宿縁 六月号 中原寺

  [時代の変化の中で改めて問われる仏教の役割]

 あまりパソコンやIT関連に詳しくない人でも、「AI(人工知能)」という言葉を耳にすることが多くなったのではないでしょうか。あらためて調べてみると、AIとは、膨大なデータから、人間と同じように思考・判断・表現する機能だそうです。このAIの発達は今や私たちの生活には欠かせないもので、病気の早期発見や災害予測、翻訳技術、教育支援など誰もが知らず知らずのうちにその恩恵を受けています。
 そして最近では自分の悩みを相談する相手として活用している人も多く、ある調査では、気軽に相談できる相手として、約12%の人がAIを選んでいます。この数字は配偶者・恋人、友人、母親に次ぐもので、父親の2%を大きく上回るものとなっています。
 AIの進化は、私たちの暮らしを大きく変えつつあります。文章を書き、絵を描き、診断を補助し、時には人生相談の相手にもなる。かつて人間にしかできないと思われていたことが、次々と機械によって担われる時代になりました。そしていずれは、AIの導入によって、日本の労働人口のうち、約半数の仕事が20年以内になくなると予測されています。
 昨年の盂蘭盆会法要に出講いただいた仏教学者の佐々木閑(しずか)氏が、ご子息で数学者である佐々木斎生(ときお)氏との共著で『AIという鏡ーー人の価値とは何か』(法蔵館)との本を出版されました。仏教と数学という一見かけ離れた分野を歩むお二人が「AI(人工知能)」と人間がこれからどのように付き合い、生きていくのかという問題意識のなかで書かれたものです。
 その著書の中で、「AIの登場で生きがいの場所を奪われ、自分のアイデンティティを見失い、自らの価値をどこにも見出せず、何かを求めてもそれがどこにも存在しないという状態になりかねません。ここで『求める』というのは物質的なものだけでなく、精神的なものも含まれます。たとえば『一番になりたい』という欲求も、AIの出現によって、ゆくゆく絶対に叶わない望みになるでしょう。この意味で精神的な執着の対象まで失われていきますから、現代社会の価値観で言えば、私たちの居場所はどこにもなくなってしまうんですね。」と述べられています。
 科学は「どのように世界が成り立っているか」を明らかにしようとし、宗教は「なぜ生きるのか」「どう生きるのか」という問いに向き合います。しかし本来、この二つは競争相手ではなく、それぞれ異なる役割を担っていると考えることができます。
 そのことを示す有名な言葉として、物理学者のアルベルト・アインシュタインは、『宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である』と語っています。この言葉は、科学だけでは人間の生きる意味や価値を十分に支えることができず、一方で宗教も現実を無視した思い込みに陥ってはならない、という意味として理解されています。
 しかし、科学が進歩すればするほど浮かび上がる問いがあります。「何ができるか」ではなく、「何を大切にするのか」。「どうすれば成功するか」ではなく、「成功とは何か」。こうした問いは、科学の方法だけでは答えを出すことができません。
 たとえばAIは最適解を示すことはできます。しかし、悲しみを抱えた人にどう寄り添うべきか、人生の失敗や老いや死をどう受け止めるのかという問題に、唯一の正解を示すことはできません。そこには人間の苦悩や願いがあり、数値化できない世界があります。仏教は、まさにその世界を見つめ続けてきました。
 仏教は「人間とは何か」を問い続ける教えです。人間は知恵を持ちながらも迷い、善を願いながらも怒りや欲望から離れられません。どれほど文明が発達しても、この人間の姿は大きく変わりません。
 スマートフォンが生まれても孤独はなくならず、AIが発達しても悩みは消えません。科学は手段を与えてくれますが、生きる意味そのものを与えるわけではないからです。だからこそ、科学が発達する時代において宗教の役割は小さくなるのではなく、むしろ質的に変化していくのではないでしょうか。仏教が果たすべき役割は、「競争に疲れた人」「評価に苦しむ人」「失敗や老いや死に直面する人」に居場所を示すことにあります。現代社会では、「より速く」「より優秀に」「より効率的に」が求められます。しかし仏教は、人間の価値を能力や成果によって決めません。
 科学が発達すればするほど、人間は比較され、数値化され、評価される場面が増えるかもしれません。しかし仏教は、その評価の外側にある「あなたはあなたのままで尊い存在である」という視点を開いてくれます。科学は世界を変える力を持っています。けれども仏教は、人間がその変化の中で見失いがちな「自分自身との向き合い方」を問い続けます。科学が未来を照らす光だとするならば、仏教はその光の中で迷わず歩むための足元を照らす灯火と言えるでしょう。