奥秩父、丹沢、奥多摩の岩場と歩みを進めて、次に向かったのは谷川岳でした。
意図した訳ではありませんが、街の当時山好きの人が辿った典型的なコースのように思われます。
クライマーズクラブのT氏に連れられて、最初に行ったのが谷川岳一の倉沢でした。もう半世紀も前のこととて、記憶もあいまいです。
しかし、古びた写真を見返すと、朧気ながら当時の情景や、出来事がモザイクのように思い起こされてきて、懐かしいというか、愛おしい気持にさせられます。岩に入れ込んでいた時期は振り返ってみると青春時代のほんの一時期でした。なんでそんなに入れ込んでいたのかは、今となっては分からないところもあります。しかし、多くの山好きな人の記録をみると”山へのあこがれ”や”山への情熱” ”Strong impulse”はそれぞれに強くあり、理論的な理由など詮索する必要もないのかもしれません。
医学の勉強はそっちのけで山の事ばかり考えていたのが自分の青春時代でした。(その割には大した足跡も残していないけれど)
古い写真をみると一の倉沢初見参のことが蘇ってきました。多分まだ関越道もない頃、国道17号線をひた走り、暗い夜道を一の倉沢の出会いまで連れていってもらいテント泊したと思います。
明け方のまだ暗い一ノ倉沢をヒョングリの滝を越えて、ヘッドランプをつけて結構な岩場を先輩の後を追いました。テールリッジにヘッドライトの灯りが点々と行列を作っていたのが印象的でした。テールリッジを登り衝立岩正面壁の基部に着く頃には夜も明けてきました。初めて見上げる衝立岩正面壁の威容は覆い被さるようで圧倒的でした。
我々は、そこから左方向の南稜へ回り込んで、烏帽子奥壁の凹状岩壁に取りつきました。もちろん初心者なので、すべてセカンドで先輩に上から確保してもらいながらの登攀です。それでも、初本番ということで緊張していました。登り終わると、衝立岩の側面から懸垂下降して、コップ状岩壁へと継続しました。そこで初めての空中懸垂なるものを経験しました。意外と懸垂下降中の事故は多くて、アンカーが抜けたり、ザイルからすり抜けて墜落するケースもたまにあります。衝立岩では、クラブの先輩の女性クライマーが衝立岩正面壁を登ったあと、懸垂下降中に墜落して亡くなったそうです。おっかなびっくりしながら40mザイル一杯使ったように記憶しています。(実はそんなに長くなかったかも)
コップ状岩壁正面は衝立岩正面壁と並んでその初登攀争いが展開された有名なオーバーハングを有しています。
(詳細は下記参照)
その基部はコップの広場といわれ、なだらかな台地状になっていますが、もちろん平らではなくて、斜面の岩場なのです。そこを歩いていて、小生はいきなり小石を(?)踏んで危うくスリップしそうになりました。先行していた先輩の知り合いの岳人が「そこを動くな」と大声をあげ、小生を手引いてくれ難を逃れました。早速の一ノ倉での洗礼でした。
その後、度々一ノ倉沢を訪れるようになったのですが、スリップしたり、墜落したり思い返せば、よくいままで無事だったなー、と驚くほどです。そのようにして、青春の一時期谷川岳に足繫く通うようになりました。
敢えて、失敗談を披歴することもないかもしれませんが、そんな思い出のほうが多いので、いずれ一寸触れてみたいと思います。
谷川岳は2000mにも満たない山ですが、かつて大島亮吉が「近くて良い山」と紹介したように岳人のあこがれの山となっていきました。また川端康成の小説「雪国」は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」という有名な文で始まりますが、将に雪国へと境する長いトンネルの地下の土合駅ではその感を強く感じます。400段以上の階段を上って地上に出るのですが、特に冬場の上州側と越後側との景観は大きく違ってみえました。夜汽車に揺られ、長い階段を登ったり、はたまた暗い夜道を車で一ノ倉出合まで走ったり、思い出は千々に交錯します。
古すぎる山と写真で恐縮ですが、過ぎ去りし青春の思い出としてご容赦を。
English version:

お師匠さんのT氏と

凹状岩壁登攀後の空中懸垂

コップ状岩壁 基部