【願いのど真ん中を生きる】
私たちは日々、「自分の人生を生きている」と思っております。自分の考えで選び、自分の力で歩んでいる、と。けれども、少し立ち止まって振り返ってみますと、本当にそう言い切れるだろうか、と問い直される場面があります。
誰かの一言に支えられたり、気づかないところで助けられていたり、数えきれない関わりの中で、今の自分が成り立っています。つまり、私たちは「自分一人で生きている」のではなく、絶えず、他者からのはたらきのなかで生かされている存在です。
ここで大切にしたいのが、「願い」という言葉です。それは、「ああしたい、こうなりたい」という自分の願望ではありません。むしろ、自分に向けられている他者からの願い、言い換えれば、「どんなことがあろうともあなたが大事、大切に思っている」というはたらきです。私たちは、すでにその願いの「ど真ん中」を生きています。
今年の三月に行われた、ある高校の卒業式での答辞が話題になっています。卒業生を代表して一人の男子学生が答辞を述べるのですが、そのなかで二人のお母さんへの感謝の言葉がありました。
その学生は一歳のときに自らを産んでくれたお母さんを病気で亡くされたそうです。お母さんの記憶はないものの、数年前に親戚から渡された一枚の封筒によってお母さんの思いに気づかされたのだそうです。封筒の表には「困った時の大次郎(学生の名前)へ」の文字がありますが、中には何も入っていない。お母さんが残りわずかしかないのちのなかで、息子が今後の人生で苦難にあった時のために手紙を書こうとしましたが、病状の悪化により書くこと叶わず亡くなったことをその時に知ったそうです。手紙の入っていない封筒ですが、終わりゆく最期まで自分のことを思い続けてくれた母親の心情にふれ、「大きくて優しい、温かい母からの愛を僕は受け取りました。手紙を残そうとしてくれてありがとう。」と、産んでくれたお母さんへの感謝を述べます。
答辞は続き、次に父親の再婚により三歳の時から自分のことを育ててくれたお母さんへの感謝を伝えます。そしてこの卒業式まで、照れもあってお母さんと呼べずに「あやこっち」と呼んでいたお母さんに対して「お母さん、今日まで育ててくれてありがとう。これまでの時間は何ものにも代えられない幸せな時間、人生の宝物です」との言葉。この答辞に卒業式に出席している多くの人が涙を流していました。
この学生は二人のお母さんの大きな愛情、大きな願いに包まれている自分の姿に気づいていたのでしょう。常に親の愛情のど真ん中にあることに幸せを感じ、素直に感謝の思いが生まれたのです。
たとえ思い通りにいかない日があっても、たとえ自分に失望するような出来事があったとしても、その私に対して、「どんなことがあっても大丈夫、あなたを独りにはさせない」と願うはたらきが、すでに向けられている。その中を、私たちは生きているのです。
つまり、私たちは「願いに向かって生きている」のではなく、すでに「願われているいのちの中を生きている」と言えるのではないでしょうか。このことにきづいたとき、「生きる意味」というものの捉え方が変わってきます。すでに与えられている願いの中に、私は生かされているのだと気づくとき、「このいのちは無意味ではなかった」と受け取ることができるのです。ここに、「見つかる」というよりも、「気づかされる」意味があります。そして、その願いは、決して条件付きではありません。うまくできたから与えられるものでも、立派だから認められるものでもない。できない私、迷う私、弱さを抱えたままの私に対して、なお届いているはたらきです。だからこそ、その願いに気づくとき、私たちは「こうでなければならない」という力みから、少し解放されていきます。
上田紀行先生は著書『生きる意味』のなかで、「この社会にはどこか中心があって、自分はその中心から遠く離れたところに押しやられていると感じている人は多い。しかし、私は私自身の“生きる意味”を創造し、私の生きる世界に意味を与える存在なのであり、世界の中心は私自身にあるのだ。なぜなら、私自身が意味を生み出す中心であることを認めるとき、私たちの周りには私だけでなくたくさんの中心があることがわかってくるからだ。」と仰られています。
そして同時に、こうも感じられてくるのではないでしょうか。
自分が願われて生きている存在であるならば、目の前の人もまた、同じように願われて生きている存在である、と。そのとき、他者との関わりも、少し変わってきます。評価や比較ではなく、「ともに願いの中にある存在」として出会い直されていきます。
私たちは、すでに願いの中に生きています。そして、その願いとは、他者からのはたらきであり、愛情です。
そのことにふと気づくとき、これまでの歩みも、これからの一歩も、確かな意味をもって受け取られてくるのではないでしょうか。