楽」という言葉です。
 これは能登の女性はよく働くことから旦那衆は楽しているというのです。男は酒造りに出稼ぎに行くから女は家業を守るために働くということです。因みに「加賀のかか楽」と続く言葉があります。加賀のおかみさんは天下の城下町でいい着物を着て美味しい食べ物に事欠かないという意味だそうです。
 母方の祖母は私が中学生のころまで存命して、芯がある強い女性を感じましたが、子ども心に優しい人でもありました。母がよく話していたのは「父は政治に関心を示す人で家を空けることが多く、田畑に精を出し家の切り盛りは母がしていた。そして仏法を大切にした人生は舅さんの影響が大きかった」と話していました。
 そんな祖母が子どもの私に能登弁で話しかけていた方言の面白さを覚えています。
*「だちゃかん」 (駄目だよ、いけません)
*「だら」(馬鹿)
*「なーんもや」(いいえ)
*「ほうや」(そうです)
 何かしらこうした方言からも、暖か味を感じていたものです。
 時代の移り変わりは激しく、昨今町には以前のような銭湯(お風呂屋さん)はほとんど無くなってしまいましたが、大半は北陸、それも能登出身者が多かったものです。そしてその作りは豪華な唐破風の玄関屋根でした。
 何故なのか?
郷里のお寺の屋根を模したそうです。それはお寺は身近に在って、いつでも誰でも参れる場所、なぜなら仏法を説く本堂はみんなが平等に救われていく教えの場だから、銭湯も同じくみんなが分け隔てなく裸になれる平等な場所だからです。
銭湯へ行った経験を持つ人は思い起こし てみてください。脱衣所も洗い場も湯船も、そこには年寄りも若いものも幼きものも赤ん坊もみんな同じ場所を共有していましたよね。
 子どもが湯船ではしゃいだりすると他人のお年寄りによく叱られたものです。
 あの風景は、お寺で代々仏法を聞いた大地に生まれ育った能登人が、それを忘れぬようにと生業であるお風呂屋の屋根をお寺と同じ唐破風か千鳥破風にしたのだと聞いたことがあります。
 世間の人は未だにお経は「死んだ人にばかり向けるもの」ぐらいにしか思っていませんが困ったものです。お経は釈尊の説かれた永遠普遍の真理、人間の本当に生きる道(法)ですからこの私へのメッセージです。
 釈尊がこの世にお出ましになられた時代 (二千五百年ほど前)も、今の時代も人間の争いや愚かさは変わりません。それどころか人 間の闇と愚かさの度合いは深く罪業は増すばかりです。それは真理の教え(光)に効果が無いのではなく、教え(光)に背を向き続けるこちら側の問題です。
お経をお勤めする最後には、どんな宗派でも次の言葉で締めくくられています。
  『願以之功德 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国』
(願わくは この功徳をもって 平等に一切 に施し 同じく菩提心を発して 安楽国に往生せん)
 人間の闇を打ち破る真理の光(教え)は、常に生きとし生けるすべてを包んでいるのだから、その光(教え)に出遇ったものは自分中心のものの見方が打ち破られて、共に存在するいのちへの目覚めから、共に生きようと願う歩みをするのである。これが仏教です。
 いまNHKの朝ドラ「ブギウギ」が好評で す。このドラマの始まりはお風呂屋さんからのシーンでした。戦中戦後と活躍したブギの 女王、笠置シズ子さんの人生をドラマ化した作品ですが、混乱する時代の中にあって常に 大衆とともにあり続けた主人公の生き方は、とかく感動を失い、なんとなく日々を過ごし している現代人にとって刺激を与えてくれる 内容です。
 罹災されている方々の窮状に心を寄せつ んの一日も早い復興を心から念じましよう。