ワルテル・ボナッティ わが山々へ

20世紀アルピニズムのレジェンドといわれる人の若き日の山行の記録です。
何で、今その読書感想文を、と思うと自分でも全くその理由を書けません。ただ、読む気になってその時間があったからというのも安直すぎるけど、もう10年近く前に亡くなってからずっと心に引っかかっていたというのもうそっぽいのです。
とにかくいつか書こうかなと思っていたその感想文(?)を。
ある雑誌の切り抜きをこの本の裏に挟んでいて、それをみると2011.9.13 81歳で(すい臓がんのために)死亡と書いてあります。
ただ、この稀代の天才アルピニストが活躍した期間は短く、1949年(19歳)のグランド・ジョラス北壁登攀から1966年(36歳)のマッターホルン北壁冬季単独登攀までの高々20年足らずです。この本はその中の1961年のモンブランフレネイ中央岩稜の遭難顛末までの記録が書かれています。
その活躍した時代から分かるように、ある世代から上のアルピニストにとってはレジェンドというか、むしろ神様のような存在かもしれませんし、若い世代の岳人にとっては単に過去の人、或いはそれ誰、といった感じかもしれません。

記録は17章からなっており、それぞれが時代の最先端をいくような画期的な登攀であったり、遭難寸前の限界的な登攀であったりで、その中のいくつかは偉大な物語あるいは、登山史を形作るものといっても過言ではないような山行ばかりです。
物語はいきなりグランド・ジョラス北壁の登攀記録から始まります。生涯の友人でザイル仲間であったアンドレア・オッジョーニとパーティを組んでいます。19歳での北壁第3登を成し遂げました。
グラン・カピュサン東壁はシャモニ、ミディ針峰からバレ・ブランシュの奥にひときわ高く聳えている赤い大岩塔です。21歳の若き日に4日間の苦闘の末に初登攀を成し遂げました。ただ、前年嵐のために途中で敗退したことで事前にルート工作をしたとか、ハーケンを残置し過剰に使用したなどとの批判を浴びます。しかしオーバーハングの続くこの岩壁で半分以上のハーケンを抜き取りながら、ボルト1本使わず登り切ったことは当時では想像を超える画期的な登攀でした。彼も悪天候のために失敗した僕らの登攀はすでに勝利に手がとどきそうに感じられていた時に、退却を強制された不運な試みとみなされるべきと述べています。
24歳の最年少で彼はK2イタリア遠征隊の一員に選ばれます。イギリス、フランスなどのヒマラヤ遠征の成功に遅れじとのイタリア登山界の機運が漲っての計画でした。登頂に当たり、最終キャンプに残ったのはアレッキ・コンパニヨーニ、リノ・ラチェデッリの2人でした。第9キャンプの彼らに酸素ボンベの荷揚げをしたボナッティとポーターのマディは上の2人が約束の場所より上にテントを張り、また日没後も居場所を知らせずに、「そこに酸素ボンベを置いて下山しろ」といったきり応答がなくなったため、着の身着のまま8000mの高所でビバークを余儀なくされました。そして後に彼の行為は自らが頂上に立とうとした抜け駆け行為であり、また勝手に酸素を吸ったと非難されました。(ボナッティは自らの名誉を回復するために裁判を起こし身の潔白を訴えましたが、ラチェデッリが誤りを認め、ボナッティの言い分を認めて、イタリア山岳会が公式見解を訂正したのは実に50年後の2004年のことでした。)
K2で心に痛手を負ったボナッティは1955年、ドリュ南西岩稜の壮絶な6日間にわたる単独登攀を成し遂げます。この本では明確には書いていませんが後に「K2登攀のあとの一種の買戻し行為だ。抗議だったんだよ。」と述べています。Z型確保という独特の自動確保をとりながら、ワンピッチごとに登降を繰り返しながら登っていきました。食料をアルコール燃料の漏れでダメにしたり、ハンマーで指を叩き血だらけになったりしながらビバークを重ねました。5日目になってどうしても越えられないオーバーハングにぶつかってしまいます。ここではザイルの端にこぶを作って投げ縄で岩の突起に引っ掛け虚空に振り子トラバースを敢行します。その後も幾多の振り子トラバースを繰り返しオーバーハングを突破して6日目に一般ルートからサポートに登ってきたチェザーレ教授らと再会しました。
その後、モンブランの南東面で初登攀を含め、多くの登攀を行いました。1957年プトレイ大岩稜初登攀、ブルイヤールの赤い岩稜初登攀、ブレンバ側稜、ポアールルート、マジョールルート、そして悲劇のフレネイ中央岩稜がこの本の最後の章になっています。その間にカシンが隊長を務めたガッシャーブルムⅣ峰初登攀、南米パタゴニア・アンデスでの登攀の記録も書かれています。ガッシャーブルムⅣ峰は8000mに手が届く難峰で、ワルテルとC.マウリは高度な人工登攀、Ⅴ級のクライミングを行い初登攀を果たしました。これは画期的なことで、ヒマラヤ8000m峰のバリエーション時代の先駆けとされます。
フレネイ中央岩稜では無二の親友であったアンドレア・オッジョーニを失いました。数年来温めていたプランでした。3人でトリノ小屋から出発した彼らはフルシュの避難小屋でマゾーらのフランス隊4人が同じ壁を狙っているのに出会いました。彼らの提案を受けて合同で出発することになりました。フルシュのコル、プトレイのコルを越えて、岩稜に取りつきましたが、出発から24時間で岩稜の2/5を登り、ビバーク翌日も順調でお昼頃には最後の尖塔の下部に達しました。ところが一転嵐が襲ってきました。雷鳴、風雪のために7人は小さな岩棚に釘付けになりました。わずか半日の晴れ間があればモンブランの頂上に到達できる位置でした。しかし、吹雪は60時間たってもやむ気配すらみえません。とうとう彼らは退却を決心しました。長く苦しい下降をしてプトレイのコルの近くで4回目のビバークを耐え忍びました。その頃から皆瀕死の状態に陥ってきました。一番元気なワルテルが先頭に立ち、ルート工作をしながら危険なグルーベルの岩場を越えてガンバ小屋を目指しました。ここから次々に斃れていきました。ヴィエイユ、ギョームさらにイノミナータのコルを越せずにオッジョーニも斃れてしまいました。コールマンは半狂乱の状態となり斃れ小屋迄たどり着いたワルテルとガリエーニが救助を求め、マゾーは救出されましたが、他の隊員は亡くなりました。
「ぼくは深い麻痺状態に陥る。目を覚ました時には、3時間が過ぎていた。仲間たちの遺体は、ヴィエイユをのぞいて、次々と収容された。「オッジョーニは死んだ・・・・」この言葉を聞いて、おさえがたい悲痛な気持ちに胸をしめつけられる。救援隊が発見したただひとりの生存者の親愛なマゾーは、ぼくに抱きつき、いっしょに泣く。」
という文でこの本は終わっています。
この遭難についても、新聞はまるでボナッティは自分だけが助かったかのように書きたてました。

この後、モンブラン プトレイ大岩稜北壁初登攀、グランド・ジョラス北壁冬季初登攀、など瞠目的な登攀を行いましたが、先にのべたようにマッターホルン北壁冬季単独初登攀を最後に山岳登攀の世界からきっぱりと身をひいてしまいました。
アルピニズムよ、さらば!・・・僕は決心した。山を下りることになるだろう。だが、谷間にとどまるかどうかははっきりしない。というのも、あの山の上で、べつの広大な地平線を見とどけたからだ。

彼ほど自分の意図したことと違って、その山での行動に非難、中傷を浴びた人も少ないかもしれません。すべてはK2での風評が付きまとっていたからかもしれませんが、彼が他人よりも抜きんでて肉体的にも山での精神力でも強く、他の人が斃れても最後まで生き抜けたから勘繰りややっかみがあったのかもしれません。時代を突き抜けた超人の悲しさかもしれません。「人事は棺を蓋うて定まる」とはよく言われる言葉ですが、ボナッティの評価は20世紀アルピニズムのレジェンドとして高まることはあっても薄れることはないように思われます。

K2のことがなければ、もっと違った息の長いアルピニストとしての活躍があったのかもしれませんが、逆にその故にこそ超人的な限界を超えるような爆発的な輝きがあったのかもしれません。

ただ、この本にしても世間の中傷、批判から自身の身の潔白を示す意味で書かれた部分はあるのかと思いますが、そういった外部事情なしに純粋に彼の山への情熱、活躍の部分だけが読み取れればいいのにと思います。しかしながら、ついその他の雑音を気にしながらの読書となってしまうのは、何か残念な気がします。それは読み手の“下衆の勘繰り”のなせるわざかもしれませんが。