梅毒・遠い思い出

大学卒業後、数年の内科研修を終わって千葉大学皮膚科に入局して、岡本教授の指導を受けることになりました。教授は性感染症特に梅毒が専門でした。その先代の竹内教授も梅毒が専門でした。しかし、教室員に特に性感染症の仕事を押し付けるということはなく豊富な臨床観察眼をもって、さまざまな疾患を教えるような風でした。それで、今にして思うと梅毒の大家を目の前にしながらボーッと過ごしてきて、その知識を吸収、発展させるようなこともなかったような忸怩たる思いがあります。
まだ駆け出しの頃、梅毒の患者が入院してきました。第2期顕症梅毒の患者さんでした。たまたま小生が受け持ち医になりました。入院してすぐに、患者さんの肛門周囲の扁平コンジローマの生検(皮膚を小さく切って病理検査をすること)をすることになりました。場所が場所だし、メスを持ちながらもたもたしていると教授が「自分がやる」と自ら検査を始めました。糸で縫合する段になって勢い余って教授は自分の指に針を刺してしまわれました。その後すぐに抗生剤を飲んで事なきを得たようでしたが、とんだ迷惑をかけてしまいました。その患者さんは印象的で肛囲のコンジローマがあって男性集団の仕事の人でしたので、MSMかと思いましたが最後まではっきり経緯は話してもらえませんでした。いつか尾上先生の講演で患者さんは相手の先生をみてこの先生なら話せる、自分のことを理解してもらえると信用した人にだけ本当の話をする、といったようなことを話されていましたが、正に信用されていなかったのかもしれません。躯幹、顔面にも小豆大位までの紅斑や紅色丘疹が多発して典型的な丘疹性梅毒疹でした。ペニシリン治療開始の後、発熱と皮疹の増強を示して、ああこれがあのJarisch-Herxheimer反応かなと思ったことを覚えています。貴重な症例を経験させてもらい、大阪まで研究集会まで連れていってもらって、纏めるようにいわれたのをほったらかしにして纏めずにお蔵入りさせてしまいました。岡本教授の研修講習会のテキストのその患者さんの写真を見るたびに自分の怠惰さを思い知り汗顔の至りです。そのせいか却ってその例は鮮明に脳裏に残っています。
 またある時は、ベシュライバーといって教授についてカルテに記入する係をしている時に中年女性が現れました。のどの奥の扁桃周囲に乳白色の白苔様の粘膜斑がみられました。小生が経験した初めてで唯一の粘膜疹でした。
 2期疹での手足の乾癬様の紅斑落屑も時にみました。普通乾癬は掌蹠膿疱症と異なり、手掌足底にはあまりでません。ただ、inverse typeといって逆に手掌足底に出ることがあります。時に病歴を聞くときに、そうかなと思ってもあまりプライベートなことも聞けず悩ましい思いをしたこともありました。いまでも聞いたり、まして検査して陰性だったら失礼か、などと躊躇することもあり未だにこの手の対応は苦手です。
 駆け出しの頃、1981年の丁度アメリカのMSMのグループやドラッグ常用者の間に奇妙な感染症が出だした最初の時からAIDSのことは教授から直に聞いていましたが、瞬く間に全世界に広がっていくとは思いもよらないことでした。でもあの頃AIDSの詳しい情報は国内で真っ先に知らされていたと思います。
 また、ある時、小生が野口英世のことについて、「先生、彼の研究は結局全て間違いだったのですよね。」などと知ったかぶりで教授に話すと「児島君、それは違うよ。彼が脊髄癆や麻痺性痴呆の梅毒患者の脳の組織の中から梅毒トリポネーマを発見したのは偉大な業績だよ。」とたしなめられたことがありました。その時から野口英世のことは気にかかっていました。最近彼の伝記を読む機会がありましたので、その破天荒な生涯について今度一寸書いてみたいと思います。
 最近、学会で性感染症、梅毒、HIVなどが気にかかるのはこのような経緯や忸怩たる思いが根底にあるためかもしれません。