金峰山

目の前に数葉の古ぼけた写真がある。金峰山で富士山をバックに撮ったものだ。まだ髪の毛はふさふさしているし、お腹も出ていない。頂上の五丈岩の上ではしゃいだものもある。ついこの間のようにも思われるが、もう40年もたってしまっている。昭和46年5月の連休を利用して奥秩父の金峰山に登った時のものだ。
近所の友人のMさんと、その友人で山に詳しいTさんに連れていってもらったのだが、これが私の本格的な山のデビューであった。その当時のいきさつはよく覚えていないが、ハイキング程度の山には行ったもののそんなに山に登りたいという気持ちはなかったと思う。中央線に乗って、小淵沢まで行き、小海線に乗り換えた。途中の南アルプスをみてこれから登る山ですか、などと頓珍漢なことを聞いていたように記憶している。信濃川上の駅から梓山行きのバスに乗り秋山で下車し、川端下部落を通り金峰山荘まで歩いた。翌日は沢伝いに残雪の残る山道を山慣れないおぼつかない足取りで皆の後を追った。金峰山小屋について初めて山小屋なるものに入った。薄暗い土間にダルマストーブが勢いよく燃えていた。大柄の山小屋の主人がてきぱきと動き回り、皆を誘導していた。その人が金峰山の愛好者の皆から「おやじ」と慕われる林袈裟夫さんだった。当時はいわゆる第一次登山ブームで、大勢の人々で賑わっていた。見るもの、聞くもの全てが初めてでベテランの山人が話す自慢話など、驚きの念で聞き入っていたように思う。もう記憶は断片的でおぼろげではあるが、一部はまるで映画の一場面のように今でも鮮やかに脳裏に浮かんでくる。ある荒れ模様の夜などは夜遅くなってからずぶ濡れで小屋に駆け込んでくる人、しっかりした足取りで甲武信岳を越えてきましたと平然という強ものなどがいて小屋はてんやわんやだった。連休の山小屋は大混雑でまともに仰向けにも眠れず、互い違いに横になるので目の前に他人の靴下が迫ってくる有様だった。またある時は八ヶ岳で遭難があり、小屋の無線に連絡が入り緊迫したやり取りに聞き入った。遠くに見える白く雪をまとった八ヶ岳は一層近寄りがたいベテランでないと行けない山に思えたものだった。山小屋は日中は登山者が出払って夜の野戦病院のような喧騒がうそのように静かになる。2,3泊しながら金峰山頂上の五丈岩に登ったり、山小屋の近くで岩登りの真似ごとなど教わったりして遊んだ。袈裟夫さんのストーブを麓から小屋まで担ぎあげたという話しや一日で金峰から雲取まで駆け抜けたという話しを聞き、あこがれとも尊敬ともつかない念を抱いた。下山の日は、風雨の中を皆が一団となって固まって進んだ。頂上から這い松帯をたどり千代の吹上げといわれる片側が絶壁になった所など正に風に吹き上げられながら必死で歩いたものだった。そして富士見平から増富温泉に下った。
その時以来、丹沢などに足繁く通うようになったから、やはりこの山行が山登り熱に火をつけたのだろう。その後は、時折ふらっと金峰山小屋を訪れたりした。袈裟夫さんは、ぶっきらぼうな佐久弁でよく来たなといい、その人なつっこい目で歓迎してくれたものだ。甘党で饅頭などに目がないので、お土産など持っていくと目を細めて喜んでくれた。またある時、丹沢で遭難騒ぎがあった時、一緒に居合わせた袈裟夫さんが鮮やかに担架を作り、皆をてきぱきと動かして遭難者を無事下山させた手際の良さはさずがと思ったものだ。その当時、金峰山小屋愛好会というのがあって、小生もその人達に混じって麓から酒樽を担ぎあげるのを手伝い正月を小屋で迎えたりした。大弛峠に向かって朝日岳の登りで胸を突くラッセルにびっくりしたのも今は懐かしい。その後はだんだんと怠惰になり、一番楽なコースを取ることが多くなった。峰越林道をたどれば、車で大弛峠まで歩かずに行ける。激しい山行の後などはぶらっと散歩気分で金峰まで行くのが好きだった。
写真を眺めていると、時の過ぎゆくのが速いのに驚かされる。世事にかまけているうちに四半世紀はおろか半世紀近くも過ぎ去ってしまった。もう随分長いこと金峰に行かなくなりあの頃小屋に集った人たちともご無沙汰になってしまった。不死身と思った袈裟夫さんも事故で亡くなったと聞いた。年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず とはよくいったものだ。五丈岩はちっとも変わらないのに自分の周りはすっかり変わった。
そのうち、またあの何となく心安まる大弛から金峰への道を歩いてみようかと思う。しかし一寸故郷に帰るのを躊躇するような変な心持ちもする。あの頃の金峰はそのままそっと自分の心の中にしまっておいて反芻したい気持ちにもなるのだ。金峰山は小生にとっては山に導いてくれた心の山なのだ。

 

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