宿縁 九月号 中原寺 

   【泥の中でこそ開く花】

 
 浄土真宗本願寺派(本山は西本願寺)の関東における拠点となっているのが築地本願寺。この築地本願寺の現在の本堂は一九三四年に伊藤忠太の設計により、インド等アジアの古代仏教建築様式で建てられました。一見するとお寺には見えずに、美術館や博物館と思い境内に入ってこられる観光客もいます。本堂の入口には仏教寺院では珍しくステンドグラスがあり、そこには、色鮮やかな蓮が描かれていて、参詣者を迎えてくれます。また、境内の大きな鉢で蓮の花が栽培されていて、今年の夏もその大輪の花を咲かせました。
 古くから親しまれてきた蓮の花は、仏教との関わりが大変強い花でもあります。経典によると、お浄土には蓮華の花が咲き誇っていると記され、『正信偈』にも、さとりの世界のことを「蓮華蔵世界」とあらわし、真実信心を得た念仏者を「分陀利華(白蓮華のこと)」と讃えられています、また、浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来像は華座(けざ)という蓮の形の台座に乗っておられます。
 これほど仏教において蓮を大切にしているのは、蓮が持つその特性にあります。蓮の花は、高原の乾いた土地や清水のなかに咲かず、湿った泥の中に咲きます。あの美しい花を咲かせるためには、汚れた泥が必要なのです。そして、蓮は清らかで美しく、その泥には染まりませんが、常に泥の中に根を張ります。
 その様子を煩悩によって悩み、迷い、苦しむものを目あてとして、暗闇に光をあて清らかな悟りの世界から届き、はたらいてくださる阿弥陀さまのお徳を重ねあわせているのです。
 人生には、楽しいことだけではありません。悲しいこともある。腹の立つこともある。人を傷つけてしまうこともある。自分自身の愚かさに気づかされることもある。
 親鸞聖人は、そういうわたしたちの姿を否定して、「もっと立派な人間になりたいなさい」と教えられたのではありません。むしろ、そのような煩悩を抱えた私だからこそ、阿弥陀如来の本願の目当てなのだと教えてくださったのです。
 親鸞聖人はご和讃に、
無碍光の利益より
 恩徳広大の信を得て
 かならず煩悩のこおりとけ
 すなわち菩提のみづとなる

 (無碍光の人々を救おうとされるはたらきによって、すばらしい徳のある広く大きな他力の信心を得て、必ず氷のような煩悩も解け、そのまま功徳に満ちた水のようななとりとなる)
罪障功徳の体となる
 こほりとみづのごとくにて
 こおりおほきにみづおほし
 さはりおほきに徳おほし

 (罪やさわりが功徳のもとになる。氷と水の関係のように、氷が多ければ解けた水が多く、さわりが多ければ功徳も多い)
と、お示しくださいました。
 阿弥陀さまの光によって照らされることで、自らのあるがままの姿に気づかされます。あるがままの姿とは、どこまでも自分中心な思いを捨てられずに我が煩悩に振り回され、苦しみのなかにある私の姿。自己の本当の姿を知ることは悲しいことです。しかし、その悲しみは悲しみのままで終わるのではありません。悲しみは同時に喜びなのです。なぜなら、私の悲しみを私以上に悲しんでいてくださる阿弥陀さまがいらっしゃるからです。
 自ら煩悩を打ち消すことは非常に難しいことです。しかし、私の煩悩はそのままに決して妨げになることなく、阿弥陀さまの本願の光に包まれて、光の世界へと変えてくれる、親鸞聖人はそうお説きくださっております。
 浄土真宗の救いは、私のいのちを離れて、阿弥陀さまの願いがあるのではありません。まさに、私のいのちのただ中に、南無阿弥陀仏の声が届いている。だから私たちは、泥を恥じて、泥のないところへ逃げるのではなく、「煩悩具足のこの私を、見捨てずに願い続けてくださる仏さまがおられる」と聞かせていただくのです。「私が自分の努力によって蓮のように清らかになる」のではなく、どこまでいっても清らかになりきれない私のところに、清浄な世界より本願のはたらきが届いている、といただくなかに浄土真宗の救いの真髄があるのです。
 「泥の中に咲く一輪の蓮」
 その姿は、煩悩にまみれて生きる私たちの人生に、いつも届いてくださっている本願のはたらきを、静かに教えてくださっているのではないでしょうか。