【不確かな私が 握りしめる正義】
不寛容時代とか、不寛容社会という言葉が聞かれるようになって久しくなりました。電車の中で泣いている赤ん坊の親を怒鳴ったり、CMやテレビ番組に過度なクレームを入れたりして、一昔前ならば、それくらいのことはと受け入れていたことが、許すことができなくなっているようです。
特にインターネットの世界においては、直接相手の顔を見ることがないので、心ない言葉があふれています。些細な過ちを犯した人を徹底的に追い込んだり、自分の意にそぐわない人を攻撃したりして、自らの「正義」を振りかざす、まさに正義中毒といった状態に陥っています。その結果、罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになるのです。このような先に行きつくのは、常に他者の目を気にして萎縮し、息苦しさを感じる社会です。
ある小学校五年生の女の子が書いた作文です。
「私の母ちゃん、バカ母ちゃん」
私のかあちゃんは、本当にばかです。いつも失敗ばかりしています。炊事と洗濯を一緒にするから、煮物の途中でシャツを干そうとしていて、煮物がふきこぼれ、火を止めて走ろうとすると、さおに通しかけたシャツは地面に放りだされます。シャツは泥だらけ。そして、煮物の鍋はひっくり返って台無しです。
「こんな私で悪かった。ごめんね、とうちゃん、勘弁な」
すると父ちゃんは、
「ばかだなー」
と言って笑います。そういう父ちゃんもバカ父ちゃんです。
いつかの日曜日、みんなが朝ごはんを食べていると、奥からあわててズボンと洋服を着ながら、カバンを抱えて茶の間を通り抜けていきました。
「ああ、もうだめだ。こりゃ、いかん」
とか言って、玄関から飛び出していってしまいました。
「まただね、しばらくしたら帰ってくるからね」
と、かあちゃんは落ち着いたもんです。
すると案の定、父ちゃんは帰ってきて、恥ずかしそうに、
「また無駄な努力をしてしまった。日曜日だというのに、ハハハハ・・・」
と言い訳を言っています。
そんなバカ父ちゃんとバカ母ちゃんの間に生まれた私が、利口なはずがありません。ついでに弟もバカです。私のところは、家じゅう皆バカです。
でも私はそんなバカ母ちゃんが大好きです。世界中の誰よりも一番好きです。私が大きくなったら、うちのバカ母ちゃんのような大人になって、うちのばか父ちゃんのような男の人と結婚して、子供を産みます。
そして私のようなバカ姉ちゃんと、弟のようなバカ弟をさずかって、家中バカ一家で、今の私の家のように明るくして、楽しい家族にしたいと思います。
バカ母ちゃん、そのときまで元気でいてください。
作文を書いた女の子の家族への愛があふれている作文です。「バカ」という言葉を使いながらも、そこに相手を蔑む気持ちや棘々しさは感じられず、むしろ親しみや温かさが感じられます。この家族の根本にあるのは、相手を認めていくということ、そして「お互いさま」という精神です。
親鸞聖人が和国の教主と敬われた、聖徳太子がつくられたと言われる「憲法十七条」にはこのような言葉があります。
われかならず聖(ひじり)なるにあらず、
かれかならず愚かなるにあらず。」
ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ。」
[私が必ず聖者なのではありません。彼が必ず愚かなのではありません。私たちはともに、凡夫にすぎないのです。]
自分の正義を握りしめていくと、それを物差しとして、相手を計り、評価し、区分けをし、裁いていくことになります。そうではなく、互いの至らなさ・不確かさを受け入れていくなかに、許し許され合う調和のある世界が広がっていきます。
また、聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真(この世にある物事はべて仮のものであり、仏の教えのみが真実である)」とも示されました。
「世間虚仮」とは、この世のすべてが無意味であるということではありません。ただし、それらを絶対にたのみうるものとするならば、そこには必ず揺らぎと破れが生じる、という事実を示しています。
私たちは、自分の人格や善性を頼みとして生きています。しかし、それらは状況ひとつで崩れ去ります。思い通りにならない現実に直面したとき、人は容易に不安と怒りに翻弄されます。ここに「虚仮」の相があります。
移ろいゆく世間の中にあって、ただ仏のはたらきのみが真実であると聞く。そこに、揺らがぬよりどころが定まります。自分を基準とするのではなく、仏の智慧に照らされた自分を問うていくことが、仏道を歩むということなのです。