仏教者として生きていますか___自分に
去る五月二十日夜に放映されたNHKテレビ『映像の世紀』は「殺人兵器カラシニコフ銃1億丁 戦火と憎しみの世界で巨大化したモンスター」というタイトルでした。
『人類史上、最も多くの人を殺したと言われるカラシニコフ銃、80年前、ソ連で秘かに生まれたこの銃は、誰でも簡単に扱え、故障知らずで、1丁10ドルから手に入るゆえに、世界に広がったのです。アメリカが敗れたベトナム戦争でも、アフリカの内戦の無差別殺戮でも、そして繰り返されるテロでも、使われたのはカラシニコフ銃だった。コントロール不可能までに巨大化したモンスターの記録である。』
「銃が悪いのか、それとも人間が悪いのか」
この言葉と映像によって伝えられたわずか四十五分ほどの時間は、言い知れぬ恐怖と憂いと問いをもたらすものでした。
そして同時に頭によぎったのは、ブッダ釈尊の真理のことば(教え)です。
『すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ』 (第十章 暴力)
『実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みの息むことがない。堪え忍ぶことによって、怨みは息む。これは永遠の真実である。』 (第十四章 憎しみ)
「映像の世紀」で、ある記者の言葉にも注目させられます。
『十年前、アフリカ大陸を三か月間旅する中で出会ったスーダンの青年。彼には十二歳から三年間、少年兵として戦った過去がありました。「あの頃は、人を殺すことになんのためらいもなかった。AK-47を持っていれば、いつの間にか自分が強くなったように思えた。異常な精神状態だったよ。」彼が語るように、銃は人間にとてつもなく暴力的にする力を持っています。ひとりが銃を持てば、対抗するために、周囲も銃を手に取り、それが社会の中で連鎖していく。壊れにくいカラシニコフ銃はどれだけ月日が経とうとも、使用可能な状態で残り続ける。そして、人と人が殺し合い、憎しみ合う悲劇は拡大していく。』
いま仏教者として、一人一人が現実をどう直視し、行動を起こすかが問われます。戦争はすべての人のいのちを奪い、町や村を破壊し残されたものの生活の場まで奪い、戦いはやがて終わります。勝者も敗者もないのに双方の死者は葬られ、生きるためにまた復興に向けた歩みが始まります。時の経過はまたどこかで戦火が起こり殺し合いと破壊が始まります。人類の歴史はその繰り返しなのでしょうか?
心に張り付いているのは、親鸞さまの「業縁(ごうえん)=行為、結果を引き起こすはたらき」による人間の行為の深い洞察です。
『歎異抄(たんにしょう)』は、親鸞さまの教えがその門弟唯円(ゆいえん)によって書き記された有名なお聖教です。誤った考えの生じたことを嘆く思いを述べている後半部分、特に第十三章はとても大事な章です。親鸞様が唯円に対して語り掛ける問答によって人間の善悪の行為の判定について次のように述べられています。
1.『業縁(ごうえん)なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて殺さぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし』
(どんなことでも自分の思い通りになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せとわたしがいったときは、すぐに殺すことができるはずだ。けれども、思い通りに殺すことができる縁がないから一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう)
2.『さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし』
(私たちは、縁にふれたら何をするかわからないものを、みな同じように持っているのだ)
先般カリフォルニア州バークレー市の本願寺仏教センターで開催された「日米仏教チャプレンシイの基礎」と題したワークショップでご一緒した大谷大学教授木越康さんは、これからの日本仏教の在り方に言及して「臨床仏教」という言葉を用いられた。その背景に「東日本大震災」で津波によって息子を亡くした母親との交流で「死んだら終わりですか?」の問いかけにこれまでと違う戸惑いをもたらすことになったと述べられました。
「あの日、大勢の人たちが津波から逃れる為、この閖上中学校を目指して走りました。街の復興はとても大切な事です。でもたくさんの人達の命が今もここにある事を忘れないでほしい。
死んだら終わりですか?生き残った私達に出来る事を考えます。」
この、わが子を失った母親の言葉に私自身も息をのまずにはおれません。
そして、あなたは仏教者として生きていますか?と死者から問われているのでした。