リカルド・カシン 大岩壁の五十年

リカルド・カシン(Riccardo Cassin)
大岩壁の五十年 (50 years of alpinism)

リカルド・カシンは1909年生まれのイタリアの天才クライマーです。
1930年代には、アルプスにおける数々の困難なルートを初登攀し、近代のアルピニストの旗手といっても過言ではないでしょう。戦前に活躍したクライマーなので、過去の登山家といえるかもしれません。
しかし、1975年、66歳になってもあの世界で最も難関とされたローツェ南壁にイタリア山岳会の若いクライマーを率いて挑戦したように戦後もアルピニズムの第一線に立って活躍を続けていました。
この本は1977年にイタリア語で書かれ、1981年に英訳版が発行されました。これらを基に1983年に水野 勉氏が翻訳しました。
 著者はこの本を書いた経緯を本のはしがきに次のように書いています。
『「リカルド、なぜ君は自分の登攀について本を書こうとしないのだ。アルプス前山にはじまって、アルプスやドロミテの登攀のこと、さらに、輝かしい海外遠征と、書くことはいっぱいあるじゃないか」 わたしはしばしばそう尋ねられ、自分でもそのことをいく度か考えたことがあるが、それほど真剣には考慮しなかった。しかし、1975年のローツェ南壁の登攀に失敗して、軍用機で故国へ向かっていたとき、またもや、この問いかけがわたしをうるさく悩ましはじめた。・・・まったく皮肉なことだが、あのときこそわたしがクライマーとしての自分の生涯においてはじめて敗北感を味わったときなのだった。』
数々の成功と共に初めての失敗を経て山々が人知を超えた人生の教師であることを強く認識し、その長い登山経験を身内にたぎる熱い血潮と情熱で書き綴ろうと思ったと、いうようなことを述べています。実に山の真打ちが人生の円熟期に至って初めて書いたといった本なのですが若々しい躍動感に満ち溢れている不思議な本です。
  
カシンの初期の登山はロンバルディのグリニァというロック・クライミングのエリアから始まりました。17歳の時コモ湖の近くのレッコという町に移り住みその後終生彼のホームタウンとなりました。当初夢中になっていたボクシングをやめて短いが困難なルートを次々に制覇していきました。相棒はマリ・ヴァラーレ 、マリオ・デッロロ(愛称ボガ)などでした。より困難な課題を解決するためにこの頃からカシンはすでにピトンを単なるプロテクションとしてだけではなく、より積極的な補助用具として使い始めていました。マリの紹介でエミリオ・コミチに出合い、人工登攀の考え方やダブル・ロープなどのドロミテ・テクニックを学びました。それで、一部では彼らのことを「はしご職人」とけなしたりしました。
彼は次第にそのグリニァ山域より巨大で垂直にそそり立つドロミテ山域に目を向け興味をそそられていきました。
1935年には、彼の若きザイル・パートナーのヴィットリオ・ラッティと共にトッレ・トリエステの南東リッジを初登攀しました。二人はオーバーハングを越えた所に見つけた洞穴でロジンの臭いのするユリを褥として数時間のビバークをしました。「穏やかな8月の夕べには、月光が冴え、頭上には暗闇の中に大きな岩塔がそそり立っていた。ラッティにはそれまでの経験の中でも、心から愉快なひとときだった。今になってみると、これらの時間はさらに一層重要なもののように思える。彼は戦争の暴力の中で死んでいったからである。」と書いています。苦楽を共にした最愛の友への哀惜のこもった言葉です。オーバーハングを混えて、5級、6級の連続する困難なルートでした。
その後、二人はチマ・オベスト北壁を狙います。先の成功の勢いをかって祖国のためにもドイツ人との初登攀争いに挑みました。オーバーハングの続く垂壁を辿り、左方へ難しいトラバースをして、大クーロワールを登り頂上に達しました。嵐の中でのビバーク、後半は雪と氷の中での登攀でした。
1937年にはエスポジト、ラッティと共にピッツ・パディレの北東壁を登りました。オーバーハングの出口で落石に合いながら、また嵐のビバークに耐えながら登攀に成功しました。しかし、同時に合流して登攀したコモの2人組は疲労と寒さに耐えきれず息絶えました。
1938年は彼の最も輝かしい、金字塔となる初登攀の年でした。
ジノ・エスポジトとウゴ・ティッツォニとともにアイガー北壁を狙いました。しかしクライネ・シャイデックについてみるとすでに、ドイツ人とオーストリア人のパーティーが壁に取り着いていて、嵐の中を初登攀に成功しました。それには人間としては喜んだが、イタリア人としてはひどく落胆した、と正直に述べています。それで、アイガーの次に考えていたグランド・ジョラス北壁ウォーカー稜に狙いを定めました。
この登攀はカシンが常にザイルのトップを務めてルートを切り開いていきました。出だしのカシン・クラックはあまりにも難しく、その後の多くの登攀者は左手のレビュファ・バリエーションを登るとのことです。巨大な氷のジェードル(本を開いたような凹角)を越え、オーバーハングを避けて、振子トラバースを行い、灰色の岩塔の下のレッジ(小棚)に達し、そこで2回目のビバークをしました。天気は崩れ、雹や雪も降り出しました。しかし3日目の午後3時頃嵐の中をウォーカー稜のピークに立ちました。
 しばらくして、戦争が始まりました。彼はムッソリーニやナチズムと対抗すべく、パルチザン活動に携わりました。その戦闘の最中にラッティは命を奪われてしまいました。カシンも負傷しましたが、生き延びて軍功十字勲章をもらっています。
 戦後になると、カシンはイタリア山岳会レッコ支部長や、イタリア登山学校連盟会長などの要職を務めながら、それまで登っていなかった山や以前の山の再登攀を行いました。 
1954年にイタリアはデジオ教授率いるK2への遠征を行い登頂を勝ちえましたが、当初登攀リーダーと目されて教授と共にカラコルム視察までしたカシンはメンバーから健康診断の理由で外されました。しかし、彼はそれは建前で、実は教授がカシンに主導権や名声を取られるのを恐れて排斥したのではないかと述べています。(本の注釈では、デジオがカシンを、学術目的に脅威を与えかねない人物として考えるようになったともいえる、と書いてありました。真実はどうだったのでしょうか。)
1957年にはイタリア山岳会は今度はカシンを第2回イタリア・カラコルム遠征隊の隊長に選出しました。彼はマウリやボナッティを率いてガッシャブルムⅣ峰を征服しました。彼自身は登頂しませんでしたが、高所に耐えられることを確認し、K2の無念さを改めて感じました。頂上直下は4級から5級の難しさで、当時のヒマラヤでは最も困難な登攀でした。
1961年にはマッキンリーの南壁登攀に挑みました。若いレッコの仲間5人と共に困難な氷と岩壁を登り、全員登頂に成功しました。その下降は壮絶なものでした。体調を崩し、凍傷にかかった仲間をかばいながら、スリップしたり雪崩に巻き込まれそうになりながら、吹雪の中を全員なんとか下山しました。この成功はJFケネディーからも称賛の祝電を受けました。この登山はレッコの岩登りグループ「蜘蛛」結成15周年記念ともなり、兄弟愛と団結心を示したカシンの山歴の中でも特筆すべき最大の喜びであったと述べています。
1969年には、アンデスのマッターホルンとも呼ばれるヒリシャンカ西壁の登頂に成功しました。リッジから上部の岩壁は平均斜度65-70度で、垂壁やオーバーハングの部分もあったといいます。6000mを越す、高度で困難な氷壁に60歳で挑み、若者と行動を共にできるとは驚くべきことです。
 次に、カシンの関心はより高度で困難な課題に向いていきました。イタリア山岳会の会議で「K2、ガッシャブルム、南極以降の大きな遠征が行われていないのは遺憾だ」と述べ、残された最大の課題であるローツェ南壁への遠征を提案しました。そして、15人の精鋭隊員の参加を求めました。この中にはかのラインホルト・メスナーも含まれていました。
1975年3月、ローツェ南壁へと向かいました。しかし、壁は雪や氷ばかりでなく岩の崩壊も起こしていて、とても危険な状態でした。それで、以前日本隊が試登した南壁左側の氷稜を登攀することにしました。上部のキャンプにルート工作をしている中で、ベースキャンプを雪崩が襲い掛かり、装備や食料を散逸させてしまいました。しかし、残った装備を再点検し、ベースキャンプを移動し、登攀の続行を決めました。5月7日には第3キャンプの上、7500mの高さまで到達しました。しかし、小さな雪崩は第3キャンプを圧し潰してしまいました。これで、頂上に到達する時間もチャンスもなくしてしまいました。そうして、彼の初めての山での敗退の遠征は終わったのでした。

 そして、これが帰国の飛行機の中で彼が述懐した、この本を書く動機に繋がっていったのです。
 カシンはこの本の最後に「登山の発達と美学と」という項目を設けて、彼の登山哲学を吐露しています。

「アルピニズムの先駆者達でさえも、自分たちの目的を達成するために人工的手段に頼ることを気にかけなかった。モン・ブランを登るためにド・ソシュールは梯子を携行したし、ティルマンもマッターホルンにこれを持っていった。また、鋼鉄の鋲や引っ掛けかぎなどもカレルやウインパーによってマッターホルンで用いられた。」
「わたしは個人的にはフリー・クライミングから出発した。最初はピトンを確保のためだけに用いた。しかしまもなくそれを直接的補助用具としても用いるようになった。ダブル・ロープとあぶみを利用することによってのみ、わたしはグリニェッタやアルプスでいくつかのルートを開拓することが可能だった。それらは、当時のフリー・クライミングでは登攀不可能であったろう。はるか昔になったその当時にあって、多くの人びとがわたしを賞賛したが、もっと多くの人びとがわたしを非難した。わたしや仲間たちを「金物屋」と呼びさえした。」
 積極的な補助手段も否定しない彼ですが、ピトンを不当に多く使用して登ることは否定していますし、埋め込みボルトを使用した登攀は真のクライマーの興味をそぐようなものだと述べています。
「極度の困難に対する挑戦の基本的動機は常に、健康的な喜びと精神的高揚の追及であるべきだ。・・・さらに、クライミングは満足と正当な報いを与えてくれるものだが、それはけっしてメダルや褒章ではない。真のクライマーはそんなメダルや褒章などを心から毛嫌いするものである。」とも述べています。

カシンはその後も、現役クライマーとして、登山を続け、1987年、78歳の時には、ピッツ・パディレ初登攀50年記念としてカシン・ルートを再登しています。しかもマスコミの反応が遅いために1週間後にまた登りなおして写真を提供するほどで、とても並の老人のすることではありません。壁に多くの残置ハーケンが残されたのを悲しみながらもビバークしながら往時を懐かしんでいるのも実りの人生を感じさせます。80代の半ばまでクライミングを続けたといいますから正に超人です。
 
カシンは登攀者を詩人になぞらえる記述をしています。「わたしは本好きでもないし、詩をほとんど読んだことがない。けれども、詩人が日常生活で灰色の現実から、強烈なイマジネーションによって創造された世界へと逃れようとしていることを知っている。・・・詩に対するかなりの共感なしには、登攀の不愉快さ、疲労、危険などに対決することはできない。特に大岩壁に対してはそうである。」
「山にはどんなに鈍い心の持主でも驚いて心ふるえるような様相が無限にある。日を浴びて流れゆく雲は金色の輪にふちどられて輝く。雲の覆いを突き通して岩に剣のように当たる光線、それは鮮やかな色彩で石に生命を吹きこむ。風によってクーロアールをのぼる霧は、その特異な匂いをあたりにただよわせる。ピークがいくつもいくつも重なり拡がる広大な眺め。見る者の胸を息ができないほどしめつける、とあるドロミテの盆地の閉塞の恐怖。岩壁でのビバーク、などなど。」
この文章を読んだだけで、小生にはカシンが素晴らしい詩人に思えます。山岳の名文家は数多いのでしょうが、美辞麗句を連ねたものより、実直な登攀記録の中に一寸挿入される一文が心に沁み入ります。トッレ・トリエステ南東リッジのビバークでの記述などもそうです。人と天地の交錯がまるで一幅の絵のように瞼に浮かんでくるようです。
 また、カシンは書きます。『ヴィットリオ・ラッティとわたしがトッレ・トリエステの南東リッジの登攀から帰ってきたとき、握手を求めにやってきたクライマーの一人――名前を思い出せないが――が言った。「700メートルの岩壁できみは詩を書いたね」
そのとき、われわれは笑ったが、後になって、その言葉が正しかったことを知った。』
まさに、言葉ではなくても登攀作品そのものが詩なのでしょう。
 そういう目でみればカシンはアルプスの峰々ではまさに大詩人といっても過言ではありません。
カシンは前に書いたアンドレア・ヘックマイヤーと同時代の人でありながら、ボナッティ、メスナーなどの後世のクライマーの師表であり、現代にも活躍した時代を超越した稀有な登山家でもありました。

2009年100歳で亡くなりましたが、まさにアルプスの山々を十全に極め、あの世に旅だった素晴らしい山の一生と言えましょう。